二十八、焼け石に舌 八
「お前にも、後でちゃんと説明するつもりだったんだよ。櫛田様はね、元は川舟改役を勤めてらっしゃったんだ。茶家見川が埋めたてられてこの方、お役御免で閑職に回されてねぇ」
母親の説明からすれば、櫛田の父となる。
「けどよ、それはとんでもない陰謀のとばっちりだったんだ。武州金沢藩の末席家老、桐塚 重斎。こいつが、御公儀を牛耳ろうとしてやがる」
父親が、櫓を不必要に強く漕いだ。
「櫛田様は、あたし達に、茶家見川の由来を詳しく書いた本を探して欲しいと頼んでこられたの」
「どうして、お父つぁんとおっ母さんにそんな話を……」
「もちろん、俺も尋ねたよ。そしたら、まず地本問屋は外したっておっしゃるんだ。特に、大店じゃかえって尻ごみするって話でさ」
地本問屋は、出版そのものを一から行う。貸本屋は、自前の出版設備がなければ、地本問屋の書物を仕入れて商売をする。しかし、この案件はあまりにも危なすぎる。なまじ力が強いと、地位を惜しむが余り、かえって手が出せない。
「かといって、貸本屋でも小さすぎちゃ意味がない。信用出来るかどうかって基準もある。茶家見川の近くで商売していて、ほどほどの規模で、口が堅いってことで白羽の矢になったんだ」
「じゃ、お父つぁんとおっ母さんは、少しは大きな商売をしてたのか」
「馬鹿にするなよ。お前は全然手伝ってなかったから知らないだろうが、品川で貸本屋ときたら垂涎屋。つまり、俺達のことさ」
こればかりは、赤面に値した。
「でも、お手伝いさんとか、丁稚とか、いなかったぜ」
「二人で働いて、金を貯めている最中だったんだよ。店をでっかくするために」
父親の説明は、赤面を通りこして身の縮む思いだった。確かに、両親が遺した銭はかなりな額である。その大半を女と博打に使ったのは他ならない龍左衛門自身だった。両親の遺体を探す日々にいそしむ一方、若さを持てあまし、かつ人がもたらす寄る辺に飢えての所業ではあった。地蔵を見つけて河童に会い、船頭としての手ほどきと修行を積めたのは、まさに仏の導きとしかいいようがない。もっとも、おふみに会うまでは、女も博打もほどほどに続けはしたのだが。
「商売の傍ら、依頼された本をとにかく探しまわって……やっと見つけたっていうのにさ」
母親が、急に湿っぽくなった。
「まさか洪水とはなぁ」
父親は、櫓から手を離さないまま天を見上げた。霧で何も見えない。
「すぐに避難せずに、散らばった本をまとめていたのは、それを探してたんだろ」
このくだりは、磯女が怪我の功名というべきか。
「そうとも。本ごと川に流されてしまったし、もうとっくになくなった」
「でもね、仕入れた人はいるのだし。あたし達が手にしたのは、移しなんだ」
「移し……」
母親の言葉は、吉にも凶にも受けとられた。
「移しであっても、中身は変わらないっていうし、急いでいたからなぁ」
「お父つぁん、元の本は誰が持っていたんだい」
「近山っていう学者だね」
「近山ーっ」
驚いた龍左衛門以上に、両親が仰天した。
「おいおい、素っ頓狂な大声を出してどうしたんだ。危うく櫓を落とすところだったじゃないか」
「あ、ああ……悪い悪い。知りあいに同じ名前の人間がいて……」
「そりゃあ、こんな顔かい」
母親が、両手を船底に突いて、こちらへ迫った。彼女の顔には、目も鼻も、耳も口もなかった。
「うわぁっ」
思わず振りかえると、父親の顔もなくなっていた。
「いや、こんな顔だろう」
櫓を操りながら、口もないのに父親はいった。
「あらまぁ、腰を抜かして情けない。あんたも同じ癖に」
母親も、口がないまま龍左衛門に語りかけ、どこからともなく手鏡を出した。龍左衛門が映っている。のっぺらぼうと成りはてた龍左衛門が。
「わぁーっ」
絶叫しながら、目を覚ました。河童が自分の枕元に、櫛田が足元に、左右冠者が左右両脇に、それぞれ自分を囲んでいる。
