十三、岩に柔肌 一
舟が桟橋を離れるとともに、霧は辺りを包みなおした。上流か下流かの区別がつくくらいで、まさに五里霧中だ。
にもかかわらず、龍左衛門は三つ目の船着場へまっすぐ近づいていくのを疑っていない。毎日毎日、何十回と往復している川だ。それこそ、目をつぶってもいける。
櫛田は、舟に座ったまま身じろぎ一つしない。男装しているものの、懐にはあの簪があるはず。こちらからは、背中しか見えないものの、抱くように押さえているのは簡単に想像できた。
鯉志に来た時の衣服は、本人がたたんで自分の前に置いてある。桟橋に残していくわけにもいかず、舟の中が濡れると困るだろうからと、櫛田は膝の上に置こうとした。こだわらないからと笑って説得した龍左衛門だが、老いた船頭達が櫛田家の名改役ぶりを称えていたのも納得できた。
簪というと。龍左衛門も、鯉志に雇われるまでは、情を交わした女性に買って贈ったことが何回かある。いうまでもなく、その場は感謝された。なにがしかは、大事に取っている人間もいるだろう。それはそれで良い。
簪一本に、恋人の生死を感じとる機会が巡ってくるのは、ほとんどあり得ない。これまで彼は、仕事を通じて、客の人生の一部を運ぶのだと自負していた。しかし、己の世界がまだまだ狭かったと自覚するほかない。とりわけおふみの心をほぐすには、こうした学びが全然足りない。
「小豆とぎと戦った時、生首袋には私の恋人の顔が映っていた」
舳先を見つめたまま、櫛田は語った。
「そうだったんですか。悪趣味も度がすぎてますね」
怨霊のやることであるから、当たり前でもある。さりとて簡単に流しさらせるはずがない。
「当然、私は酷く不快だった。戦いそのものは冷静さを保つよう務めたが、嫌なものは嫌だ」
「はい」
「お前や河童の手助けで、どうにか倒せたのは良いとして、できれば私自身がとどめを刺したかった」
「あれは、俺が川に落としたのが悪かったんですよ」
龍左衛門は本音を語った。
「そんなことはない。戦いとは、勝たねば終わりだ」
「じゃあ、もう答えが出てるじゃありませんか」
「答えが……」
「せんえつながら、勝ったのは俺達で、櫛田様もそこに入ってますよ。というより、ある意味で櫛田様が大将みたいなもんですから、もっと胸を張って下さいよ」
ふだん、必ずしも侍に好意的ではない龍左衛門も、ここばかりは嘘偽りない。
「大将、か。ありがたくはある反面、いささかほろ苦くもある」
「どうしてです」
「家を捨てたからには、大将どころか浪人……いや、女ならそれすら当たらない」
決意が揺らいだのではないだろうが、ただの仇討ちに訳の分からない忍びやらあやかしやらが出てきて、楽観できる方がおかしい。
「女であろうとなかろうと、人が一人暮らしていける余裕くらい、お江戸には充分ありますよ」
龍左衛門は、あえて凡庸な一般論で櫛田を励ました。
「そうだな。私も同感だからこそ、家を捨てた。その矢先に鯉志を訪れたのは、幸運だった」
「舟を出したかいがあるって……」
「龍左衛門、何かおかしい。油断するな」
唐突に、右冠者が割って入った。
「おかしい……」
濃霧は変わらないが、舟は順調に目的地へ達しつつある。
と、そこへ、猪牙船の三倍はあろうかという巨大な岩がいきなり行く手を阻んだ。こんな代物があるはずがない。
「うわぁっ」
舟は、吸いよせられるかのように、岩へと近づいた。いくら竿をさそうが効き目がない。
「危ないっ」
あわや衝突というところで、河童が舟と岩の間に我が身を差しいれた。間髪なしに、両手でそれぞれを突きはなす。
「おやおや、誰かと思えば人魚の河童さん。とんだ邪魔が入ったねえ」
櫛田やおふみとはまた異なる、若い女性の声がした。霧が少し薄くなり、岩の頂上に腰かけた髪の長い女性が見えた。
いや。上半身は、身なりの良い美しい女性という風情だが、下半身はもやのようにあやふやな煙になっている。
「磯女……これは厄介な……」
「右冠者も。どうして人間を助ける」
「わしは神君家康公の……」
「河童も含めて、私の大事な仲間だ。岩ごと消えてくれ」
櫛田が、妥協の余地なく要求した。
「いいのかい。あんた達、これが欲しいんだろう」
磯女は、どこからともなく血判状を出した。両手で広げ、わざとらしくひらひら振っている。
「どこでそれを……」
「偽物かもしれませんよ」
驚く櫛田に、龍左衛門は注意を促した。
「幹久、秀座。この辺りで疑いが晴れるだろう」
磯女が口にした名前は、もはや無視出来ない。
「お前も川の主とやらを求めているのか」
問いかける櫛田に、磯女はくすくす笑った。
「どうでもいいよ、そんなの。あたしが欲しいのは……」
白く細長い右人さし指が、すーっと龍左衛門を的にした。
「龍左衛門。あんただよ」
「どういう意味だ」
