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前編 聖女はやさぐれた

焚かれた薪がぱちぱちと爆ぜる音が、広場の空気を張り詰めさせていた。

群衆のざわめきと罵声、その熱に似た視線。

その中心に磔にされた少女、リュシエラはただ静かに空を見上げていた。


白紫色の長い髪が風に揺れる。

彼女の表情に怯えも、悔しさもない。ただ、燃え尽きることをすでに受け入れた者の、静謐な諦めがあった。


「魔女リュシエラよ!貴様は神を騙り、悪魔と契約した罪により、火刑に処す!」

神殿の女司祭バーバラが宣言すると、群衆が一斉に憎悪を叩きつけた。


「魔女め!」

「乙女様を呪った罰だ!」

「偽聖女!」


「リュシエラさま・・・」

絢爛なドレスをまとった星の乙女、ペリエリナは王子ヴォルデミの隣で、はらはらと煌めく涙を零しながらリュシエラを憐れんでいる。

だがリュシエラは確かにみた、彼女が顔を覆う瞬間に見せていた勝ち誇ったように微笑んでいた醜い笑顔を。

その笑みに、どれほどの人々が救われると錯覚しているのだろう。

その笑みに、いくつの命が裏切られたのだろう。


リュシエラは、祈ることしか知らない子どもだった。

生まれてすぐに教会前に捨てられていた。

名を与えられ、孤児院に預けられたが、その場所で彼女は「愛」というものを知ることはなかった。


周囲の子どもたちは強く、声が大きく、鈍い。

彼女のように静かで大人しい子どもは格好の標的だった。

「よこせよ、それ」

「おまえ、気持ち悪いんだよ」

食べ物は取り上げられ、ベッドの毛布は剥がされ、名前すら呼ばれない。

リュシエラはただ祈っていた。

誰かが救ってくれることを、子どもらしくない静けさで。


だが神はリュシエラの祈りに答えず、黙していた。

そんなある日、腹を空かせて路地裏で座り込んでいたリュシエラに、ふわりと甘い匂いが舞い込んだ。


「おや、おまえさん。どうしたんだ。おなか、空いてるのか?」

声をかけてきたのは、白髪を後ろで束ねた小柄な老紳士だった。

手には、まだ湯気の立つふかふかのパンが握られていた。

返事ができないリュシエラの手をとって、隣にいたふくよかな老婦人が微笑んだ。


「ほら、おいで。遠慮はいらないよ。お腹、空いてたんだろ?」

差し出されたそれを、リュシエラはむさぼるように食べた。

そのパンはリュシエラが生きていた中で涙が出るほど、美味しく温かかった。


二人はパン屋を営む老夫婦だった。

彼らの子供は事故で亡くなり、家族との思い出を抱えてひっそり生きていた。

虐げられてるリュシエラを不憫に思い、引き取りたいとまで言ってくれたが、夫婦はすでに老齢で生い先が短いことを理由に、リュシエラを育てることはできなかった。


「でもね、リュシエラ。いつ来てもいいんだよ」

「パンを焼くの、手伝ってくれるかい?」


リュシエラが訪ねるたび、夫妻は愛情をもって迎えてくれた。

パンを一緒に捏ね、味見をし、笑いあった。

その時間だけが、リュシエラにとって“世界のすべて”だった。


ある日、いじめっ子たちがパン屋の前まで追ってきたことがあった。

「いたぞ、あの白髪!アイツだけパンもってやがる!」

「泥棒だ!つかまえろ!」

その瞬間、おじいさんが店の奥から出てきてゴンッと躊躇なく子供達にゲンコツを落とした。


「わしの娘に手を出すとは、どこの不届き者だ!」

