二十六、焼け石に舌 六
最後の風魔は、何もいわなかった。であるからには、作業に時間をかけてはならない。
櫛田は、血判状の箱を三つ出した。しゃがんで踏み板に三つとも並べる。左右冠者は、二つの箱を基礎にして一つを乗せてから、二人がかりで持ち、最後の風魔へと持っていった。
「そこで止まれ。箱を手離して、後ろへ下がれ」
櫛田達と自分の中間に当たる位置で、最後の風魔は命令した。
箱が誰の手にも触れられてない状態となり、左右冠者はじりじりと後ずさりした。二人が櫛田の足元に至ると、最後の風魔は短筒を右手で油断なく構えながら箱へと近づいた。視線を櫛田達から切らさないまま、右膝をついて左手を伸ばす。
櫛田は、誰もが予想しそうでしない行動に出た。いきなり川に自分から落ちた。
最後の風魔でさえ、一瞬、ほんの一瞬だが注意がそれる。その隙を逃さず、河童が左冠者を手にして最後の風魔に投げつけた。最後の風魔は、反射的に短筒を撃ったものの、慌てていたのと的が小さいのとで外してしまう。左冠者は、そのまま最後の風魔の耳元をかすめ、どこかへ消えてしまった。
だが、最後の風魔も卓越した忍びであった。二発目を撃つような無駄をせず、血判状の箱も無視して素早く真後ろ……岸側へ飛びのく。こうすれば、短筒はまだ一発撃てるし、龍左衛門や河童がやってくるまで充分に時間がかかる。
龍左衛門は、河童に、水面へと目配せした。同時に、右冠者を蹴って箱まで届くよう宙を舞わせた。河童は頭から川に入る。
右冠者が箱に取りついた直後、龍左衛門は最後の風魔へと突進する。ふんどし姿の上に、竿すらない。文字通り裸の捨て身だ。
右冠者は、箱を拾うや否や最後の風魔に投げつけた。こうすると、龍左衛門と最後の風魔の間に箱が挟まることになり、短筒が撃てない。万が一、箱に当たったら、血判状が箱ごと台無しになるのは分かりきっている。
龍左衛門は、走った勢いそのままに、最後の風魔のみぞおちへ右足の爪先をめり込ませた。身体をくの字に折り、最後の風魔は仰向けに倒れた。箱は、落ちる前に龍左衛門が拾う。
そこへ左冠者が復帰し、最後の風魔から短筒を取りあげて川へ捨てた。
「待てっ。油断するな」
とどめを刺そうと近よりかけた龍左衛門を、左冠者が制した。背後では、河童が櫛田を舟に上げる音がする。
「まずは血判状を回収しろ」
左冠者の指示を、龍左衛門は直ちに実行した。血判状は三つとも無事である。それらを右冠者に預けて、龍左衛門は竿を手にした。これを使えば、素手よりは安全に攻撃できる。
だが、最後の風魔はいきなりむくっと起きあがった。龍左衛門が今一度駆けるより速く、懐から小さな玉を三個出して踏み板に叩きつける。たちまち灰色の煙が吹きあがった。
「今は追うな。それより、櫛田様の容態が心配じゃ」
龍左衛門は、はやる気持ちを抑えねばならない。煙幕に無理やり突入すれば、忍びの思う壺である。
「私……なら……心配ない……」
舟の上で、櫛田は肘を突きながら起きた。
「おおっ、櫛田様。ご無事で」
右冠者が、舷の手前まで走った。左冠者も、右冠者にならった。
「河童が……助けてくれ……た」
櫛田は咳こんだが、水を飲んだのではないようだ。
「血判状は無事です。でも、最後の風魔は逃がしてしまいました」
「良くやってくれた、龍左衛門。すぐに追おう」
櫛田は、舟から桟橋に移った。
「休まなくてもいいのかな」
河童が、遅れて桟橋に足を踏みだしつつ聞いた。
「手を緩めると、どこまでも追ってくる。どのみち、奴は忍び宿以外に行くところがない」
「なら行こう。首がちぎれたり心臓をえぐられたりしなきゃ、何されてもおいらの血ですぐ治るし」
河童は明るく楽観論を語った。
「それにしても、いきなり川に突っこむなんて目が丸くなりましたよ」
