十九、岩に柔肌 七
まっすぐ立ってから、布を口から外さず、河童を担いで手洗いを隠した階段まで進んだ。階段の上に彼を横たえ、次いで櫛田も連れていく。彼女は河童の横に並べた。いささか体裁が悪いのは仕方ない。それから左右冠者を、一段下の段に寝かせた。
まだ薬が効いているであろう間に、龍左衛門は、忍びの両手を本人の帯で後ろ手に縛りあげた。足は小袖で拘束する。作業が終わってから、担いで階段まで運んだ。
「うむむむ……」
左冠者が、うめきながら起きた。
「おっ、気がついたか」
「龍左衛門……これはどうしたことじゃ……」
かいつまんで事情を話すと、左冠者はうなだれた。
「面目ない……。まんまと忍びの目論見にはまるとは」
「何いってるんだ、お陰で忍びを捕まえる目処が立ったんじゃないか」
「そうじゃったな。これは、眠り薬を煙にして放った術じゃ。煙は空気より重いので床から少しずつ溜まっていく。効き目がどのくらい続くかも自由に調節できる」
「この布が、煙を防ぐのか」
龍左衛門は、忍びから奪って口に当てていた布を見せた。
「いかにも。そして、ここまでは煙は来ておらん。布はなくとも大丈夫じゃ」
「あやかしの方が先に回復するのか」
「人間よりは丈夫じゃからな。おっと、河童の手傷を治さねば」
「あ、いけねえ」
左冠者は、河童の傷口を検分した。
「急所は外れている。それに、深くは刺されておらん。河童はこのくらいでは滅多に死なん」
「薬か何か、つけてやる必要があるんじゃないのか」
「いや、血は止まっておる」
「河童の血は、どんなケガでもすぐ治すって話だろ」
「あいにくと、河童自身には効かん。まあ、元来が人間よりはるかに丈夫なので、数日もすれば完治するじゃろう。どちらかというと、甲羅を直すのが先決じゃ」
元はといえば、この忍び宿に入ったのもそれが目的だった。
「その前に、櫛田様の安否を確かめねばならんだろう」
右冠者が起きた。
「見れば無事と分かる」
左冠者がそっけなく答えた。
「見ただけで分かるものか。医者でもないくせに」
右冠者の買い言葉で、龍左衛門は天井を仰いだ。また始まったかという言葉を飲みこむのがやっとだ。
「そういうお前も医者ではないじゃろう」
「だからこそ、わしは慎重に判断しろといっている。わしらあやかしは寝ただけだが、櫛田様にどんな悪影響があるのか分からない」
「わしの知識では、人だって寝るだけじゃ」
「その知識は何年前だ」
「お前より古くなるはずがなかろうが」
「新しいのでもあるまい」
「抜かしたなっ」
「いい加減にしろよ」
呆れ果てた龍左衛門が、ついに口を開いた。
「まったくだ。二人で口論する内に、私が死んだらどうするつもりだ」
「ややっ、櫛田様」
右冠者が、慌てて平伏した。
「ご無事祝着」
左冠者が、右冠者にならった。
「どこか、お具合の悪いところはありますか」
龍左衛門は、左右冠者を置いてまず尋ねた。
「いや、どこもおかしくない。河童は無事か」
「左冠者によると、健在とのことです」
「そうか。みんながこうしているということは、危機は去ったのだな」
「はい」
櫛田は、左右冠者を倒さないように気をつけながら床に立った。そして、忍びの頭を蹴りつけ、壁にぶち当てた。
「こやつの身体をひっくり返せ」
「はい」
龍左衛門が、忍びの身体をうつぶせにすると、帯はあらかた解けていた。
「怪しい仕草をしていたからな。間にあって良かった」
「お、恐れいりました」
手足を縛ったから一安心と判断していたが、まだまだ己の甘さを噛みしめねばならなかった。
「いや。悪いのは私だ。本来なら、私がお前達を守る立場にいたのだから」
「そんな、もったいない」
「では、龍左衛門。改めて、ことの次第を知りたい」
「はい」
龍左衛門は、左冠者にしたように説明した。左冠者は、殊勝に黙っていた。
「良く理解できた。ありがとう。左冠者は、河童の面倒を見てくれ。残りは、忍びを尋問するのに力を貸して欲しい」
「かしこまりました」
左冠者は、即座に階段の向こう側へと消えた。
「龍左衛門は、改めて忍びを縛り直す。棒手裏剣で小袖を裂け。両手を握りあわせてから、裂いた小袖でぴったり余裕がないように包め。それから手首を縛るように。両足は身体の前に投げだした格好にして、帯で縛れ。壁にもたれるように座らせるように」
「分かりました」
こうすれば、手の指は袋状になった小袖が邪魔で使えない。両足は一同に見られているので下手に動かせない。
龍左衛門が作業を終えると、櫛田は忍びの背後に回り、活を入れて起こした。
「最初にいっておく。死にたければ死ね。どのみち黙っていても殺す」