「「う、うわぁぁぁん!!」」

「次やったら、ニ度とその口でパンが食えんと思え!」

怯えて逃げていった少年たちを見送りながら、彼はリュシエラの頭を優しく撫でた。


「もう怖くないぞ。お前のこと、パンの神様がちゃんと見てるからな」


またある日、おばあさんと一緒にパンをこねていれば彼女は優しく笑いリュシエラの手を包み込んだ。


「小さくてあったかい手だねえ。こねるのに向いてる。パン屋さんに向いてる手だよ」


その言葉が、ずっと心に残っていた。

あの日あの時、ふかふかのパンと、優しい手だけがリュシエラに「愛」という言葉を教えてくれたのだった。


二人みたいなパン屋になりたい。

それが夢だった。


けれど“奇跡”が起きた瞬間、その夢は奪われた。

リュシエラは神の光に選ばれて“聖女”となった。


聖女として祀られ、王都へ送られ、神殿に収容される、

夜を徹して祈り、雨を降らせ、病を祓い、敵国の災いを鎮めた。

誰にも頼らず、誰にも労われず、ただ“そうあるべきだから”と消耗されていく。


「だって聖女でしょう?」

「お前が祈らなきゃ、国が滅びる」


そして、星の乙女が降り立った。

星の乙女は、次々と革新的な言葉を口にして国を発展させ、貴族も民さえも魅了した。

でも、あの子は何も祈らなかった。

ただ華やかに振る舞い、王子の手を取り、笑っていた。


そしてーー。


「聖女さまが……私に嫉妬して、呪いをかけたの」


それが、全ての始まりだった。


薪に火が点けられる音が、乾いた破裂音を伴って空気を裂き炎が徐々に大きくなり、リュシエラの視界の下端が赤く染まっていく。

群衆の喚声は最高潮に達し、聖女の末路を見届けようと歓声すら混じっていた。


「燃やせ!偽者め!」

「天罰だ!」

「乙女様こそが本物の光だ!」

リュシエラは動かぬ両腕を磔柱に縛られたまま、ただ前を見つめていた。

風が吹く。白紫の髪がはらりと顔にかかり、頬を撫でるように流れた。


誰も気づかなかった。

彼女の目が、ほんのわずかに潤んでいたことに。


熱が近づく。足元から立ち上る焦げた空気が、肌にまとわりついてくる。

あまりの暑さに呼吸が浅くなり、喉がひゅっと鳴った。

だが叫びも悲鳴もない。

だって苦痛よりも、先に来た感情は怒りなのだから。


「……私だって、聖女になんて選ばれた口なかった」

心の中で、誰に向けるでもない声が響く。


「あんな夢みたいな時間をくれたくせに。なんで、それを取り上げたの」

歯を食いしばる。

涙は流れなかった。痛みも、怖さも、とうに凍りついていた。


「ちくしょう……神のバカやろう……!」


やがて炎は柱の中腹まで迫り、布に火が移りはじめた。

パチ、パチ、と乾いた音とともに、彼女の聖衣の裾が黒く焦げていく。


視界の隅がぐにゃりと歪む。

熱で涙が滲んだのではない。

これは──意識が、焼かれているのだ。


手も足も、もはや自分のものではなかった。

皮膚の奥に焼け爛れるような痛みが走る。

けれど、リュシエラの心はそこにはなかった。


──夢を見ていた。


あのふかふかのパン。

おじいさんの大きくてゴツゴツした手の心地よさ

おばあさんの優しに満ちた声

こねた生地が手に吸い付く感触。


神に選ばれなければ、(リュシエラ)の人生は。


そして、そのまま。

リュシエラは、焼けて死んだ。


 