龍左衛門は、櫛田の機転に今更ながら舌を巻いた。
「忍びの裏をかくには、それくらいしないとな。ただ、服が水浸しだ。舟を濡らして申し訳ない」
「ああ、そんなこと。俺が拭いときますから」
舟の手入れは、船頭の仕事である。櫛田の行為は……本人が泳げないことを加味するなら特に……無条件に絶賛すべきだし、龍左衛門に遺恨のあろうはずがない。
「あと……その……」
「はい」
「何だ……」
「はい」
いつになくやたらに、櫛田はためらった。
「龍左衛門、そろそろ服を着ても良かろう」
右冠者が、話の能率を高めた。
「やっ、これは失礼」
二度目の失礼になってしまい、恐縮しきりだ。さっさとふんどし姿を改めたものの、どうにも気まずい。
「ねぇ、行くなら早くしようよ」
河童に急かされ、龍左衛門も櫛田も黙ってうなずいた。
「まずは、忍び宿の出入口までご案内致します。例によって、さほど時間はかかりません」
右冠者が請け負った。
「短筒を川に捨てたとはいえ、予備を隠しているやもしれん。我らで櫛田様の盾となります」
否応なしに、左冠者は櫛田の心臓を守る位置についた。右冠者は頭に。
「そのままお進み下され」
右冠者が、櫛田に願った。
「よ、良し」
何かいいたそうな表情になった櫛田だが、それからは黙って歩いた。
一同は、どこから陸地でどこから水辺かはっきりしない湿地帯に至った。茶店が一軒あり、雨戸が閉めきられている。廃業しているかどうかまでは明らかではなかったが、それは重要ではない。
「玄関に向かって右側の壁に仕掛けがございます」
右冠者は、櫛田の頭から説明した。さっそくそちらへ回ると、ただの板壁があるきりだった。
「龍左衛門、壁を拳で強く叩いてくれ。怪我をしない程度にな」
「おう」
龍左衛門が、右冠者の頼みを実行すると、壁の一部が、縦に細長くくるりと回った。
「そこだ。螺旋階段がある」
龍左衛門には多少狭いが、出入りできなくはない。
「わしが露払いしよう」
左冠者が、櫛田から降りた。そのまま回転扉と化した壁を抜ける。
左冠者なら、安心して任せられる。龍左衛門は、頼もしい仲間がいてくれるのを心強く思った。
そこで、櫛田がかすかに身震いした。彼女の服は濡れたままだ。最後の風魔を倒せば、忍び宿に蓄えてある衣服に替えも出来ようが……。いや、肉体的な寒さだけではない。近山が、ことここに至って、善悪定かならぬ人間になってきたのが重圧となっているに違いない。
もし、近山が主の味方だったら。究極は、成敗するしかない。ただ、近山が何のために主の味方になるのかは、想像もつかない。まさか、日ノ本の帝になりたい訳でもなかろう。さりとて、世のため人のためとも考えにくい。
「お待たせしました。忍び宿に至る螺旋階段まで、異常はございません」
左冠者が、無事に吉報を届けた。
「忍び宿には、隠れる場所はあるのか」
龍左衛門が、右冠者に質問した。
「さすがに、ない。もっとも、いざとなれば、天井にへばりつくくらいはするだろう」
「なら、天井も無視できないな」
「そういうことだ。龍左衛門が先頭で、わしが肩に乗る。左冠者は櫛田様に随伴、河童は殿としよう」
右冠者の提案した隊列に、誰も異論はなかった。
一同、次々と螺旋階段から地下に降り、そのまま道なりに進んだ。通路のもう一端にある螺旋階段を上がり、いよいよ忍び宿の床に出ようというところで、右冠者が龍左衛門を止まらせた。
「ここからは、左冠者の下調べが及ばない」
待ち伏せが九割九分確定しているので、左冠者は地下道しか調べられない。そこは、やむを得なかった。
「わしは後ろを見張るが、お前も抜かるなよ」
「ああ」
螺旋階段から床へは、仕切りも何もない。いきなり短筒で撃たれてもおかしくない。右冠者は、龍左衛門の肩に乗ったまま、回れ右した。




