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霧にさおさしあやかしつく夜  作者: マスケッター


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十四、岩に柔肌 二

 磯女は無言で河童の主張を聞いている。さっきまで、あんなに能弁だったのに。


「百聞は一見にしかず、だ。河童、ちょっと泳ごうぜ」

「龍左衛門から誘うなんて珍しいな。どうしたんだ」

「お前の意見も満更じゃないってことだよ」

「危険ではないのか」


 櫛田が、さすがに心配した。


「櫛田様じゃありませんが、危害を加える力があれば、とうにそうしてますよ。ああ、服は脱ぎませんのでご安心を」


 泳ぎにくくはなるが、磯女に、つけいる隙を与えたくない。鉢巻だけは外した。


「じゃあ、いこう」

「左冠者、明かりを頼む」

「任せろ」

「良し」


 龍左衛門は、舟から水面に飛びこんだ。河童も、足を天に伸ばして潜った。


 最初の血判状を手に入れる時と同じように、冷たい水の緩やかな流れが全身を包んだ。左冠者のおかげで、川底や船底がはっきりしているのがとてもありがたい。


 磯女の岩までは、すぐにたどりつけた。舟から眺めたのと変わらず、犠牲となった男達が積みあがっている。確かに、川底から生えていた。


 龍左衛門一人だけなら、それで満足して浮上しただろう。河童はさらに近より、岩の根元を仔細に観察した。そして、龍左衛門を手招いた。


 導かれるがままに河童の脇まで泳ぎ、目の当たりにした。岩の根元が、微妙に脈動している。


 試しに、龍左衛門は岩の根元を手で掘った。泥が煙のようにぱっと広がり、少しずつ落ちついていく。そして、砂利や小石ではなく、生き物の肌が……少なくとも肌のような物が露わになった。


 それは、サメのようなざらざらした質感を備えていた。時々、ぴくぴくと動く以外には、何もしない。しかし、磯女の居座る岩へと、何かを送りこんでいた。


 河童は、まるで相撲を取るかのように岩を両手で抱えた。横倒しにしようと力を加えはじめる。岩の正体について、正確に把握したのではないが、本能的に最適解へと至ったのだろう。


 磯女は、龍左衛門を岩の一部にしたがっていた。ならば、岩の値打ちを損なうようにすれば力を削れるかもしれない。子どもの思いつきめいた理屈ながら、あながち無意味とも思えない。


 龍左衛門も、河童と力をあわせた。頑丈な雑草を引きぬくのに似た手応えがして、岩は川底から引きちぎられた。ちょっと手でかき分けたのとは比較にならないほど、煙幕さながらの泥幕が広がった。


 ようやくにも泥が収まると、岩は明らかに元からずれた位置にあった。ひっくり返すには余りにも重く、不可能だ。とはいえ、多少の影響は与えられただろう。


 力を使ったこともあり、そろそろ息が持たなくなってきた。河童はいつまでも平気だが、人間はそうもいかない。一度水面を目指すことにした。


 顔を空気にさらし、胸いっぱいに息を吸いこんでから周囲を見まわすと、岩は消えてしまっていた。舟は桟橋に、もやいも投錨もされないまま横づけされている。


 櫛田はもう舟を降りていた。脇差を抜いており、足元には右冠者がいる。


 彼女の目の前に、磯女がいる。丸腰な反面、両手で血判状を広げていた。下半身はずっともやになったままでいる。


「ようやくおでましか、色男」


 磯女は、顔だけこちらに向けて呼びかけた。


「龍左衛門達が水中に入ってからしばらくして、急にこうなった」


 脇差を握りなおしながら、櫛田が説明した。


「油断するな。力は鈍ったものの、滅んだのではない」


 右冠者が、龍左衛門達の気をさらに引きしめる。


「岩よりむしろ、川底がどうなってるのか聞きたいね」


 そう要求しつつ、龍左衛門は舟に手をかけて上がった。右冠者は肩に乗る。


「そんなつまらない話より、ぼつぼつ返事を聞かせておくれよ。血判状と交換に来るのか来ないのか」

「まだだ。お前、小豆とぎを知ってるか」


 ここからが本番だと、龍左衛門は直感していた。


「知らない」

「小豆とぎは、川の主を利用しようとしていた。自分が解放されるために。お前はどうなんだ」

「川の主なんて、聞いたこともないね」

「岩の根っこは、川底から何かを受けとっていた。というより、流しこまれていた。もちろん、あんな岩はこれまで影も形もない。近山様が血判状を知っていたとも思えない。つまり……」