意識が、すとんと落ちる。

身体の感覚はなく、音も光も色もない。

全てが無に包まれた暗黒の中、リュシエラは膝を抱えて、うずくまっていた。


「……もう、いいよ」

祈らなければならない。

そう教えられてきた。

でも、もう祈る神はいない。あんなに祈ったのに見殺しにした神なんて、いるものか。


不意に、空間のどこかが、ふわりと明るくなった。


それは最初、光の粒だった。

塵のようにきらきらと舞いながら、少しずつ集まり、輝きを強めていく。

音もなく、熱もなく、ただ“存在”だけを感じさせる光の塊。

そして、聞こえた。


「我が愛し子、リュシエラよ」


その声は、まるでどこまでも澄んだ湖の水面のようだった。

けれど、その透明さが、かえって彼女の心を締めつけた。


ああ、まただ。

この声が、(リュシエラ)の人生を狂わせた。


リュシエラは、ゆっくりと顔を上げた。


そこに立っていたのは、人の形をとった“神”だった。

眩い光をまとい、慈愛の笑みを浮かべていた。

まるで、親が迷子の子どもを見つけた時のような、安堵と喜びを纏っていた。


でもリュシエラの目に映るその姿は、どこまでも他人だった。



姿を現したのは、一見して人とも神ともつかぬ、神秘的な存在だった。

髪は粒子のように煌めき、肌はまるで光そのもの。衣は風と星の織物でできているようだった。


それは、かつて彼女が“祈り”を通して感じていた“神”の気配そのものだった。


「リュシエラ、我の愛しい子よ」

声は耳で聞くのではなく心の内側に染み込むように響いた。

だがリュシエラの目は冷えていた。

その声に何一つ、心を動かされてはいなかった。


「……もう“愛し子”なんて呼ばないでくれる?だって神様の愛する民にこうして殺されたんだもの」


神は静かに目を伏せた。

だが、その神々しさは少しも揺らがない。


「……お前を陥れたのは、“星の乙女”ではない」

「…は?」

「彼女の魂は、本来なら“ペリエリナ”という清らかな子のものであった。だが異なる世界から来た異物が、その座を奪ったのだ」

「奪った、って横割りしたってこと?」

「ああ、そうだ。彼女は“地球”という名の別の世界から来た者。その魂はこの世界と馴染まず、多くを歪めた」


「……地球?」

リュシエラは、かすかに興味を示した。

神はその反応を見逃さず、手を振ると、空間に水面のような膜が現れた。


そこに映ったのは騒がしく光る街、空を飛ぶ鉄の箱、人々が指で光の板を操作する姿。


「ここが彼女のいた世界、“地球”。

そして、彼女が歪んだ幻想を抱いた原因“乙女ゲーム”という娯楽だ」


映像は切り替わる。

いくつもの美形の男たちに囲まれ、選ばれる“ヒロイン”と呼ばれる存在。

煌びやかな衣装、胸をときめかせる恋、争いのない日々。


神は言った。

「ペリエリナ、いや星宮 絵里奈は、この世界が自分にとっての“ゲーム”だと信じている。

彼女にとって、国も人もお前ですら“ルートを邪魔する障害”だった」


リュシエラは、映像をまっすぐに見つめていた。

だが目を輝かせていたのは、そこではなかった。


「……ちょっと待って。あれ、あの手に持ってたのなに?」

映像内では大きな光を発する板の前で、女の子が焼き立てのクロワッサンをかじっていた。


「なに、あのふわふわのパン。外がパリパリで中がもちもちしてるやつ……なにそれ、ずるくない?」


「……クロワッサン、という名の菓子パンだ」

「くろわさ?え?え?バターを折り込んで作るの?え、待って、すごくない?あれってどうやって層に……えっ、しかも黒い豆、あんなに見麗しい豆を入れてるの?なにその概念!」


リュシエラは完全にパンに夢中だった。

乙女ゲーム?異世界転移?ルートを邪魔する障害?

そんなものより、地球のパン文化の方がよっぽど衝撃だった。

神はそんなリュシエラに若干の不安を感じながらも、話を戻そうとする。


「……リュシエラ。世界は今、揺らぎの中にある。お前を失ったことで、この世界の秩序は破綻しつつある。

だからこそ、もう一度“お前の祈り”を必要としている」


その言葉に、リュシエラの瞳から光がすっと引いた。

口元に浮かんだのは、かすかな笑み。

だがそれは冷たく、乾いていた。


「また使い捨てにするつもり?

祈って、尽くして、最後は火をつけられてさ。

私、もうあなたもあの国も、どうでもいいんだけど」


神は言葉を失った。

だが、次の瞬間、何かを決意したように手をかざす。


「リュシエラ、お前の祈りが必要なのだ。どうか世界を救っておくれ」


そう言った瞬間、空間がぐにゃりと捻じれた。

世界が反転する。上も下もない混濁の渦。

意識が引き裂かれそうになる中、リュシエラは最後にひとこと、吐き捨てるように呟いた。


「──“祈らない”って言ってるじゃない、神のバカやろう」





世界が反転するような感覚から目覚めたとき、リュシエラは既に聖女の部屋に戻っていた。

日付を見れば、今は二年前。

星の乙女が現れる、ほんの少し前の時間。


まるで悪夢だったすべてが“なかったこと”にされていた。

だが、あの炎の痛みも、神の言葉も、決して幻ではなかった。


リュシエラは静かに拳を握った。

目の奥が冷たく燃えていた。


「二度と、この国のために祈るもんか。

これからは、自分のためだけに時間を使うんだから」


信仰は枷だった。

国も神も、彼女を燃やしたのに、また“救い”を求めて差し出そうとする。


冗談じゃない。

星の乙女が来る前に、この国を出る。

それも、二度と戻れないくらい遠くへ。


「とは、言ったものの問題は、お金だよね」

聖女という立場で働かされてきた彼女には、報酬という概念がなかった。

衣も食もすべて“施し”。

持ち物は祝福された法衣と、空の小箱だけ。


だが彼女は知っている。

神殿内のどこに、誰が、どんな私財を隠しているかを。


「今まで無償で働かせれたんだもの、ちゃんと報酬は貰わないとね?」

 

