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霧にさおさしあやかしつく夜  作者: マスケッター


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二十七、焼け石に舌 七

 ゆっくりと頭を出した龍左衛門だが、壁や廊下が見えるだけだ。間取りや内装も、他の忍び宿と変わらない。


「今度は、俺と右冠者が先行します。少し離れてついてきて下さい」


 龍左衛門は率先して床に足をつけた。


 目を皿のようにして辺りを警戒しつつ、すり足でゆっくりと螺旋階段から隔たっていく。


「これから曲がり角になる。一番危険なところだ」


 右冠者が(ささや)いた。


「ああ」


 船宿の外周をそのまま拡張しているからには、角が四つある。つまり、最後の風魔が待ち伏せする機会は少なくとも四回ある。


「角の先を覗くなら、腰を出来るだけ落とせ。見つかりにくいし、攻撃されても避けやすい」

「良し」


 さっそく、最初の角まで来た。右冠者の忠告に沿って、膝をついてから少しだけ顔を出した。不審な人影は微塵もない。顔を引っこめて、首を後ろに曲げると、櫛田達もついてきていた。


 前進すべし。


 二つめの角まで来ても、静けさは相変わらず屋内に分厚く垂れこめていた。三つめも変化なし。


 このままだと、四つめを越して元の場所に帰ってしまう。そう思っていた矢先、一冊の本が廊下に落ちていた。海老茶色(えびちゃいろ)の表紙には、『茶家見川大鮫縁起』とある。


 余りにも無造作なそれは、龍左衛門の心臓を一気にたかぶらせた。


「ど、どうしてあの本がここに……」


 可能性があるとしたら、最後の風魔がわざと放置したくらいか。


「待て、龍左衛門。怪しすぎる」

「そりゃあ俺にだって分かってる。けどな、どうしても……」


 両親の最期。かつて、来る日も来る日も川べりを行ったり来たりした記憶。磯女に『再生』させられた姿。


 調べはせねばならない。その動機が、余りにも龍左衛門の心を揺さぶった。とうてい、最後の風魔を用心するだの、櫛田を五体満足で最後の船着き場まで送るだのといった大義名分では消化できない。


「落ちつけ、龍左衛門。敵の揺さぶりだ」


 背後から、櫛田が声をかけた。


「ええ、分かってます」

「わしが検分しよう」

「いや、俺にやらせてくれ」


 両親が、文字通り死ぬほどこだわっていた書物とあっては、龍左衛門も譲れない。


「ふむう……わしは少し間を置こう」


 右冠者は、龍左衛門の肩から降りた。


「ありがたい」


 短く感謝し、龍左衛門はまず天井や壁を細かく観察した。異常はない。


 腰を下げて、手を伸ばすと、右冠者は龍左衛門から数歩後ろへ下がる。


 出来れば、仕事など放りだして貪るように読みたい。さすがに、そんな馬鹿な真似が出来るわけがない。全てが終われば、じっくり読む機会も巡ってくるだろう。


 浮ついた気持ちを必死に抑え、龍左衛門は本を拾った。途端に、本は最後の風魔になり、龍左衛門を背後から絞めあげた。悲鳴すら出せない。


「龍左衛門っ」


 櫛田以下が、いっせいに叫んだ。


「お前ら、小指一本でもたじろがせるなよ」


 左腕一本で龍左衛門を拘束しつつ、最後の風魔は右手の短刀を彼のうなじに軽く当てた。


「のっぺらぼうは、術を極めれば物に化けることも可能なのだ。さあ、今度こそ血判状を全てよこせ。そこの女が持っているはずだな。鐙口ども、小癪(こしゃく)な真似をしたらこいつは死ぬぞ」


 簪まで即座に偽物を出せるかと思ったら、上には上がいた。


 怒りと後悔に苛まれる龍左衛門だが、最後の風魔が自分を殺すのに何のためらいもないのは理解している。


 最悪だ。自分のこだわりのせいで、全てが台無しになる寸前となっている。もっとひどいのは、血判状を奪っても最後の風魔は情けを振るったりしない。まず自分を殺し、櫛田も殺す。河童がいても関係なく、即死させる。忍びが備える殺しの技が、切っ先から充分伝わってくる。


