二、日暮れて客遠し 二
照れて頭をかく龍左衛門は、おふみの笑顔を、礼を欠かない程度に眺めた。いつものように帳場に座っている。百歩といわず、十歩とない距離だ。しかし、自分から近づいたことはない。
「今日は霧が立ちこめたり、かと思ったらきれいに晴れたり、おかしな調子でしたね」
「ひやひやしましたよ」
霧のさなかに舟同士がぶつかるのは、めったにないことながら、もし起きたら金銭よりはるかに重い問題になりかねない。そうした事態に対処するのも船頭の腕と頭だった。
「あなたなら、そういうと思っていました」
「いやー、ひょっとしたら、川の主が俺だけ贔屓したせいかもしれませんよ」
「まあっ。龍さんったら」
どこの川でもまことしやかに語られる話で、おふみも冗談だと承知している。龍左衛門としても、河童のような存在と知りあいな分、かえって否定的ではあった。そんな奴がいれば、河童が話題にするのは明白だ。
それより、おふみを笑わせる方がはるかに大切である。
『鯉志』を切り盛りするのはおふみだが、彼女は舟を漕げない。かつては、弟の綱男がそれを受けもっていた。両親はすでに亡く、姉弟でつつましくも懸命に働き、それなりの暮らしを保っていたのが一年前。
綱男は、荒れかけた海に釣り舟を出して溺死してしまった。客は助かり、謝罪して見舞金まで出してくれた。とはいえ、船頭のいない舟宿はそもそも経営が成りたたない。
その時のおふみには、第三者からすれば三つ選択肢があった。一つ目は、婿を取る。二つ目は、他の舟宿の傘下に入る。三つ目は、宿を畳んでどこかの店にでも奉公に行く。
彼女には、善意から下心から、一つ目と二つ目の提案が山ほど舞いこんだ。そもそも江戸は女が少ない。結婚はしても、夫が気に食わなくて離縁することも普通にある。しかし、いずれにも口を閉ざして首を横に振るばかりであった。
「そろそろ月待ちが近づきます。予約はまだですが、その日に備えてうんと精をつけておいて下さいね」
江戸においては、七月二十六日に講を開いて月待ちをする。月の出を待って、決まった人々で集まって酒宴をするという行事だが、屋形船が用いられることもあった。何しろ、この日昇った月に阿弥陀如来と観音・勢至の両菩薩が現れるというから外せない。という名目でどんちゃん騒ぎをする。
「はい、それはもう」
「うちには、あなた一人しかいませんから」
おふみが龍左衛門をまっすぐ見ている。しかし、彼女の瞳の一部は、龍左衛門の横にある壁を……正確には、壁にかかった雨笠を映している。弟がこなした最後の仕事で、おふみの手元に戻ってきたのはそれだけだった。
龍左衛門が新たな船頭になったのは、縁故や物々しい交渉の末ではない。
弟の死でおふみが『鯉志』を閉めたまま、半年ほどたったある日。龍左衛門が、門を叩いた。
当時の彼は、決まった船宿には所属していない。家こそ品川にあるが、人手の足らなくなった船宿から使いがきて、その折にだけ仕事をする。派手な浮名と相まって、龍左衛門ならぬ流れ左衛門と、他の船頭からはからかわれたりうらやましがられたりもされたものだ。
そんな龍左衛門が現れた動機は、おふみとは関係ない。一仕事からの帰り道、厠を借りたかっただけだ。綱男の件を知ってはいたが、便意はもはや抜きさしならなかった。
不躾な願いを、おふみは快く許し、それから『鯉志』に雇われることとなった。
以来半年。
いざ再開されるや、おふみは女将として非の打ちどころがない。客あしらいは当然として、予約の段取りから釣りや花見を見越した手配まで、ただ彼女の指示に沿っていれば良かった。
「お酒はほどほどにしないといけませんよ」
にこやかに、優しく注意する表情がもういけない。龍左衛門は、おふみとは違う意味であれこれいいよられ易いのだが、どうにもこの口調と表情にはつい痺れてしまう。
