二十九、最後の風魔 一
桟橋に……一つめのそれは分解したので、二つめになるが……やって来ると、舟は穏やかに浮かんでいた。
櫛田は、とうに忍び宿で着がえを済ませている。線香や香炉も、新たに補充していた。河童とともに、龍左衛門が舟の点検をしている間、櫛田は四本目の線香を上げた。
「異常なし」
そう結論づけつつ、龍左衛門は、線香の香りにごく束の間浸った。
良くも悪くも、次の船着き場で決着となる。
右冠者の言によれば、自分は三途の川で両親から真相の一端を告げられた。
線香の意味するところが、櫛田と真反対なこと自体は、特に問題ではない。
近山。死んだとされていたのに、生きている可能性がどんどん高まっていく人物。三途の川で、両親からも彼の名前が出た。つまり、龍左衛門も、単に血判状を集めたり桐塚を討ったりするのを助けるだけではすまなくなった。
感傷に浸って良い状況でないのは、いわれるまでもない。一ついえるのは、ここを船出したが最後。櫛田にも自分にも、これまでの人生で味わった葛藤に決着がつくということだ。
「待たせた」
「はい、舟を出します」
既にして準備万端。櫛田が乗るのを待って、龍左衛門は竿で川底を突いた。
いざ本流に至ると、太陽は完全に沈んでいた。残照はいまだ青黒く空を染めているものの、茶家見川の水面には、霧に闇が混じりつつあった。
「龍左衛門、桟橋に上がってから……桐塚に護衛がいたとしても、手だしはしないでくれ」
ややあって、櫛田がいった。
「それは……」
「ここまで来て、冷たい判断といいたいのだろうが……龍左衛門に何かあったら、おふみに申し訳がたたない」
正論だ。逆らえない。そもそも、鯉志は櫛田の仇討ちにかかわらないという約束で舟を出している。それに、龍左衛門はもう瀕死の重傷を負っている。河童の血が奏効し、見た目には何の痕跡もなくなったとはいえ……。これを黙ったままでいるべきかどうかは、真剣に考えぬかねばならない。まさしく龍左衛門の抱えた課題だ。
と、いったことは、生きのびてこそ。
櫛田は、桟橋についてから回れ右して帰れとはいわない。血判状についても触れない。
普段の仕事で、特別な依頼をいきなり追加されたなら、納得いく言質を取るまで詰める。例え船上でも……いや、船上であればこそ、遺漏を許さない。そして、上陸と同時に連署で書きとめる。または、その場で銭を払わせる。甘い顔をするのは素人のやることで、後日必ずしっぺ返しが来る。
櫛田の方から手だし無用といってきたからには、龍左衛門こそ、様々な事態を想定して対応を練っておかねばならない。いや、とうにそうしておかねばならなかった。にもかかわらず、敢えて避けてきた。
「これまで俺は、自分自身がどうなるのかを、はっきり考えないできました」
竿を操りながら、龍左衛門は櫛田にいった。
「それは、あやかしが次から次に出てきて考える暇もなかったっていうのもあります。でも、一口にいえば怖かったからです」
「怖かった……」
黙って聞いていた櫛田が、初めて質問に近い語尾で口を開いた。
「はい。生きるか死ぬかだけじゃありません。あやかし達の世界に取りこまれて、二度と帰って来られなくなるんじゃないかって思ったこともありました」
「なら、途中で私を置いていけば良かっただろう」
櫛田は、気分を害したのではなさそうだ。ただ真意を知りたくて質しているだけなのが伝わってくる。
「そりゃあ、一度交わした約束ですから。あと、好奇心もありましたし」
「仇討ちをみたいという好奇心か」
「それも、ないといえば嘘になります。でも、河童だけじゃなく、鐙口が櫛田様を助けることで、親が商売にしていた貸本の中の世が本当にあったって分かりました」
「貸本の中の世……とは」
「狐が人を化かしたり、お侍が鬼を退治したり、そんな世のことです」
「風魔まであやかしだったとは、私もまるで思いつけなかった」
「誰だって無理ですよ。とにかく、本でも実際でも、一度知りだしたら最後までめくりたいです」
「そうだな。龍左衛門がいてくれなかったら、舟が出ようが出まいが挫折していたろう」