数日後。

神殿の宝物庫には空の棚と、リュシエラからの“引退の書き置き”が机の上に残されていた。


「 間もなく星の乙女が現れるでしょう。

乙女がこの地を守り、繁栄へと導くことを祈っています。

私はこれをもって、聖女の役目を引退します。 」


書き置きも完璧。

リュシエラは満足気に笑い、聖女を示す衣服を脱ぎ捨て、ゴミ箱から拾ったワンピースと大きな皮鞄を肩にかける。

中には今までもらっていなかった報酬金をたっぷりと入れて。


行き先はすでに決まっている。

まだ聖女になる前に、老夫妻が教えてくれた海を渡った先にある街のことを。


「海の街“ゴルドラージ”。私の再出発地点はここよ」


リュシエラは夜が明ける間際に、神殿を抜け出し荷馬車に紛れて都を離れた。


星の乙女が現れるまで、あと一月。

その間に消えれば、追手も立たない。

“聖女がいなくなった”と気づいた頃には、誰も彼女の行き先を知る者はいない。


野を越え、森を抜け、小国を通り抜けて港町リステールへ。

言葉も通じぬ異国の関所では、かつて神に授けられた力の残滓をほんの少しだけ使い、“見えない者”として通り抜けた。


もはや神の加護など願わない。

だが使えるものは使う。

それが、今のリュシエラだ。


港から出る定期船に銀貨を数枚握らせ、片道きりの航路に身を乗せた。

目指す先は、神を必要としない国──ゴルドラージ。




海を越えた国、ゴルドラージは神頼みなど鼻で笑うような、実力主義の国。

神殿は閑散とし、信仰はほぼ形骸化していた。

そんな国が神に祈るときがあるとすれば、嫁が出産するときと病床の枕元くらいだという。


初めて見る港の喧騒に、リュシエラは胸を躍らせた。

ごつごつとした石畳、海の匂い、飛び交う叫び声、異国の香辛料の香り。


「……ここなら、祈らなくても生きていける」

が、ギュルルルルと感動の間際にリュシエラの腹が鳴る。

そういえば朝から何も食べていないことを思い出した。


「なにか……なにか食べたい……」

見渡せば、賑やかな通りの端、ひっそりと佇む小さなパン屋があった。

看板の絵は薄れていたが、どこか懐かしい雰囲気。

まるで昔、優しくしてくれた老夫婦の店に似ていた。


吸い寄せられるように店の扉を開けた、その瞬間。


「う、うわっ!?煙っ……!?」

厨房の奥から立ち込める黒煙。

慌てて中へ飛び込んだリュシエラの目に飛び込んできたのは真っ黒に焦げたパン、それを前に項垂れる細身の青年だった。


「……パンが……一体どこで配合を間違えたんだ」

男は完全に打ちひしがれていた。

が、背後にいるリュシエラに気づくと目を見開き、焦ったように頭を下げた。


「お、お客さん!?すみません、うち今もう閉店なんです、というか……その、パンが、あの、ないんです」

確かにパン棚はガラガラで、あるのは机に並んだ炭火のパンだけ。

リュシエラは呆れながらもどこか懐かしい気配に、ふっと微笑んだ。


「焦がしたパンは食べたくないけど……焼かせてくれるなら、話は別」

「……え?」

「私にパン、焼かせてくれない?」

 