「は、はい、まあ、それなりに」
あやふやで芸のない返事をしていると、野良犬の遠吠えが街角から聞こえてきた。おふみではないが、日没が近い。
ほんの一瞬空いた間を、自分の視線ごと川へとそらせた。開いたままの玄関から、道を隔てて船着き場が見える。
「じゃあ……」
暖簾を外してきましょうかと腰を上げかけたところで、一人の女性が軒先に現れた。傍目には、自分と同い年くらいに思えた。
「もし、ごめん。お舟を出しては頂けないか」
おふみより少し背が高く、その割に痩せている。厳しそうにほっそりした表情は、見る者が見れば気品を感じさせる。そして何より、言葉遣いの端々から、武家の子女なのは明らかだった。
供の一人もつけず、こんな時分とはありがたさより怪しさが匂いたつ。にもかかわらず、燃えるような瞳の鋭さは、試合というよりいくさに出陣する侍のような気迫に満ちていた。
龍左衛門は、かまちから慌てて立ちのいた。客だから、武家だからというだけではない。おふみほどではないにしても、商売柄、繊細な対応が必要な相手はすぐそれと分かる。
これに近い雰囲気の実例を、彼は一つだけ知っている。弟を思いだしている時のおふみだ。
わざわざ龍左衛門から合図されるまでもない。おふみは龍左衛門のいた辺りまでいざり寄り、丁重に頭を下げた。
「申し訳ございません、ちょうど終わったところで……」
怪しげな客は断る。弟を失って以来、一切曲げずに貫いてきたおふみの方針である。龍左衛門としても、正直なところ、今日は勘弁して欲しい。
「お金なら、こちらに」
武家の女性は、懐から小判を三枚出した。丸一晩、船頭ごと屋形船を貸し切りにしても、その半分ほどですむ。
「とてもありがたいお話で、ふだんなら飛びつくところでございますが……」
おふみはあくまで、やんわりとした口調を崩さない。
「私の生死にかかわることでも、か」
いきなりただならぬ雲行きになり、龍左衛門はぴくりと肩を怒らせた。
「生死とは、どのようなご事情でしょう」
と、聞いてしまうのが、おふみの良さであり問題でもあった。こんな時、龍左衛門ははらはらしながら見守るしかない。
「私の家は、川舟改役の分家。本来は、この川を受けもっていた」
「まあ、それはそれは……」
家系の話が出てきて、さすがのおふみも面食らった。龍左衛門も、もたれていた壁から背を離す。
船宿からすれば、ことと次第によっては土間で平伏してもおかしくない相手だ。もっとも、おふみは商売人として客に頭を下げているだけだし、龍左衛門も立ったままである。客も、特にそれをとがめる気配はない。
川舟改役とは、勘定奉行に所属し、文字通り川舟から税金を徴収する。江戸の川は、飲み水や漁業が云々という以上に、まず流通を担っているのである。だから公儀が大きくかかわる。
「口を挟んで失礼ですが、もしや櫛田様ではございませんか」
客は、返事の代わりに半歩後ろへ下がった。
「ちょっと、龍左衛門さん」
おふみがたしなめたが、今さら元には戻らない。
「いかにも、私は櫛田家のちえ。千に栄えると書く」
「遅れて失礼しました。ふみと申します」
「龍左衛門です」
これで、互いに名乗り終わった。
「どうして私がそれと分かった」
「川舟改役様で、茶家見川ときたら、櫛田様でまちがいありません」
事実ではあった。もっとも、櫛田家が茶家見川を担当していたのは二十五年も前のことだ。川が埋めたてにより消滅し、お役御免となっている。
『せめて櫛田様なら、気分良く年貢が払えるものを』
老練な船頭達から、そんな愚痴を聞くことが時々ある。今の川舟改役が特にひどいのではない。それとは別に、かつての櫛田家は船頭一人一人を良く把握し、何より茶家見川を知り尽くしていた。




