十二、祖先の実績 七
「ところで、ここの昇り降りには梯子がいると思うのだが」
櫛田には、井戸の深さが想像できない。相撲を取ったらさっさと帰るので、井戸については考えたこともなかった。とはいえ、川の近くだし、手水舎があるなら当たり前ではある。
「いえ、からくりがございます。龍左衛門、とにかく裏へ」
「分かった」
右冠者の言葉のままに、龍左衛門は歩いた。
井戸はすぐに見つかった。竹やぶを背景に、落ち葉や枝切れを敷きつめたさなか、半ば埋もれるような格好で。直径は一間(約百八十センチ)ほどか。深さまでは分からない。
「井戸の縁に手をかけ、右から左に回して見ろ」
「おいらも」
河童が、龍左衛門の隣に進みでた。
「ああ、頼む」
龍左衛門も、河童の力が加わるのはありがたい。
「じゃ、始めよう。せーのっ」
「むむむ……」
龍左衛門が、河童と力を合わせると、井戸の縁はきしみながらも車輪のように回りはじめた。重い物同士がこすれる音がして、かすかな振動とともに井戸の壁から細長い棒が等間隔に突きでてきた。
「これが、梯子となる。降りよう」
「河童、ありがとよ」
「へへっ。どう致しまして」
照れる河童を後にして、龍左衛門は率先して降りた。
井戸の底に降りると、横穴が開いていた。明かりはない。左冠者が、水中と同じように自分自身を発光させ、進み易くしてくれた。幅には余裕があるので、櫛田も降りてくる。
天井と壁は頑丈な木で補強してあり、かすかにツンとくる臭いが漂っている。ひっきりなしに水滴が滴り、そこかしこに水溜まりがあった。
「崩れたりしないか」
さすがの龍左衛門も、一抹の不安をぬぐえない。
「松脂から作った油を塗って腐らないようにしてある」
右冠者が即答した。
「念のために、河童と左冠者を見張りにしておきたい」
櫛田が持ちかけた。
「はい、そうしましょう」
龍左衛門もうなずき、河童達に呼びかけて同意を取った。
一回深呼吸して、龍左衛門はまた先頭を歩きはじめた。
良く考えると、自分達は茶家見川から一度隔たり、また川に近づいている。
櫛田の祖先は茶家見川と深くつながり、川の埋めたてをもって遠ざかった。彼らは今一度、川舟改役になりたがっている。そんな事情に幻滅して家出した千栄は、祖先の実績を守るために……引いては桐塚の陰謀を砕くために……血判状を手にしつつある。何やら皮肉な符号を感じてしまった。
桟橋から神社までに比べると、あっさりと道のりを消化できた。地下道の終点には螺旋階段があり、登るのみである。
段に足をかけると、しっかりした踏みごたえがあって安心した。ひたすら上を目指すと、やがて目線が床と一致した。
こうして、螺旋階段を終えたが、狭い。とにかく狭い。大柄な龍左衛門からすれば、左右から壁が圧迫してくるようだ。両腕を伸ばすことさえできない。せいぜい、肘が少し曲がるくらいなところまでだ。高さこそ二間はあるが、快適とはとてもいえなかった。
「忍び宿は、船宿の周囲に巻きつき、いわば箱により大きな箱を重ねるようにしてこしらえてある。ちなみに、わしらが血判状を回収したのはここから数歩進んだ場所の真下だ」
右冠者が教えてくるのは良いが、狭さがどうにかなるのではない。
「着がえとか刀のたくわえとかあるんだろ」
顔を左右に振って、龍左衛門は聞いた。
「そのまま進め」
いわれるままにするしかない。
十数歩ほどで、外壁側に人の胸ほどの四角い穴がくり抜かれているのが見えた。黒く変色した袋が置かれている。
「干飯を入れてある。ここで、立ったまま食事をすませる。壁そのものも、ある程度は分厚くして、要所要所にこうした物入れをこしらえたのだ」
「手洗いはどうするんだ」
我ながら、卑俗な好奇心が働いてしまった。
「少し先にある」
なるほど、床が高くせり上がっており、階段がついている。
「階段の部分と、床の高くなったところは分けてある。用を足す時は階段を手で引いて、できた隙間へ入り、高くなったとこらに現れる戸を開く。汚物は川に流す」
「理屈は正しいが、本当に最小限ぎりぎりだ」
「吉原のようなはずがなかろう。この先が脱衣場だ」
その言葉から連想される内装は、微塵も備わっていなかった。
天井から吊るされた縄の下端に、布包みが結びつけてある。子どもでも手が届くようにはなっている。
「この包みの中にある衣服から、お好きなものを選んで下され。わしと船頭は、このまま廊下の突き当たりから曲がったところにおりますので、目にはつきません。元から身につけられていた品は、ご面倒ながら、そのままお手に持っていられますよう」
右冠者が、櫛田に教えた。
「分かった」
「ここまで来て何だが、傷んじゃいないよな」