男の名はカイネ。

カイネの両親は、パン屋を営んでいたが少し前に他界してしまったそうだ。

息子の彼は、違う才能を買われ一度は国外で職人補佐として働いていたが、両親が遺した思い出の場所を守るため戻ってきたという。


だが、料理のセンスはからっきし。

パンは焦がす、必ず焦がす。もはや呪いレベルで焦がすそうだ。

そのためパン屋は閉店寸前らしい。


「まずは、久しぶりにアレを作ろうかしら」

生地に塩を加えるのは、素材の味を引き締めるため、そこまではこの世界でも知られていた。

だがリュシエラはそこへ更に「レモンの皮をすりおろして加える」という手法を取った。


「酸で酵母の働きが一時的に抑えられるけど、ゆっくり発酵させれば、香りが立つのよ」

粗塩とレモンの皮を混ぜ込んだ小麦生地を低温でじっくり寝かせ、発酵時間を調整することで、香りがより引き立つ。

生地を捏ねるたび、ほのかに柑橘の香りが漂い、焼きあがったパンの皮はカリッと香ばしく、中はふんわりと軽やかになる。


もう一つは、老夫妻が教えてくれた思い出のパン。

小麦粉によく潰した豆のペーストを加える。

加水量は控えめにする。

生地が重くなる分、オイルと砂糖を控え、豆そのものの甘みと香ばしさを活かすよう調整。

発酵時間もやや長く取ることで、生地が重さに負けず、しっかりと膨らむよう調整する。

そうすると焼き上がったパンはもちっとした食感で、腹持ちもよく、力仕事の多い人々に「昼に一個で夕方までもつ」と大評判だった。


生地をこねる度に、リュシエラの中で思いが弾けていく。

そして焼き上がった塩とレモンの発酵パン、豆を練り込んだ高タンパクなパンにリュシエラもカイネと目が輝く。


「なんだこれ……!こんな美味いパン食べたことない!?」

ガツガツとパンに食らいつくカイネを尻目にリュシエラは焼き上がったパンを一口食べる。


「うん、美味しい…ほんと、美味しいよ」

リュシエラ、と笑う老夫妻の顔が浮かぶ。

聖女に選ばれてから間も無く二人は流行病にかかり亡くなった。リュシエラは何度も二人の墓に行きたかったが、仕事を押し付けられ、一度も行くことができなかった。


あんなにリュシエラを慈しんでくれたのに、なにも出来なかった。

でも、どうしてだろう。

不思議といま、二人が側に居て笑ってくれてる。

そんな気がした。


「…ところで、君の名前聞いてなかったんだけど」

パンを食いつくしたカイネは改めてリュシエラに向き直る。

リュシエラもパンを作る事しか頭になかったので、今更ながらの自己紹介となった。


「え、っとリネ、リネよ。ちょっと訳があって、ついさっきこの街に来たの」

「ふぅん?向こうでもパン焼いてたの?」

「子供の頃に教わったの」

とくに豆パンは、リュシエラ、いやリネにとって思い出のパンでもある。


「あのさ、お願いがあるんだけど」

「え、なに?」

「私にここでパンを焼かせてくれない?あと、ちょっとだけここにいさせてほしいな」

リネの申し出にカイネは驚くしかない。

正直カイネは料理スキルはマイナスなので、このままではパン屋は閉店の一択しかない。

せっかく両親の思い出のパン屋を自分の所為で無くすなんて絶対に嫌だった。


「それくらいなら喜んで!これからよろしく!リネ!」

「うん、よろしく!カイネ」


こうして、リネとカイネでパン屋再建が始まった。




「で店の名前なんだけど……“はぴはぴパン工房”ってどう?」

「………………………………は?」

翌朝、保管庫の奥から小麦粉を担いで出てきたカイネは、まるでパンを黒焦げにしたときと同じような顔をしていた。


「だって、“はぴはぴ”だよ?幸せってこと!パンって幸せな気持ちになるじゃない!だから、“はぴはぴ”!」

リネは胸を張り、手描きの看板ラフを掲げる。

そこには、ふかふかのパンと一緒に笑顔の小鳥のイラストが。


「……いや、それはわかるんだけどさ。けど、もっと……こう威厳とか、職人っぽい響きとかさ……」

「“はぴはぴ”に威厳、あるよ?」

「本気でそれでいくの?」

「うん!それでいくの!!」

元々、今の店の名前を変えようと言い出したのはカイネだ。

そして名前を考えてくれると名乗り出たリネに任せたのもカイネだ。

なので、リネがそれを決めたのならカイネには何も言えないのであった。


