第三十話:餅撒き前夜
――餅まき、一週間前。
王都の空気は、すでに静かに歪み始めていた。
「いつだ?」
「本当にやるのか?」
「無料で食べ物が配られるらしい」
最初はただの噂だったはずのものが、いつの間にか“確信”に変わっている。
まだ何も起きていない。
それなのに、人だけが増えていく。
その中心に、この店があった。
中は、不思議なほどいつも通りだった。
火が入る音。
パンの焼ける匂い。
鍋の中で静かに揺れるカレー。
煮込みハンバーグの濃い香り。
外の喧騒とは切り離されたように、ただ淡々と“いつもの仕事”が続いている。
リオナが帳簿をめくる。
「在庫、問題ありません」
「むしろ想定より安定しています」
猫人が皿を運びながら、苦笑する。
「外と中で別世界だな、これ」
俺は火を見たまま言う。
「準備は終わってる」
やることは単純だ。
作る。
並べる。
渡す。
それだけのはずだった。
――その時。
扉が開く。
「来たぞ!!」
姫だった。
すでに“当たり前のように来る客”になっている。
「餅まきとやらは、一週間後だな!」
リオナがすぐに頭を下げる。
「はい、予定通りです」
姫は店内を見回し、満足そうに頷く。
「もう準備はできているのか?」
俺は短く答える。
「できています」
姫は迷いなく笑う。
「よい」
そして当然のように椅子に座る。
「では試食だ」
リオナは何も言わず、淡々と皿を出す。
パン。
カレー。
煮込みハンバーグ。
姫は一口食べて、わずかに目を細めた。
「変わらぬな」
「それがいい」
俺は答える。
「変えないようにしてる」
姫は静かに笑う。
「それが一番難しいのだぞ」
軽い言葉なのに、なぜか胸の奥に沈む。
外では、人が増えている。
まだ配られていない。
まだ何も始まっていない。
それでも人は集まる。
“次がある”と知っているからだ。
リオナが静かに言う。
「広がり方が異常です」
「宣伝ではなく、期待です」
猫人が肩をすくめる。
「もう店っていうより現象だな」
火は安定している。
何も崩れていない。
だがその“安定”の輪郭だけが、じわりと熱を帯びている。
俺は姫の前に立つ。
「姫様、一週間後、手伝いをお願いしたい。」
店内の空気が、一瞬だけ止まる。
「パンや餅を投げる側を頼みたい。」
姫が首を傾げる。
「わらわがか?」
「はい」
沈黙。
ほんの一拍。
そして――
姫は笑った。
「面白い」
即答だった。
迷いも、確認もない。
ただ、その一言だけで決まる。
姫は立ち上がる。
「一週間後、楽しみにしておる」
それだけ言って、店を出ていく。
扉が閉まる。
残された空間に、鍋の音だけが戻る。
猫人がぽつりと呟く。
「……もう止まらねぇな」
俺は短く答える。
「最初から止めてない」
外のざわめきが、少しだけ強くなる。
だが店の中は、静かなままだった。
そして、数日が過ぎた。
店は変わらない。
開店し、調理し、提供する。
ただそれだけの繰り返し。
だが、その“繰り返し”が、すでに別物になっていた。
客は増え続けている。
噂は噂で終わらない。
「餅まきの前に味を確かめたい」
その理由だけで列ができる。
リオナが帳簿を見ながら呟く。
「通常運用が、通常ではありませんね」
猫人が笑う。
「もう日常がイベントだな」
俺はただ火を見る。
揺らぎはない。
仕組みは完成している。
あとは時間だけだ。
――そして、餅まきの前日。
空気が変わる。
ざわめきが、“確信”に変わる直前の重さを帯びる。
「明日だ」
誰かがそう呟いた瞬間、それが街全体に伝染する。
店の前には、いつもより早い列ができ始めていた。
リオナが帳簿を閉じる。
「明日の準備、問題ありません」
猫人が息を吐く。
「いよいよだな」
俺は短く答える。
「ああ」
だが、それは終わりではない。
ただの通過点だ。




