一、日暮れて客遠し 一
行きかう人々の足音も話し声も、日没が近づくにつれまばらになる。夕七つ(午後四時頃)を過ぎたくらいの頃あいだ。
龍左衛門は、最後の客を送り終え、ようやく船着き場の桟橋に戻ってきた。残暑厳しく蝉は忙しい。蝉時雨を耳にしつつ、猪牙船の錨を川に沈め、舳先と船着き場の柱を綱で結びつけた。それから肩を揺すったり腕をもんだりして、自分を労る。
鯔背という言葉は、鯔の背のようにぴんとまっすぐしているのが由来だ。五尺七寸(約百七十一センチ)の背丈に滑らかな顎の線、きりっと引きしまった目鼻だちとあって、龍左衛門はまさしく鯔背そのものの江戸っ子である。
むろん、顔だけではない。二十代の若さながらも、一日中舟を漕ぐことで、盛り上がり節くれだった手足が培われている。
汗まみれの鉢巻きを外し、龍左衛門はしゃがんだ。舷から身を乗りだし、鉢巻きを布にした上で水面にひたす。さっき手の甲でぬぐったばかりの額から、また汗が吹いてでていた。
さっき連れていった、お大尽の笑い声がまだ耳に残っている。茶代を弾んでくれたし、悪い客ではなかったが、とにかく暑苦しかった。
最近、また川舟に課される税金が上がった。田沼 意次のお陰でか、金持ちは花火見物やら悪所通いやらに勤しんでいる。そこに猪牙船や屋形船が使われるのは当たり前で、儲かっているからには税を増やすという理屈だ。これでは商売になるのかならないのか分からない。
『娘も嫁にいって、息子は立派な跡継ぎだし、これからようやく自分勝手に遊べる。自分の妻か。もう死んだよ』
お大尽の声が、脳裏によみがえる。龍左衛門は、舟を操りつつ、心からお祝い……といっていいかどうか……した。これだから、船頭として働くのはやめられない。難しい理屈を語る気はないが、他人の人生を一部なりと運ぶ仕事だ。
背後でどすん、という音がした。仕事の余韻がいきなり切断され、慌てて振り返る。二尺(約六十センチ)はあろうかという鯉が舟の上でじたばたしていた。
「疲れたろ。こいつで精をつけなよ」
舳先に両腕をかけ、水面から上半身をだしたそいつは気さくに呼びかけた。
そいつときたら、頭に髪は一本もなく、代わりに皿を乗せている。顔つきこそ六つか七つの子どもに近いが、口はとがって突きでていた。そして、背中には亀のような長細い甲羅もある。衣服はなく、全身が薄緑色をしている。まごうことなき河童だ。
驚きはしない。それどころか、旧知といっていい仲だ。もっとも、そうなる陰には両親の死が間接的にかかわっている。河童には全く責任のない話なので、こだわるつもりはない。
「どうせまた、相撲を取ってくれって魂胆だろ」
河童の面前で、龍左衛門は布を水面からだして絞った。力士さながらの腕っぷしが盛りあがる。河童には恩義があるので、可能な限り応じてきた。しかし、今日は駄目だ。いや、今日『も』駄目となる。
ここ半年近く、龍左衛門は決まった雇い主の元で働いている。気の乗った時だけ働いたり、明日を無視して遊んだりするのが、次第に難しくなってきていた。
「この前は、汗が目にしみて負けたんだい」
「へぇ、そうか」
河童の負けおしみを聞きながして、顔をふいた。ようやく一区切りがつく。手ぬぐいを首にかけてから、暴れまわる鯉を掴んだ。どぼんと無造作に川へと戻す。大きな水しぶきとともに、鯉は元気よく泳ぎさった。
「あーあ、せっかくの贈り物が」
「受けとったら、相撲をしなけりゃいけなくなるじゃないか」
鯉を触って粘ついた手を、龍左衛門は改めて川で洗った。河童は残念そうな、腹だたしそうな顔になった。
「おいらは、甲羅の人魚を泣かせないよ」
河童は、龍左衛門に背を向けた。なるほど、甲羅には上半身が美女で下半身が魚の絵だか彫物だかが描かれている。ご丁寧にも、乳首は伸ばした髪で隠されていた。
「いつ入れたんだよ」
危うく吹きだしかけた龍左衛門だが、ごまかすために真面目くさって聞いた。
「つい数日前。やっぱり甲羅に人魚は粋だよな」
「お、おう」
「だから、人魚にふさわしい強さを示さなくちゃいけないんだ」
河童なりに、筋道を突きつめたのだろう。だからといってつきあう道理はない。
「他の奴とやればいいだろ」
首に巻いた手ぬぐいで手をふきながら、龍左衛門はいった。
「弱くてつまらないから嫌だ」
「すまんな。また今度にしてくれ」
「ちぇっ。ここんとこ、そればっか」
「俺もなぁ、取り組みの一つでもして憂さを晴らしたいよ。お前とは長いつきあいだし。けど、今日はやたらと霧がでて、それでなくとも一苦労なんだ」
「おいらみたいなのが出る前触れかも」
おいらみたいなの、というのが、河童に限らずあやかし全般なのは龍左衛門にも分かっている。
「とにかく今日は勘弁してくれ。頼む」