こうしてパン屋は、正式に「はぴはぴパン工房」として再出発をすることとなった。


「ねぇカイネ、私“くろわさん”ってやつ、試してみたいんだけど」

パンの仕込み中、リネがふいに言った。

“くろわさん”とは、神に見せられた地球の光景の中、焼きたてのパリふわパンを女の子が頬張る姿に強烈な印象を受けて記憶していた、あのパン。

正しくは「クロワッサン」だが、記憶が曖昧なので名称も少しズレている。


「なんか呪文みたいな名前だな。それ、どんなパン?」

「たぶん、バターを生地に何重にも折り込んで層にするの。

外はカリッ、中はふわっとしてて……」

「そんな夢みたいなパンある!?」

リネは勢いで語るが、バターの量や折り込み工程、焼き加減もすべて勘と記憶頼りだ。


「……作る。絶対作る。パンの神に誓って!」

この瞬間、リネの瞳は神殿で祈っていた頃よりずっと輝いていた。



何度も焦げたり、層が潰れたり、水分が飛びすぎてパサついたり。

厨房はバターでべたべたになり、カイネは「俺、工房の修理から始めたほうがいいんじゃ」と青ざめていたがご愛嬌。

だがリネは諦めなかった。


「甘くて、ふわふわしてて……でも噛むとじゅわって、バターが広がる……あのクロワサンってやつ……絶対この国にも通じるはずなんだ!」


そしてついに、試作成功。

外はパリパリに焼き上がり、中はしっとり層が重なったパンの断面。

そこにリネはさらに、別世界の発想を取り入れた。


「ここに“甘い豆”を入れようと思うの」

「え、甘い豆!?いや、ちょっと……合うのそれ?」

「甘い豆とバター、合うのよ。絶対に!甘じょっぱいって概念、こっちではまだ珍しいでしょ?」


焼き上がったそれは、ふわふわ、パリパリ、あまじょっぱい衝撃のハーモニー。

恐る恐るとカイネは一口齧るも。


「……ッ!?な、なんだこれ!?」

口に広がる甘い豆のやわらかさと、溶けかけたバターの塩気、サクサクの皮の食感。


「なんだこれ……!うますぎて、泣きそう!」

「でしょ!」

胸を張るリネに、カイネは感動でしばらく無言になった。

その日、ふたりは試作品を半分ずつかじりながら、厨房の床にぺたんと座って、しばらく動けなかった。


「パンって、すごいな……」

「うん。パンは世界、変えられるよね」

そうして誕生したのが、「やみつきクロワサン」

リネのパン革命、第一歩だった。




「よしっ、開店……!」

翌日、小さな鐘の音と共に「はぴはぴパン工房」の扉が開かれた。

看板はカイネの手作り。

リネの要望により、文字は可愛らしく丸っこい字体、パンのイラスト付きだ。

カイネは取り付けながら何度も「マジでこれでいくのか?」とぼやいていたが、いまや店の顔である。


リネは開店前にせっせとパンを焼いた。

塩とレモンの発酵パン、豆パン、クロワッサン、そして新作の「あんこ入りクロワサン」

どれも焼き上がりは完璧だった。香りも抜群。

リネの胸は少しだけ高鳴っていた。


「さぁ来い!ゴルドラージの人たち!食べたらきっと驚くはず!」

扉のベルが軽やかに鳴る。

……が、来ない。

しばらくして、隣の果物屋に人が集まりはじめた。


「はいよーっ!本日甘くてうまい桃が半額だよー!」

市場の声が、容赦なく響く。

時折パンの香りに鼻をひくつかせた人が前を通るも、ちらっと見るだけで素通りしていく。


昼前、リネは笑顔を貼りつけながら黙々とパンを並べ直していた。

だが、客足は変わらない。


カイネはその様子を、厨房の陰から見ていた。

言葉をかけようか迷っていたが、リネの眉がかすかに揺れているのに気づき、そっと厨房に戻る。


誰も来ない。

焼きたてのパンたちは、美しく並んだまま沈黙している。


「……パン、食べてもらえなきゃ意味ないのに」

ぽつりと、リネが呟いた。

あの神にも、かつての国にも、星の乙女にも何も期待していない。

でも、パンだけは信じていた。


「なんで……香りを嗅いでくれたら、絶対惹かれるのに……!」

そのとき、ふいにリネの前に影が差す。


「匂い……か」

振り向けば、カイネが腕を組みながら立っていた。


「じゃあ、匂いを嗅がせればいいんじゃない?」

「……え?」

「屋台。ああいうとこで、パンを炙って、香ばしい匂い立てて……興味持たせて引っ張る。どう?」

「それ、天才じゃない!?」