「め、目を覚ました」
河童が、泣いているような、笑っているような声でいった。
「良かった……龍左衛門、良くぞ耐えてくれた」
櫛田が、右小指で右目の端をぬぐった。
「一時はどうなることかと思ったぞ」
左冠者が腕を組んだ。
「河童の血もさることながら、龍左衛門の身体が丈夫だったということだな」
右冠者が、深くうなずいた。
「み、みんな……。いや、待て。待ってくれ」
龍左衛門は、まっさきに自分の顔を無でまわした。目も鼻もちゃんとついている。
「ど、どうしたんだよ。顔に何かついてるのか」
河童が、不安そうに表情を曇らせた。
「河童、俺の顔……いつもの顔か」
「変なこと聞くなぁ。いつもの龍左衛門だよ」
「そ……そうか……」
ここでようやく、まさに一息ついた。
「死んでもおかしくない深手だった。河童の血で傷は塞がったが、龍左衛門はずっと眠っていた」
右冠者が、簡潔に説明した。
「え……じゃ、じゃあ、風魔は」
「時間そのものは、半刻(約一時間)ほど過ぎたくらいだ。今から出直せば、最後の船着き場で桐塚を待つのに差しさわりはない」
「つまり、風魔もそこに現れる他ないってことか」
「どうやら、いつもの龍左衛門らしさが戻ってきたようだな」
右冠者の太鼓判は、嬉しくもあったが、悠長にはしていられない。
「あの風魔忍びは、龍左衛門を刺してからすぐ、血判状を持ってここを出た。龍左衛門を放ってはおけないし、この中の誰が欠けてもあの忍びには勝てない。だから、龍左衛門の治療を優先した」
櫛田の補足で、龍左衛門は申し訳なくもあれば復仇の意志がふつふつとたぎっても来た。
「血判状はともかく、龍左衛門が無事で、心からほっとした。さもなくば、桐塚とは別に、八つ裂きにする人間が出来たところだ」
さらりと語る櫛田に、龍左衛門はありがたいやら恐ろしいやらで、すぐには言葉が出てこない。
「既に、桟橋に戻るまでの道筋はわしが確認済みじゃ。お前さえ構わなければ、すぐにでも出発できる」
左冠者が、危険を冒して探りを入れてくれたのはとてもありがたい。
「俺も、このままへたばるつもりはさらさらない。ただ、寝てる間におかしな夢を見た。ただの与太話にしちゃ、妙に実感があって……。歩きながら話してもいいか」
櫛田以下に異論はなかった。龍左衛門は、手を添えようとする河童に軽く右手を振って断り、自力で起きあがった。
「と、まあ、そんな顛末だった」
地下道に降りて、茶店側の螺旋階段に行きつくまでに、あらかた龍左衛門は説明を終えた。
「その川……まず間違いなく、三途の川だ」
右冠者は、龍左衛門の肩から断言した。
「おいおい、じゃ俺は死んだのか」
「いや、死ぬ寸前だった。川を渡りきったら死ぬところだったが、そうはならなかった」
「俺のお父つぁんとおっ母さんは……」
「残念だが、やはり死んでいる。お前の身を案じて、一時的に隠り世からやって来た」
「のっぺらぼうになってまで」
「それは、お前の意識が回復しかけた時に、記憶が混乱しただけだ。いわば、三途の川からただの夢になった境目だ」
「まあ、何となくは分かったよ」
「三途の川……。ならば、父が龍左衛門の御両親に本の探索を依頼したのは事実になるのか」
背後にいる櫛田の声音が、かすかに震えていた。
「そうなりますな」
右冠者が答えた。
「近山様……近山様のことも事実なら、辻褄が合わない。十年前なら、近山様は元服前後になる。到底、そんな希少な本を持っているとは思えない」
「近山様の親御様かも知れません」
右冠者が、妥当な推論を述べた。
「こういっては失礼だが……。近山様の御両親は、善良だが学問に縁が深いとはとても思えない」
「それもこれも、本人に会えばいいじゃない」
河童の主張は楽観論ばかりだが、たまに鋭い示唆を含むことがある。
「そうだな……。まずは御本人だ。会えば……会えさえすれば……」
櫛田は、そう呟くなり黙った。