 龍左衛門は、腰を落として竿を拾った。


「お前のいっていることは、何から何までほとんど嘘っぱちだっ」


 竿で磯女のみぞおちを突くと、人間なみの手応えがあった。倒れはしなかったが、弾みで血判状が手から離れる。左冠者が素早く奪いとった。


「うぬっ、許さんっ」


 磯女は目尻を怒らせた。彼女の下半身をなしていた、もやだか煙だかが高く広く膨らんでいく。


「気をつけろ、小豆とぎよりも強い幻を見させられるぞ」


 右冠者が叫んだ。


「そういわれても」


 とりあえず、磯女を探さないと話にならない。


「龍左衛門。龍左衛門、どこだ」

「櫛田様、ここにいます」


 返事をしながら、龍左衛門は桟橋に足を降ろした。竿は持ったまま。


「まあまあ、大きくなって」


 まるで場違いな、頓珍漢とさえ表現できる言葉と抑揚が、龍左衛門の調子を外してしまった。


「母ちゃん……」


 煙が一人でに左右に別れ、龍左衛門の母がいきなり現れる。


「父ちゃんもいるよ」

「立派になったなぁ、龍左衛門」


 行方不明になったままの両親が、にこにこ笑いながら正面にいる。


「あたし達をずっと探していてくれたんだろう、ありがとう」


 龍左衛門の母は、福々しい様子で頭を下げた。


「こうなれば、親子三人水入らずで暮らせるぞ」


 龍左衛門の父が、いかにも明快な人生計画だといわんばかりに宣言した。


「さ、いこういこ……」


 竿が脳天に思いきり打ちこまれると同時に、龍左衛門の母は消えた。次いで、父もそうなった。


「安い手品で俺を挑発したつもりか。つまらない悪あがきだな」


 龍左衛門は、竿でとんとんと自分の肩を叩いた。


「親を打つとは、このろくでなしめが」


 どこからともなく父の声がした。何度でもぶっ潰してやると思っていたら、巨大な……龍左衛門の倍はあろうかという……本が頁を左右に開いて迫ってきた。


 突拍子もない事態に反応が遅れ、龍左衛門は本の頁に挟まれた。痛みこそないが、手も足も動かなくなった。


「磯女の術にはまった。本の中で出された課題を解くしか、抜ける道はないぞ」


 右冠者が、肩にいるままなのがありがたい。


「小豆とぎよりややこしい」

「さっきより、もっと酷くなる」


 右冠者の警告を聞いたか聞かないかの内に、地鳴りのような音が耳に響いてきた。忘れたくとも忘れられない、呪わしい(うな)り声。


 ここは、十年前の茶家見川だ。半鐘が打ち鳴らされ、ずぶ濡れになって本を拾い集める両親の姿。柳の葉までそっくりそのまま、現実と瓜二つに再現されている。


 あの時、首に縄をつけてでも、両親を高所へ引っぱっていくべきだった。愚かにも、両親の作業に加わってしまった。


 しかし、自分の手足は、意思に反して十年前をなぞり始めた。すなわち、両親を手伝うべく膝を地面につけ、一冊二冊と回収していく。


 違う。これは違う。龍左衛門は、殴りつけてでも自分の行いを改めさせたい。まだ水位は上がっておらず、間にあうはず……という真意とは裏腹に、貴重な時間が浪費されていく。


 こんな時こそ右冠者の助言が欲しい。だが、どこにもいない。


「川底にあるかもしれない」


 父はそういった。


「岩の下敷きになっていることだってある」


 母も、父に同調した。


『このままだと、川底に行くのは二人の方だ』


 心の中で叫んでも、どうにもならない。いろはのいも口にできなかった。


 最後に目をあわせた時の、両親の顔は、忘れようにも忘れられない。忘れられないといえば。著しく場違いにも、また唐突にも、おふみを思いだしてしまった。


 おふみに自分の気持ちを打ちあけられないのは、雇われているからではない。弟……綱男の死を気遣っているのでもない。それらは、もっともらしい体裁の弁明だ。


 両親の死が、解決できてない。おふみのせいではなく、己のせいだ。おふみは、立派に弟の死を乗りこえた。だからこそ、鯉志を再開した。ならば、自分も……と、力めば力むほど、しつこく両親の断末魔が脳裏によみがえる。


 いや。現状、磯女の術を破るのが先。そこは譲れない。


 小豆とぎとの対決では、とにもかくにも龍左衛門は身動きできた。河童や左右冠者もいた。


 ここでは、誰も助けてくれそうにない。できることといったら、頭の中でらちの開かない回想に浸るか、目と耳を使うくらいだ。


「せっかく手に入れられそうだったのに」


 無念をにじませ、父は呟いた。雨の中でも、はっきりと聞こえた。


「よりにもよって、こんな時にねぇ」


 母もまた、父のやるせなさを汲みとった。


 手に入れられそう……。龍左衛門の焦りに、波紋めいた揺らぎが生じた。貸本屋は、最初から必要な本をまとめて担ぐ。出かける前に荷物を確かめるので、余ったり足らなくなったりはしない。むろん、本の内容も吟味する。少なくとも、家を出てから『手に入れる』必要などない。


 商売道具を粗略にしたくないのはもっともだし、拾えるものは拾うだろう。龍左衛門は、単純にそう考えていた。一面の事実でもある。


 事実の全てなのか。


 両親は、本を通じて何か重大な品を……あるいは手がかりを……得ようとしていたのではないのか。


 川底、岩……。最初の血判状は、河童が川底の岩をどかせて、隠し場所の出入口を開く機会へと導いた。


 両親は、血判状について知っていたのではないのか。


 龍左衛門の視野に、一冊の書物が映った。雑草の陰で、泥にまみれている。たとえ川に沈まなくとも、雨に打たれて中身は台無しになってしまっただろう。

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