今日は、両親の祥月命日になる。だからといって何か供養めいたことをするのではないが、さすがに勝負ごとは控えたかった。
「茶家見川、二十五町に店百軒だなんて粋がってた癖に。人間なんて勝手だなあ」
どこで聞きかじったのか、河童は人間の世界の言葉……というより符丁……を時々口にする。それがまた変に龍左衛門の心を突くので無視しきられない。
茶家見川とは、まさにこの川だ。目黒川の支流を為す二十五町(約二千七百二十五メートル)。本当に店が百軒あったかどうかまでは知らない。そのくらい賑わっていたというくらいな意味だろう。
「河童にいわれちゃ世話ないぜ」
さっさと帰ろうという気持ちが、河童の悪態で中途半端にかき乱されてしまった。苦笑が湧いてくる。
この川……茶家見川は、一度死んだ川だった。ゴミや汚物で云々、ではない。土砂で埋めたてられた。人間の都合で。それから年数がたち、まさに人間の都合で『復活』した。いや、させられた。
両親の死も、間接的に茶家見川の蘇生がかかわっている。河童や、他のあやかし達との出会いも。
「埋めたり掘ったり、どうして人間って奴はこうせわしないんだ」
「俺だって、お前みたいにのんびり生きていけるんならそうしてる」
「河童がのんびりしてると思ったら、大きな間違いってもんさ。人間に負けたままだと、面目丸つぶれだし」
「相手が俺だから仕方ないとでもいっとけ」
「お前、人間のくせに天狗になるなよ」
思わぬ洒落に、龍左衛門は不覚にも苦笑した。
「笑うな。神社にきれいな人間の女がいたから、お前だってきたくなるにきまってる」
とっておきの切り札なようで、河童はいかにも得意げな顔をした。
神社とは、この船着き場から大して離れていないところにある廃社だ。河童と相撲を取るのはそこに限る。誰もいなくなって久しく、めったに人は通らない。
「いつの話だ」
きれいな人間の女と耳にして、つい龍左衛門は誘いに乗ってしまった。
「かなり前から」
「どうやって知った」
「鐙口に教えてもらった」
鐙口とは、馬具として足をかけるための鐙が化けたあやかしである。名前の通り口がついているが、手足もある。
「鐙口か。まだ会ったことはないな」
河童にせよ鐙口にせよ、あやかしがそれと認めた者でなければ、存在を感じることすらできない。
「何か、訳ありみたいでさ。おいらも、いろいろ話をしたり、たまに魚を届けたりした」
「訳あり……」
「どこかの侍のお嬢さんだって。くぎただか、きしまだか、そんな名前だったかな」
河童は、人間の名前には特に執着しない。
「それと、神社の裏にある古井戸……何かあると思う。足音の響き方がちょっと違うんだ」
これこそ探索に値するだろうといわんばかりに、河童は目を輝かせた。
「まあ、人それぞれの事情があるし。古井戸の掃除をする気もない。俺は帰る」
「ちぇっ。早く勝負しろよ」
河童はしぶしぶ水中に消えた。
それから龍左衛門は、手ぬぐいで舟底をふいた。鯉が跳ねまわったせいでべとべとしているからだ。結果として、手ぬぐいを洗いなおさねばならなかった。
余計な手間が増えたのだが、河童に対して悪く思うつもりはない。
水面にたつ波紋を背にして、龍左衛門は桟橋に上がった。手ぬぐいを鉢巻きにして額を締めなおし、船着き場から道を経てすぐ目の前の舟宿に入る。
品川の舟宿『鯉志』において、船頭は龍左衛門一人しかいない。つまり、傾きかかった商運を取りもどせるかどうかは彼にかかっている。そうした責任感も、最近あまり河童につきあえなくなってきている理由の一つだ。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
座敷から、柔らかく声をかけてきたのは女将のおふみ。龍左衛門より五つ歳上で、未婚である。背丈は龍左衛門より頭一つ半ほど低く、ほどほどに豊かな肉づきをしている。
「今日のお仕事はこれでおしまいです」
おふみは、一日の仕事の最後に決まってそう口にする。
「はい、お疲れ様です」
龍左衛門も、満面の笑みを浮かべる。
「そうなると、まっさきに目指すところがあるでしょう」
おふみはくすくす笑った。
「そうですねぇ、鱚の天ぷらで一杯ひっかけたいところです」
ほんの百歩も歩けば、鱚といわず、鯵や鰯を捌いて出す屋台に行きあたる。立ちぐいながら、酒も飲めた。
「うふふふっ、お舟の次の次に恋しいですね」
「え、い、いやぁ、それほどでも」
お舟の次は女性。龍左衛門目当ての女子衆が、わざわざ『鯉志』から舟をだすよう手配することが、一種の流行になっている。
数年前までは、客でさえなければ、様々な相手と浮名を流した。しかし、おふみと知りあってからは、それがぴたりと止まっている。時間差というべきか身から出た錆というべきか、おふみはいまだに龍左衛門をそうした性格だとみなしているようだ。