磯女の時、櫛田は激怒していた。それはそれで迫力があった。しかし、今の彼女は迫力どころの騒ぎではない。地獄の鬼さながら、慈悲の一欠片もない様相を呈している。男装が似あうだけに、なおさら凄まじい。
「お前は、誰かに雇われたのか、自発的に行動したのか」
無言の行である。櫛田は脇差を抜いた。龍左衛門は、なおいっそう冷ややかな緊張感に、手足が凍りついていく思いを味わった。
あやかし相手に、櫛田が斬るか斬ろうとしたかの場面はあった。急を要する事態であったし、先に手だしして来たのはあくまで敵の方だ。だから、加勢しこそすれ批判する理由はない。
ここまでの状況もまた、大同小異ではある。だから、櫛田の行為に異論があるはずがない。現に、右冠者は黙っている。
それを踏まえた上で、龍左衛門の本音としては。彼女がやろうとしていることは、殺人である。自分とてわきまえている。あやかしなら気後れせず、殺人ならそうなるというのは理屈にならない。だいいち、生ぬるい対応ができる相手ではない。
それやこれやを抱えつつ、龍左衛門は見守るしかない。忍びは無言無表情なままだし、完全な安心を得るには、もはや殺すしかない。
「おいらに任せておくれよ」
頭上から、待ちわびた声がかかった。もっとも、最初から意識していたのではない。耳にして初めて、ああ自分はこれを求めていたと気づかされた。
「もう大丈夫なのか」
階段のてっぺんに立つ河童は、何故かまぶしく輝いていた。
「うん。おいらの甲羅、どんな具合だい」
河童はくるっと背中を向けた。人魚には薄い斜線が入ってしまったが、かえって凄みが加わった。
「粋だよ。粋の極みだぜ」
先ほどまでの暗澹たる気持ちがきれいに消えさり、龍左衛門は手放しで賞賛した。
「ああ、良かった。さてと、櫛田。脇差を借りてもいいかい」
「こ、これっ、頭が高い。おまけに、何という不遜な……」
「良い、左冠者。河童、お前に任せる」
「へへっ。そうこなくっちゃ」
河童は階段から床に飛びおり、櫛田から脇差を渡してもらった。さっさく鞘から抜いて、まず自分の左腕を軽く斬る。当然、血が出てきた。それから、忍びの頬に薄い斬り傷をつける。もちろん、こちらも血が出る。
河童はそこで、自分の傷から出た血を忍びの頬傷にすりこんだ。たちまち塞がり、跡形もなく傷は消えた。
「これで分かったろ。おいらの血はたちまち傷を治す。つまり、お前は死にそうになるまであちこち斬られて、またあっという間に元通りになって、また痛めつけられる。どこまで耐えられるんだよ」
無邪気に笑う河童に、龍左衛門は頼もしいやらぞっとするやら、得もいわれぬ複雑な思いを味わった。
忍びは黙ったままだが、頭の中で利害得失を大至急まとめているのは明らかだった。
こうなった以上、忍びの役目に照らすなら、自害か時間稼ぎのどちらかしか道はない。
前者なら、舌を噛むほか死ぬ手だてはない。しかし、河童の血で回復させられてしまう。即死できない以上、実質的に不可能だ。
後者しかないが、果てしない拷問となる。回復不能な痛手を与えるのは、拷問としては最後の手段だ。例えば、目をえぐるのは確かに残虐だが、二度は出来ない。つまり、苦痛を与えられる範囲が狭まる。河童の血は、それを覆してしまう。
忍びであるからには、拷問に耐える訓練もしているだろう。だが、何回でも目をえぐられ続けたり、内臓をぶちまけられたりするところまでは訓練のしようがない。
残された手段は、嘘しかない。
「お前は誰の命令で動いている」
櫛田が、最初の質問を投げかけた。
「前田家加賀藩」
忍びはようやく口を開いた。
「嘘じゃ」
左冠者が、間髪入れずに断言した。
「根拠は」
「この棒手裏剣、鎌倉砂鉄でこしらえてあります。それも、風魔衆の技法です」
左冠者は……右冠者もそうだが……鐙口である。武具防具が、どこの原料からどう作られたのかくらい、簡単に理解できる。
「お前は風魔衆なのだな。となると、桐塚の命令で働いているということか」
「違う」
「嘘だ。足がわずかに揺れた」
今度は右冠者だった。鐙口は、いつも持ち主の足を受けもつ。自然、足の動きから心の具合を感じとる。
「桐塚の手足となる風魔衆か。明和の大火に紛れて火つけをしたそうだが、よほどお前達は主君に恵まれているようだな」
櫛田は嫌悪感を隠そうともしない。龍左衛門としても、そこは肯定しこそすれ否定する気はない。
「それで、何のためにここに潜入していた」
「忍び宿の具合を確認するためだ」
「でも、最初からおいらを狙った。ただの忍びなら、おいらのことは見えも聞こえもしない。だから、こいつもあやかしだ」
河童が、龍左衛門も忘れかけていたことを指摘した。