思わぬアイディアに萎れていたリネは目を輝かせて立ち上がる。


「よっしゃーっ、やってやろうじゃん!カイネ、すぐ作れる!?」

「……まぁ、三時間くれ。簡易屋台くらいなら造れる」

「三時間!?十分すぎる!」

再びリネの顔に笑顔が戻り、コロコロと表情豊かな姿にカイネは少しだけ笑った。


「勝負は夕時!ここから挽回よ!」

こうして、はぴはぴパン工房は“焼きたての匂いで誘う”という作戦で反撃に出るのだった。



市場が一番賑わうのは、日が傾き始める夕刻ころ。

人々は仕事を終え、家に帰る前に晩ご飯の食材を買いに集まってくる。


勝負は“この時間”。

カイネが用意した簡易屋台は、木枠と金属パーツを組み合わせた折り畳み式。工具と素材だけであっという間に完成させた彼に、リネは本気で尊敬の目を向けた。


「……カイネ。工芸の才能すごくない?」

「褒めても……焦げたパンは戻らない」

とぼけたように呟くカイネを横目に、リネはパンの準備に取り掛かる。


炙る用のクロワサン、塩とレモンの香りを立たせる塩パン、ほんのり甘い豆パン、そして、即席で作った数量限定の「星くずシュガーのブリオッシュ」


小型の焼き台に、炙ったクロワサンをひとつ置いた瞬間。

ふわり、と香ばしくバターの香りが立ちのぼった。


「うわ、いい匂い……」

「なんだ今の香り……?」

道行く人々が、ぴたりと足を止める。


リネは笑顔で呼びかけた。

「試食どうぞー!今日は試験販売です!数に限りありまーす!」

最初に集まったのは子どもたちだった。

ふくふくした手がクロワサンをつかみ、もぐもぐと食べる。


「なにこれ、うまっ!」

「ママ!このクロワサン買ってー!」

甘じょっぱい味に衝撃を受け、母親たちも財布を取り出しはじめた。

「星くずシュガーのブリオッシュ」は、キラキラと光るトッピングと星型のドライピールが印象的で、少女たちの心を一瞬で奪った。


「きゃー!かわいい!」

「こっち三つちょうだい!」

香りに釣られて人だかりができ、あっという間に行列。

あれほど売れなかったパンが、今や飛ぶように売れていく。


リネやカイネは、ひとつずつ丁寧に袋に詰めながらお客に笑顔を向けた。


「ありがとう、また来てね!」

「こちら、塩レモンのやつですっ」

「ブリオッシュ、ラスイチです!」

日がすっかり暮れ、屋台に並べたパンはすべて完売した。


「──完売です!ありがとうございました!」

最後のお客が帰っていくと、リネはどっとその場にへたり込んだ。


「売れたぁ!ほんとに、全部……」

「……売れたな……」

振り向いた先にいたカイネが、屋台の隅でそっと手を握っていた。


「なぁ、リネ……」

ぽつりと呟く声に、リネはカイネの顔を見た。

その表情に、息を呑んだ。


笑っていた。

カイネは泣きながら、笑っていた。


「俺さ……ずっと、パンが好きだったんだ。親父も、おふくろも、パン焼いてるとき、すっごい幸せそうだったからさ。

俺も……それがやりたかったんだ」


ぼろぼろと、ぽたぽたと涙が落とすカイネをただリネは見つめていた。


「でも焼くたび焦がしてさ。焦げたパンって、ほんと匂いがきつくてご近所の人、だれも来なくなって、子どもたちには“焦げパン屋”って呼ばれてさ。

もう、無理かと思ってた。俺が継いだせいで、全部無くなるんだって……でも」


その手に握られた袋には、最後の一個、リネが焼いたクロワサンが入っていた。


「今日、こんなに人が笑って、パン食べてくれて……信じられなくてさ……ありがとう、リネ。

パン屋、また……やれるかもしれないって、思えたんだ」


リネはそっとカイネの手を取った。


「ううん、違うよ。お礼を言うなら、私こそだよ。

私にまたパンを焼かせてくれて、カイネが……最初に、“美味しい”って言ってくれたから。


ありがとう、カイネ」


二人は、泣きながら笑いあった。

夜の風にパンの香りが乗って、ふたりのまわりを優しく包みこんでいた。

***

最後までお読みいただきありがとうございます。

数ある小説の中からこの小説をお読み頂き、とても嬉しいです。

今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。

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