龍左衛門は、素で意味が分からない。
「龍左衛門をあたしにくれたら、血判状をやろうじゃないか」
「おいっ。船頭がいなくなったら、舟はお手上げじゃないか」
河童が怒鳴った。
「それ以前の問題だ。龍左衛門は物じゃない」
櫛田が、静かに指摘した。知りあってからわずかな時間しかすぎてないにもかかわらず、彼女が激しく怒っているのが背中越しに伝わってくる。自分のことであるのも手伝って、まさに彼は戦慄した。
ただの腕っぷしなら、櫛田が全力で掴みかかっても龍左衛門は小指一本で倒すだろう。だが、龍左衛門は何をどうしても今の櫛田には敵わないと思った。
「断るなら、血判状を破り捨てる」
「その辺のごろつきと変わらないな」
櫛田に比べれば、磯女は怖くない。だから、龍左衛門も思いきり馬鹿にした。
「何といわれようが、あたしは龍左衛門が気にいった。あんたらは血判状が欲しい。簡単な取り引きじゃないか」
「どうして、そこまで龍左衛門にこだわるんだ」
河童の質問に、磯女はにやっと笑った。
「ちょうど、ここにあてはまるのが欲しかった」
磯女が、自分の足元にある岩へと、一同の注目を寄せた。
「うげぇっ」
河童が悲鳴を上げた。龍左衛門も、態度には出さないが、同じ気持ちだった。
岩は、何十人という男の身体を折りかさねて形造られている。衣服こそ身につけているが、誰の顔も苦痛に歪み、自分の不運を呪わんばかりの表情だった。
「磯女は、自分が気にいった男を好きなだけもてあそび、飽きたら殺して岩にする」
左冠者が、嫌悪感をこめて説明した。
「ほら、ここが余白になっているだろう。龍左衛門は、ぴたっと来るんだよ」
磯女にいわれるまでもなく、岩の頂上に当たる部分が、なるほど人一人分空いている。
「だからどうした。お前が血判状を破りすてるなら、残る二枚を手にいれてどうにかするだけだ」
櫛田の主張ぶりが頼もしい。だいたい、こんな極端な交渉にほいほい応じる方がどうかしている。
「まずは、誰から血判状のことを教えられたのか語れよ。話はそれからだ」
それやこれやを踏まえ、龍左衛門は少しでも有意義な情報を取りこもうとした。同時に、岩の一部となった男達も検める。武士もいれば商人や農民もいた。年齢もばらばら。一貫性や規則性はない。
「そうだねえ。まあ、教えた方が楽しく盛り上がるねえ。近山 豪太。そこのお嬢さんなら良く知ってるはずさね」
「何いっ」
櫛田の反応から、恋人の名前が分かった。
「でたらめをほざくな。近山殿は……」
「死んだといいたいんだろ、右冠者」
磯女に一貫性があるとしたら、自分達を虚仮にした口調だろう。怒っている場合ではないのが余計に腹だたしい。
「龍左衛門のことだけでも許しがたいが、いうにこと欠いて近山様まで……。詫びるなら今の内だぞ」
櫛田が、膝に力を入れたのが舟の沈み具合で察せられた。
「おかしなことを怒るもんだ。龍左衛門が尋ねたから答えたっていうのに」
「ならば、近山様が亡くなる前に話を聞いたとでもいうつもりか」
櫛田の追及はもっともだ。不可能ではないにしても、不自然すぎる。
「そりゃ、死人と話なんて、したくてもできないね」
磯女の話が事実なら、少なくとも近山は、血判状を知っていたことになる。あやかししか知らないはずのことだ。すると、磯女はどこで近山という名前を知ったのか。
「近山様はどうなった。まさか、その岩の一部になったのではあるまいな」
仮にそうなら、即座に斬りかかりかねない櫛田であった。
「まさか。趣味じゃないし」
悪趣味な返事だったが、ある程度までは櫛田の殺気を減らす効果はあった。
「近山が、どんななりゆきでお前に血判状の話をしたんだ」
龍左衛門は、さらに踏みこんだ。
「なりゆきも何も、血判状の場所をあたしに教えて、どこかにいってしまったよ」
「いつ」
「十日ほど前」
時期としては、櫛田が家出した辺りか。
「場所は」
「この辺」
「水上で話をしたのか」
「いや、桟橋で」
「こやつは嘘つきだ」
櫛田は、ゆっくりと膝を浮かせた。
「近山様は、それより何日も前に死んでいる」
「へえ、不思議だねぇ」
顎を上げて、磯女は櫛田を見おろした。
「この岩、川底から生えてるの」
河童が、急に馬鹿馬鹿しいほど場違いな疑問を披露した。
「つまらないことで話の腰を折るな」
右冠者が顔をしかめる。
「だってさ、もう海に近いなら、こんな岩の塊があるのはおかしいよ。龍左衛門だって知らなかったろ」
「まあな。でもあやかしのやることだし……」
「ねえ左冠者、磯女って海にいるんだろ」
「海というか、海辺だな。普通は」
「じゃあ、なおさらおかしい」
「血判状とどうかかわる」
右冠者が、河童が疑問を放つことへの、根本的な問題を提起した。
「磯女が、本当にどこで何をしているのかを、はっきりさせた方が話を進め易いと思う」




