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霧にさおさしあやかしつく夜  作者: マスケッター


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十五、岩に柔肌 三

 ただ、表紙にある題名には、『茶家見川大鮫縁起』とある。小豆とぎの説明が電光のごとく思い起こされた。


「これだろ、探していたのは」


 龍左衛門は、ここへ来て初めて、言葉を口から放つことができた。同時に、手が動いて本を指した。


「ああ、それだよ」

「良く見つけてくれたねぇっ」


 父母が口々に龍左衛門を()(たた)えた。


 そこで気づいた。両親の死を受けいれられなかった、最大の原因を。


 もっと両親に構って欲しかった。本が両親代わりのような生活だった。死ぬ前に、何かしらはっきりと称賛の台詞を聞きたかった。それを洪水が……。


 過去と同様に、上流から押しよせた濁流がやってきた。


「邪魔だっ」


 龍左衛門は怒鳴り、蚊でも追いはらうかのように手を振った。びりぃっ、と紙が裂ける音がして、目の前がほんの一瞬だけ暗くなり、すぐ明るくなる。


 桟橋で、胸に左肩から袈裟がけに傷を負った磯女が、呆然とした(てい)でまじまじと龍左衛門を眺めている。もっとも、傷口からは一滴も血が流れていなかった。ぱっくり開いたそこには、黒々とした闇が垣間見えるだけだ。


「どこいってたんだよ、龍左衛門」


 河童は、冗談や軽口を並べているのではない。口調もさることながら、櫛田と左冠者の姿がない。龍左衛門も、手には竿を握るのみ。


「すまん。奴の術を破るのに必死だった」

「櫛田も左冠者も、変な煙に巻かれて消えちゃったよ」

「俺もそうなっていたはずだよな」

「うん。だから、二人も……」

「やかましいっ。あたしにこんな傷をつけて、ただじゃすまさない」

「ならさっさとかかって来いよ」


 磯女は、龍左衛門の泣き所を攻めたつもりが、かえって克服の機会を与えてより強くさせてしまっている。龍左衛門としても、それは充分に自覚できているから、気後れする必要はなかった。


「あたしの力を見くびるな」


 磯女は、まだ隠している力があるようだ。

 

「訳のわからん霧やら煙やらはもう飽きた。何か違うのを出せよ」


 その気になれば、龍左衛門はいくらでも相手を煽る。


「ふんっ、そんな減らず口もこれでしまいだよ」


 磯女の言葉が終わるや否や、首筋に生ぬるい風が吹きつけられた。


「危ないっ」


 いちはやく危険を察した河童が、龍左衛門の背中に抱きつく。がちぃっ、と刃物で堅い的を斬ったような音がした。


「痛えっ」

「ちっ、河童風情が余計な真似を」


 毒づく磯女に正面切ったまま、龍左衛門は首だけ後ろへねじ曲げた。


 河童の甲羅に、刀が食いこんでいる。磯女と似たような、下半身が煙になっている羽織袴姿の侍が、ぎりぎりと刀身をなおも沈みこませつつあった。


「河童ーっ」

「あはははははは、間抜けな船頭め。大人しくあたしの要求を飲んでいれば良かったものを。もうお前などいらん。河童の後を追うがいい」

「く、くそーっ」

「待てっ、龍左衛門。振りかえったら、今度こそ磯女の思う壺だ」


 右冠者の忠告が、ぎりぎりで間にあった。河童に一太刀浴びせた侍を叩きのめそうとして、寸前で止めた。改めて、磯女と顔をあわせると、煙侍がもう一人出てきた直後だった。首を狙って水平に薙いで来た刀を、どうにか竿で叩きおろす。


 致命傷の一閃は免れたものの、挟み撃ちに変わりはない。河童はぐったりと龍左衛門にもたれかかっている。


「どっちに斬られたい、龍左衛門。後ろから河童ごと真っ二つか、前からまず自分が先に斬られるか」


 思いきり顎を上にそらし、磯女は勝利の確信を隠そうともしなかった。


「龍左衛門、お前はもう滝を昇ったろう」


 右冠者が、支離滅裂な激励を吐いた。後から現れた煙侍が、一歩引いてから刀を上段に振りあげる。背後のそれも同じだろう。


 落ちてくる刀の勢いは、瀑布さながらになるかもしれない。さっきは咄嗟に反応できたが、二度も通用するとは思えなかった。


 瀑布さながら。鯉は滝を昇って龍となる。


 渾身の力で、竿を桟橋に突き、龍左衛門は宙高く舞った。着地する前に、竿を振りかぶり、落下する勢いを加えて磯女の頭にしかと打ちすえる。


 スイカを十個ばかり、同時に棒切れでかち割るような音がした。磯女は頭を叩きのめされ、その場で倒れる。煙侍二人は雲散霧消した。


「おいっ、しっかりしろっ」


 龍左衛門は、河童を背中から外し、桟橋の踏み板に降ろした。うつぶせに寝かせて背中を調べる。甲羅に彫られた自慢の人魚が、無残にもへその辺りで斜め左下に切断されている。血が出ていないだけ、ましとはいえた。


