第1話 落ちこぼれの入学式
王立セレスティア魔法学院の入学式は、王都で一番高い時計塔の鐘が七つ鳴るところから始まる。
一つ目の鐘で、白い鳩が空へ放たれた。
二つ目の鐘で、学院の尖塔に青い炎がともった。
三つ目の鐘で、新入生たちは一斉に息をのむ。
そして四つ目の鐘が鳴るころ、レオン・アルステッドは自分の手のひらを見つめていた。
そこには何もない。
火の紋も、水の紋も、風の紋も、土の紋も、光の紋も、影の紋も。
魔法使いとして生まれた者なら、十五歳までに必ずどれか一つの系統紋が浮かび上がる。
王国では、そう教えられている。
系統紋は才能の証であり、未来の職業を決める印だった。
レオンの手のひらは、ただ白かった。
「アルステッド。まだ見ているのか」
隣に立つ少年が、笑いをこらえもせずに言った。
銀糸の刺繍が入った制服。
胸元には名門ヴァイス家の紋章。
エリオット・ヴァイスだ。
「見ても増えないぞ、紋章は」
周囲の新入生が小さく笑った。
レオンは手を握りしめる。
慣れている。
村を出る前から、ずっとそうだった。
魔力の量は低い。系統紋はない。筆記試験だけで補欠合格した平民。
王都の貴族たちにとって、彼は珍しい見世物に近かった。
それでも、ここに来た。
王立セレスティア魔法学院。
王国最高の魔法使いを育てる場所。
古代魔法の研究書が眠り、戦場を変えるほどの結界術が教えられ、王宮魔導士への道が開かれる唯一の学院。
ここでなら、何かが変わるかもしれない。
そう思わなければ、十二時間も馬車に揺られて王都まで来られなかった。
五つ目の鐘が鳴った。
壇上に立った学院長オルディスが、杖の先で床を軽く叩く。
広場に満ちていたざわめきが、薄い布をかけられたように静まった。
「新入生諸君。君たちは本日より、王国の未来を担う魔法使いの卵である」
学院長の声は穏やかだった。
けれど不思議と、広場の隅まで届いた。
「才能は祝福である。努力は道である。そして選択は、君たち自身の魂である」
レオンはその言葉だけを、胸の奥にしまった。
才能は祝福。
努力は道。
なら、選択だけは自分のものだ。
入学式の後、新入生は講堂へ移動し、最初の魔力測定を受けることになった。
大理石の床の中央に、六角形の水晶台が置かれている。
火、水、風、土、光、影。
六つの系統石が、水晶台の周囲で淡く輝いていた。
名前を呼ばれた者が台に手を置く。
水晶が光り、適性と魔力量が記録される。
ほとんどの学生は一つ、優秀な者は二つの系統石を反応させた。
エリオットが呼ばれた時、講堂の空気が変わった。
彼が水晶台に手を置いた瞬間、光の系統石がまばゆく輝き、風の系統石まで淡く震えた。
「光系統、上級適性。風系統、中級適性。魔力量、A」
教師の声に、講堂がどよめいた。
エリオットは当然だという顔で手を離し、振り返りざまにレオンを見た。
次に呼ばれたのは、レオンだった。
「レオン・アルステッド」
足が重い。
それでも進むしかなかった。
レオンは水晶台の前に立ち、手を置いた。
冷たい感触が手のひらに広がる。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起こらなかった。
講堂のどこかで、誰かが吹き出した。
教師が眉を寄せる。
「もう一度、魔力を流してみなさい」
レオンは目を閉じた。
胸の奥に意識を沈める。
毎晩、村の裏山で練習した。
雨の日も、雪の日も、誰にも見られないように。
体の中心にあるはずの熱を探し、細い糸のように手のひらへ通す。
けれど、水晶は沈黙したままだった。
「系統反応なし。魔力量、E」
その瞬間、笑い声が講堂を満たした。
レオンは水晶台から手を離した。
指先がかすかに震えている。
悔しさなのか、恥ずかしさなのか、自分でもわからなかった。
ただ一つだけ、奇妙なことがあった。
水晶台の奥。
誰も見ていないはずの台座の下で、小さな銀色の光がまたたいたのだ。
星のような光だった。
*
測定が終わると、レオンは逃げるように講堂を出た。
学院の廊下は迷路のように広い。
壁には歴代の王宮魔導士の肖像画が並び、窓の外には訓練場と薬草園が見える。
新入生たちは寮へ向かっていたが、レオンは人の流れから外れた。
どこでもよかった。
笑い声が聞こえない場所なら。
古い階段を降り、渡り廊下を曲がり、半開きの扉を見つけた。
扉には「旧書庫」と書かれている。
中は薄暗く、乾いた紙と木の匂いがした。
レオンは棚の間に入り、壁にもたれた。
「……何しに来たんだろうな、僕は」
声に出すと、思ったより情けなく聞こえた。
村の母は笑って送り出してくれた。
父の古い外套を直して、王都は寒いからと渡してくれた。
近所の子どもたちは、レオンが魔法学院に行くと聞いて目を輝かせた。
その全部に、胸を張って帰りたかった。
けれど初日から、結果はE。
王国で一番低い評価。
レオンは拳を握った。
その時、棚の奥で何かが落ちる音がした。
「誰かいるのか」
返事はない。
レオンは息をひそめて奥へ進んだ。
旧書庫の奥には、床に描かれた古い魔法陣があった。
埃に埋もれているのに、線だけが淡く光っている。
その中央に、一冊の黒い本が落ちていた。
表紙には、見たことのない文字で題名が刻まれている。
レオンが手を伸ばした瞬間、背後から冷たい声がした。
「触らないで」
振り返る。
そこに、黒い外套をまとった少女が立っていた。
夜のような髪。
月明かりを閉じ込めたような銀の瞳。
学院の制服ではない。
けれど年は、レオンと同じくらいに見えた。
少女はレオンではなく、床の魔法陣を見ていた。
「あなた、どうしてここに入れたの」
「迷っただけだ。君こそ、誰だ」
少女の目が細くなる。
「答える必要はないわ」
彼女が一歩踏み出すと、旧書庫の空気が変わった。
火でも水でも風でも土でもない。
光でも影でもない。
測定で見たどの魔力とも違う、夜明け前の空のような気配。
レオンの右手が熱を持った。
手の甲に、銀色の小さな痕が浮かび上がる。
星の形をした痕。
少女の表情が、初めて揺れた。
「星痕……?」
その言葉を聞いた瞬間、床の魔法陣がまばゆく輝いた。
黒い本がひとりでに開き、旧書庫の棚が風もないのに震え始める。
遠くで鐘が鳴った。
入学式の鐘とは違う。
もっと古く、もっと深い場所から響く音だった。
少女はレオンの腕をつかんだ。
「逃げて。今すぐ」
「何が起きてるんだ」
「あなたが起こしたのよ」
銀の光が広がる。
レオンは少女の手の冷たさを感じながら、開かれた黒い本の一行を見た。
読めないはずの文字が、なぜか意味を持って胸に落ちる。
星を継ぐ者、夜明けの魔女を見つけよ。
次の瞬間、旧書庫の扉が内側から音もなく閉じた。
レオンの学院生活は、落ちこぼれとして始まった。
けれどその日、彼はまだ知らなかった。
自分の手に浮かんだ小さな星が、王国の嘘を暴き、敵と呼ばれた少女の運命を変え、やがて戦争そのものを終わらせる鍵になることを。
そして何より。
彼女を守りたいと願う日が来ることを。