それもまた事実であり、誇らしくもある。
「それを踏まえていうが、龍左衛門が深手を負った時、私はおふみにどう弁明するのかで頭がいっぱいになっていた」
「俺の心配はしてくれなかったんですか」
軽く笑いながら、龍左衛門は冗談めかした。
「したとも、当然。だが、河童の血を使った以上、助かるか、死ぬかのどちらかしかない。ずっと龍左衛門が目を覚まさなかったことで、初めて、近山様以外の死について考えさせられた」
櫛田は櫛田なりに、思索を深めていた。
「それで、結論は出たんですか」
「これから出る。最後の船着き場で。左右冠者も、河童も、私に加勢しないでくれ」
「かしこまりました」
左右冠者はいっせいに答えた。河童は、舟の脇を泳ぎながら手を水面から出して振った。
霧の帳を押しひろげるようにして、桟橋が見えてきた。
ここに至るまで、川そのものが異常なしぐさを見せるようなことはない。逆にいうと、最後の風魔は血判状を最後まで集めていない……または、使っていない。
そして、船着き場には先客がいた。龍左衛門が使うのと同じ猪牙船が一艘もやってあり、中には誰もいない。
桟橋には、踏み板に倒れ伏す二人の人々がいた。そこから少し離れた杭に、一人の武士が座って腕を組んでいた。藍染めの羽織袴に大小の二本差しで、黒縮緬の宗十郎頭巾を被っている。遠目にも、また羽織越しにも、肥満ぶりが見て取れた。
「このまま進んでくれ」
櫛田は、龍左衛門の意を汲んで、先に頼んだ。
「はい」
龍左衛門は、先客の猪牙船がもやってある桟橋の、反対側に舟を寄せた。約束を守り、櫛田が踏板に上がっても後を追わない。
錨を降ろして、もやい綱を杭に縛りつけはしたものの、そこから先はなりゆきをじっと見守った。
「もし、失礼ながら、私は旗本櫛田家の長女、千栄。仔細あって、男装をしている。人違いなら恐縮だが、貴公は、武州金沢藩の桐塚 重斎殿か」
「いかにも、わしは桐塚だ。どうして知っている」
ざらざらした、中年の男の声だった。
「貴公の家に、近山 豪太という若者が婿養子に来ていただろう」
「それが何か」
桐塚が、腰を軽く浮かせた。
「本当に、近山を手討ちにしたのか」
「何の話だ」
「とぼけるな。近山の出奔を察知して、死においやったのか、そうではないのか」
櫛田も、ことここにきて感情が高ぶっている。
「落ちつけ。近山は当家には来たが、出奔して不明なままだ」
「いつ」
「十日ほど前になる」
「ならば、そこに倒れている二人は」
「わしの護衛だ。二人とも死んだ」
「近山にやられたのか」
「多分だが、違う。誰か良く分からない。桟橋に上がったかと思ったら、いきなり川から出てきて、二人を一太刀で倒してからまた川に潜った。それっきりだ」
やり口と時系列からすれば、まず最後の風魔が疑われる。しかし、極めて重大な事実がついにはっきりした。
やはり、近山は死んでない。櫛田に送った手紙は嘘だということになる。桐塚を殺す道理が大幅に減った。
「ならば、質問を変える。貴公は、茶家見川の忍び宿を通じて、大藩を脅して牛耳ろうとする疑惑がある。それは、事実か」
「一体、どこからそのような話を仕入れた」
「聞いているのはこちらの方だ」
「知らん」
「茶家見川を埋めたてさせ、また掘りかえすよう手配したのは貴公だ」
「知らん」
「田沼様が、横浜村の開発を巡り、貴公に接近したことも調べにあがっている」
「仮にそこまで証拠があがっているというなら、どうして櫛田とやら一人だけがここに来た」
「私は、近山の恋人だ。かねて、近山と駆けおちするつもりでいた」
「駆けおち……。わっはっはっはっ。わっはっはっはっ」
桐塚は、腹を抱えて笑った。
「何がおかしい」
「御公儀の詮索かと思ったら、元を質せば小娘の恋愛ごっこか。まあ、ひょうたんから何とやらで、田沼様まで行きついたのはほめてやる。どうやったのかは知らんが」
「ふざけるなっ」
「知りたいなら教えてやる。近山は、こちらも探している。どのみち、わしの手の者が引ったててくるだろう。わしの顔を潰した以上、容赦はせん」