「う……うーん」

「おおっ、気がついたか」

「い、磯女は……」

「さっき倒し……」


 倒れていたはずの磯女がいない。煙侍は消えたままだが。


「まだ終わってはいない。油断するな」


 右冠者が、龍左衛門に喝を入れた。


「河童は……」

「おいらは大丈夫。甲羅しかやられてない。それより、そこの杭と踏み板の間に簪がある」


 河童の説明と指先に誤りはなく、確かに簪があった。


「二人が消えた時に、それだけ桟橋に落ちていたんだ。拾って隠したんだけど、そこからお前が戻ってくるまで、俺は金縛りになっていた」

「磯女は、かなりな力がある奴だな」


 右冠者が、あらかじめ一声かけてくれなければ、あの本の中で永遠に自分を責めつづけていたかもしれない。そう思うとぞっとする。


 自分がそうされたということは、櫛田も同じ責め苦を受けている可能性がある。ますます急を要する。


 どのみち、簪は櫛田に渡す必要がある。まず、拾った。すると、簪はそれ自体に意志があるかのように、手の中でぶるぶる震えた。


「うわっ」


 危うく落とすところだった。どうにか握りなおしたものの、相変わらず暴れている。


 ふと、試みに、龍左衛門は手の平を敢えて開けてみた。すると、簪の先端は裏針(羅針盤)さながらにある方向を示してピタリと止まった。仮にこの通りなら、桟橋から陸地へ移動することになる。桟橋の両隣といい、両端といい、相変わらず霧が垂れこめている。ただ、自分や仲間の周囲だけは薄くなるようだ。


「しばらくここに置いておくが、大丈夫か」


 龍左衛門は、まず河童を気づかった。


「平気だよ。早く二人を連れて来てくれ」

「おう」

「それから相撲だ」

「あのな」

「おいらはまだ諦めちゃいないからな」

「分かった分かった。心配して損したぜ」


 龍左衛門は、河童から回れ右した。簪を頼りに歩きだす。


 本来なら、すぐに岸辺に至り、幅二間ほどの道路を隔ててここの船着場を支配する船宿……そして、船宿と合体している忍び宿……の正面に至る。


 今は、桟橋を後にしても、ただ霧の中を進んでいるだけだ。敵がいないのが、唯一の幸いだった。


「小豆とぎもそうだったが、人の心をもてあそぶような奴らばっかりだよな」


 肩に乗ったままの右冠者に、龍左衛門は語りかけた。


「ふむ。そして、二人とも血判状……引いては川の主とかかわりがある。してみれば、川の主自身が、ああしたやり方を好むかやらせているかしているのかもしれん」

「川の主は、でかい鮫なんだろ。そこまで考えてるのか」

「分からん。逆に、そこが全ての真相に繋がっていることもあり得る」

「俺の両親は、川の主について少しは知っていたようだ」


 その知見については、実に不本意ながらも、磯女の術のお陰ではある。


「『茶家見川大鮫縁起』という本を、どうにかして手にいれたんだろう。もっとも、あの口ぶりからして、読んではいなかったらしい」

「わしも、その本のことは初めて聞いた。お前のご両親は、ほうぼう探しまわってようやく手にできたのだろう」


 どのみち貸本屋としてあちこちに顔を出すから、最寄りの書店に問いあわせるくらいなことはしたに違いない。とはいうものの、右冠者さえ知らなかった本ともなれば、途方もなく高い値段だったはずだ。


「本そのものもさることながら、俺の両親は、何が目的だったんだ。まさか血判状について知っていたとは思えないし」

「仮に、手がかりがあるとするならお前の家くらいだろうが……寄り道している暇はないだろう」

「そうだな」

「なりません。それだけは、思い留まらねばなりませんっ」


 ここで会話に乱入して来たのが、左冠者の諫止(かんし)だった。霧の奥から、言葉だけ耳に伝わってくる。


「止めるな、左冠者。いくら幻とはいえ、近山様をここまで愚弄するとは、もはや許せん」

「待って下さい」


 ここで、龍左衛門達が乱入した。


 櫛田と左冠者は、半壊した蔵の中にいた。金目の品はおろか、紐一本残ってない。小石や枯れ枝は、ほうぼうに散らばっている。


「ここはまさしく、二つ目の忍び宿に至る出入口。やはり、磯女は血判状について詳しく知っているとみなすべきだ」


 右冠者がまくしたてた。


「龍左衛門。右冠者」


 脇差を中腰に構えた櫛田から、殺気がある程度まで抜けていくのが龍左衛門にも伝わった。


 彼女の足元で、左冠者が(すね)を必死に押し留めている。


 櫛田の正面には、煙侍が一人いた。しかし、どこか彼女に似ている。


「右冠者。龍左衛門。お前達も櫛田様を止めてくれ。今刺そうとしているのは、櫛田様のお父上だ」

「幻でも駄目なのか」


 あらかじめ、左冠者の台詞を聞いてはいる。とはいえ、具体的な理由をまだ知らない。櫛田は一応手が止まっているし、聞いておいて損はないだろう。


「磯女の悪企みだ」


 その一言で充分だった。龍左衛門は、左冠者のすぐ後ろまで来て、煙侍との間に割ってはいった。

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