「炒った米と樟脳が入れてある。何百年も前の手配になるが、放置よりはましだ」
炒った米は湿気を吸う。樟脳は虫除けになる。
「多少のことで贅沢はいわん。すまないが、ここで着がえたい」
「では」
龍左衛門は、右冠者とともに角を曲がった。
「さて、龍左衛門。左側の壁に、手を這わせろ。どの辺りでも構わない」
右冠者の指示を実行すると、かすかな手応えとともに引き戸が開いた。棚が現れ、脇差や手裏剣といった武器の他に、数珠や火打ち石も置かれている。線香もあった。
「何だか釣りあいの取れない品々だな」
「忍びは、状況によって僧侶にもなれば農民にもなる。ここに、細々した物をまとめてあるのだ」
「待たせた」
着がえの終わった櫛田が現れた。地味な渋柿色の羽織袴で、左脇には畳んだ小袖と市女笠を抱え、左手に懐剣を持っている。右脇には三度笠を挟んでいた。
つまりは男装だが、歌舞伎の女形になってもおかしくない美麗ぶりだった。もっとも、龍左衛門は感心こそしたものの、惚れた腫れたには一つもならなかった。自分は船頭で相手は客というのもあるし、おふみに一途でもある。
「ここに、武器や雑貨がございます。それを身につけられましたら、桟橋へ帰りましょう」
右冠者が、脇差や線香を指した。
「良し。油紙はあるか。またあんなことがあっても、差しつかえないようにしておきたい」
「もちろん、ございます」
こうして、櫛田はすっかり準備を整えた。帰りは、回れ右しても良かったが、順番が入れかわってしまう。河童と左冠者が敵に遅れをとるとは考えにくいにしても、やはり、先頭は龍左衛門のままの方が望ましいだろう。だから、そのまま一筆書きの要領で、螺旋階段を目指すことにした。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
井戸から出てきた龍左衛門達に、河童は待ちくたびれた声を上げた。
「すまん。とにかく狭くて難儀した」
龍左衛門が軽く頭を下げると、続いて櫛田がやって来た。
「えっ、櫛田」
河童は、台詞が終わってからも、口をぱくぱくさせている。
「そうだが、どうかしたか」
「へえええっ。こんな姿に。へえええっ」
「何か変か」
「ち、違うよ。すげえ美人だ」
「褒めてもらっているところ申し訳ないが、美醜は関係ない」
「素っ気ないところがまた美人だ」
「関係ないといったろう」
うるさそうに、櫛田は右手で虫を払うしぐさをした。
「おい河童、不遜じゃろう」
左冠者が、ついに苦言を述べた。
「美人を美人っていっただけだ」
「まあ、そのくらいにしとけよ。先を急がないと夜更けになる」
あえて、平凡な主張で龍左衛門は事態を鎮めた。
「そうだ、線香を上げねば」
櫛田も、本来の目的を決して忘れてない。
一同は、古井戸の出入口を元通りにしてから、桟橋に戻った。霧は変わりなく辺りを隠している。小豆とぎの鼻歌も、かすかに聞こえている。
櫛田は、桟橋の端で、青く小さな線香立てを出した。角張っていて細長い形をしている。蓋を外してから短い線香を入れ、火をつけた。火打ち石や紙縒りの使い方はとても上手く、逆説的に家での生活ぶり……奉公人を雇う余裕もないのだろう……を連想させる。
火のついた線香から細く煙が昇り、特有の香りが広がると、龍左衛門は嫌でも両親の死を思いだした。
二人とも遺体は見つからず、遺品でも埋めて墓にしようかとも考えたものの、何か取ってつけたような気がしてそれもできず。
いや、似たような境遇になった他人がそうするのは、勝手だ。そこは、龍左衛門もわきまえている。自分がこだわっているのは、目の前で、本当にあっという間の出来事だったということだ。長患いの果てに、とか、大ケガをして手当てのかいなく、とか、そんな事態とはまるで異なる。
二人は、流されていく瞬間、そろって龍左衛門を見た。龍左衛門も見返した。
あるいは、船頭として川を往復している内に、ひょんなはずみで両親を見つけられるかもしれない。虚しいとは知りつつ、期待もしている。
線香が燃えつきた。櫛田は竹筒の水をほんの少し香炉に注ぎ、蓋を閉めた。
「済んだ。改めて、手間を取らせて申し訳ない」
「いえ。これで一つ……鯉志のも合わせたら、二つ目ですね」
龍左衛門は、葛藤をおくびにも出さない。
「そうだ。残る三枚の血判状は……左冠者も右冠者も、最後まで助けてくれるのか」
「いうまでもございません」
左右冠者はそろって答えた。
「おいらも一緒にいくよ。泳いでいけるから、舟には乗らなくていいし」
河童も請け負った。
「俺がいなけりゃ、そもそも始まらないでしょう」
龍左衛門も、そこは譲らない。
「かたじけない。よろしく頼む」
櫛田は頭を下げ、三度笠をかぶってから舟に向かった。