 櫛田は、黙って血判状の箱を三つとも出した。


「三つを、こいつの足元に投げろ。一つずつだ」


 最後の風魔は命じた。


 仮に、最後の風魔へ投げても、龍左衛門が盾になってしまう。櫛田は、唇を噛みながら注文を実行するしかなかった。


 龍左衛門は、首筋に()けるような痛みを感じた。ぬらぬらした血の感触が、肌から服を伝っていくのが嫌でも分かる。


「龍左衛門っ」


 櫛田が、脇差に手を伸ばしかけた。


「なりません。ここは耐えねばっ」

「軽挙は奴を利するのみですぞ」


 左右冠者が、口々に櫛田を(いさ)めた。


「拾え」


 最後の風魔は、龍左衛門に命じた。


 血はかなり激しく流れており、河童の血を使わないとそのまま死に至りかねない。下手に暴れるのは愚の骨頂だ。


 龍左衛門は、自分の血で粘ついた服をわずらしく思いながらも、三つの箱を拾った。


「後ろ手に、放り投げろ」


 ここまで来ても、逆らいようがない。


 箱を投げた龍左衛門に対し、最後の風魔は、無言で短刀を首の付け根に深々と突き刺した。引きぬいた時には、残っていた血がことごとくほとばしるかのような大出血をきたした。


 最後の風魔は、短刀を櫛田に投げつけた。彼女がどうにかかわした隙に、血判状の箱を全て拾って走り去る。ほんのわずかな時間で一連が終始するのを、生気が抜けていく彼の目は薄らぼんやりと眺めていた。


 そして、閉じた。


 ぎいっ、ぎいっ。


 (きし)む音が、耳に心地よい。ゆらゆら揺れる感触は、母親の胸に抱かれてあやされているようだ。


 はっと目を覚ますと、龍左衛門は、茶色い猪牙船に乗っていた。周囲は霧に包まれており、薄明るいとも薄暗いとも表現し得た。


「おやまあ、起きたね」


 母親が、優しく声をかけた。龍左衛門のすぐ手前にいて、彼と向かいあうように舳先に座っている。


「おっ母さん……」

「よほど疲れていたんだなぁ」


 船尾で()を漕いでいる父親が、にこにこ笑っている。


「お父つぁん……」

「あの水難から、あたしらを毎日探してくれてたんだよねぇ」


 龍左衛門の母親は、心から彼をねぎらった。


「本当に、間抜けな両親で迷惑をかけた」


 父親が、母親の言葉をさらに強めた。


 龍左衛門は、魂の底から湧きあがる懐かしさと切なさで悟った。これは『本物』だ。


 磯女の幻覚は、本物同然ではあった。しかし、自分の記憶を取捨選択して再現された内容に過ぎない。


 こうやって、同舟している両親には、新しさと古さの両方があった。自分が期待している、それでいて予想が外れてもおかしくない反応。一つ一つの思い出を完璧に満たし、両親の記憶にも確かに自分が存在していた確信。


「な、何いってんだい。俺は、元服してからも好き勝手なことばっかりやってて……。仕事の手伝い一つしないままだったし」


 照れ隠しだけではない。磯女の話題で、せっかくの団らん……と、表現するのもおかしいが……を崩すつもりはなかった。


「ほほほ、龍左衛門がそんな殊勝なことを口にするなんて」


 母親はころころ笑った。


「いっぱしの船頭になって、大人の自覚ってものが湧いてきたんだろ」


 父親も目を細めた。


 喜びかけた龍左衛門だが、おかしなことに気づいた。父親が、それこそいっぱしの船頭さながらに櫓を操るなど聞いたことがない。


「お父つぁん、櫓が漕げたのか」

「ああ、何だかやって見たらこの通りだ」

「いっちゃ何だけど、お父つぁんの細腕で、良くもまあ……」


 龍左衛門からしても、父親の櫓さばきは一流の水準だった。


「おいおい、いってくれるな。まあ、本ばっかり貸し歩いていたから無理もないか」

「そうそう。最後にあれ、あの……何でしたっけ」

「『茶家見川大相撲伝記』じゃなかったかな」


 父親は、間抜けな名前を口にした。危うく吹きだすところだった。


「『茶家見川大鮫縁起』だろ」

「おおっ、さすがは我が息子」


 父親は、変なところで絶賛した。


「本当にありがたい。南無阿弥陀仏」


 母親が、縁起でもない喜び方をした。


「川の主が、とんでもないことを目論んで自分の復活をあやかしやら人間やらにやらせようとしてるんだよ」


 龍左衛門も、そこはしっかり伝えねばならない。


「そうそう。櫛田様のご依頼でねぇ」


 母親の顔は、これを名誉といわずして何が名誉かといわんばかりに輝いていた。


「本当に、あと一歩だった」


 父親も、無念というよりはふっきれた清々しさをにじませていた。


「ああ、そうだったのか。何ぃーっ」


 素直にうなずきかけたが、色々な意味で、聞き捨てならない。


「いきなり大声を出さないでおくれ。びっくりする」

「おっ母さん、これが騒がずにいられるかっ」

「まあ、落ちつけ」


 父親が、上機嫌に龍左衛門を諭した。

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