第70話:神の独走と、血塗られた獣たち
昭和二十七年(1952年)春。
群馬の山岳地帯に切り拓かれた『九条国際サーキット』は、鼓膜を圧迫するような異様な熱気と興奮に包まれていた。
グランドスタンドを埋め尽くした数万人の観客たちは、誰もがこれから始まる未曾有の暴力的な闘争に喉を鳴らし、固唾を呑んでスターティンググリッドを見下ろしている。
強烈な日差しがアスファルトを焼き、陽炎の向こうに整列した十六台の怪物がゆらゆらと歪んで見えた。
世界各国から集い、残酷な予選タイムアタックを生き残った十六名の狂人たち。
彼らの駆るマシンは、それぞれの国家の威信と、莫大な開発資金と、エンジニアたちの執念の結晶であった。
メインスタンドの最上階に設けられたVIPルームでは、九条芳信が片手にワイングラスを持ち、氷のような微笑を浮かべてコースを見下ろしている。
「さあ、見せてもらおうか。世界中の天才たちが、私の用意したこの『緑の地獄』で、どこまで人間らしさを失ってくれるかを」
隣に立つ秀一もまた、冷徹な視線をスタートラインへと向けていた。
コース上のシグナルタワーに、赤いランプが一つ、また一つと点灯していく。
V8、V12、過給機付き、それぞれのエンジンが一斉に咆哮を上げ、サーキット全体が物理的に激しく振動した。
ドライバーたちの心拍数が極限まで跳ね上がり、呼吸が荒くなる。
五つの赤ランプが点灯し、そして――。
一斉にブラックアウト。
人類最速を決める聖戦の火蓋が、いま切って落とされた。
「なんだと……!?」
予選二位の三菱ワークス、真壁一輝は、ヘルメットの中で驚愕の声を漏らした。
ポールポジションからスタートした神谷蒼の漆黒のプロトタイプ『叢雲』が、まるで別の時間軸を生きているかのような圧倒的な加速で飛び出したのだ。
通常、高出力のマシンはスタート直後にタイヤが空転し、路面にパワーを伝えるまでにコンマ数秒のタイムロスが生じる。
しかし神谷は、クラッチのミートとアクセルの開度を、まるで機械以上の精度でコントロールし、路面を一切削ることなく完全なトラクションを生み出していた。
第一コーナーに差し掛かる頃には、神谷の『叢雲』はすでに後続に絶対的な絶望を与えるほどのリードを築いていた。
「あの野郎、人間じゃねえのか!」
予選四位の赤星健が叫びながらシフトダウンし、ブレーキングに突入する。
神谷は、時速二百五十キロからの急減速で発生する凄まじい縦Gと、コーナリング時の内臓を押し潰すような横Gを、顔色一つ変えずに受け流していた。
戦闘機の三次元機動で鍛え抜かれた空間認識能力と耐G性能。
神谷蒼は、九条芳信が創り上げた「究極の機械」と完全に同化し、背後にいる人間たちをあざ笑うかのように、美しい弧を描いてあっという間に視界から消え去っていった。
「神谷はくれてやる! だが、二位の座は誰にも渡さん!」
予選三位、イタリアの名門『ロッソ』のエースであるアルベルト・ロッシが、真紅のマシンを踊らせながら第一コーナーへと飛び込んだ。
背後に積まれたV型12気筒エンジンが、楽器のように甲高く美しいエキゾーストノートを奏でる。
アルベルトは、事前のデータや計算ではなく、ラテンの血に刻まれた「パッション」と驚異的な反射神経だけでマシンを操っていた。
アウト側から三菱の真壁に並びかけるアルベルト。
「ここは空ではないと言ったはずだ、日本のサムライよ!」
アルベルトが執念のレイトブレーキングで鼻先をねじ込もうとするが、真壁の駆る『零神』は揺るがなかった。
「舐めるな。陸に降りたところで、三菱の翼は折れはしない」
真壁は冷徹にステアリングを切り込んだ。
『零神』の車体に施された航空力学の粋――ダウンフォースが、マシンを強烈にアスファルトへと押し付ける。
高速コーナーでの旋回性能において、空気の力で路面に吸い付く三菱のマシンは、純粋な機械的グリップに頼るイタリアのマシンを凌駕していた。
アルベルトのマシンが遠心力で外側へ膨らみかけた、その絶対的な死角。
「邪魔だ、退きな海外勢!」
極限まで肉抜きされた車体を震わせながら、赤星の『KRDスプリント』があり得ない速度でイン側へと突き刺さってきた。
車重が軽いということは、それだけブレーキの限界が奥にあるということだ。
赤星は、神谷からの地獄の耐G訓練で鍛え上げた首の筋力でGに耐え、前走の二台がブレーキを踏んださらに奥のポイントでフルブレーキングを敢行したのだ。
真壁、アルベルト、そして赤星。
三台のマシンが、互いのサイドミラーが削れそうなほどのゼロ距離で、スリーワイドのままコーナーを駆け抜ける。
鉄と鉄が擦れる火花が散り、ゴムの焼ける凄まじい異臭がコクピットを満たす。
その直後、後方のストレートエンドでは、重低音の暴力が空気を震わせていた。
「アメ車の直線番長が、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
氷室涼の駆る『KRDターボ』が、巨大なタービンから狂ったような過給音を響かせ、アメリカの巨大なV8エンジンを積んだエドワード・ノートンのマシンと並走していた。
ノートンの『アイアンサイドV8』は、七リッターを超える圧倒的な排気量でアスファルトを削り取っていたが、氷室はそれを強引なブーストアップで力ずくでねじ伏せにかかる。
「クレイジーなジャップめ、エンジンが爆発するぞ!」
ノートンが恐怖を覚えるほどのハイブースト。
氷室のマシンのエキゾーストパイプからは、未燃焼のガスがバックファイアとなって火柱を上げている。
氷室はブレーキポイントの手前ギリギリまでアクセルを床に踏みつけ、ノートンを力でねじ伏せて前へと出た。
「はっ、九条のエンジンがこの程度の熱で音を上げるかよ!」
野獣のような笑みを浮かべる氷室の背後で、もう一台のKRDのマシンが、静かに、しかし確実に牙を研いでいた。
「バカね、男って。あんな無駄なタイヤの使い方をして、最後まで保つと思っているのかしら」
橘マキの駆る『KRDスタビリティ』は、前方の乱戦に巻き込まれることなく、誰よりも美しく滑らかなラインを描いてコーナーをクリアしていく。
帝都の渋滞をミリ単位で縫うように走ってきた彼女の瞳には、前を走るマシンたちの無駄な荷重移動や、タイヤの偏摩耗が手に取るように見えていた。
ブレーキを労り、タイヤの摩擦熱を最適に保ちながら、マキは最短距離の「黄金の軌跡」をなぞり続ける。
彼女は焦ることなく、男たちが自らの熱量で自滅していく瞬間を、冷酷な狩人のように待っていた。
VIPルームでは、芳信がワイングラスを傾けながら、その凄惨な二位争いを満足げに見下ろしていた。
「どうやら、神谷は彼らの絶望すら引き離してしまったようだな」
芳信の視線の先、はるか前方のセクターでは、神谷の『叢雲』がすでに後続を数秒以上も引き離し、単独でのタイムアタックのような孤独な独走状態に入っていた。
人間には到達不可能な神域の走り。
「ええ。神谷くんはもはや、誰とも競っていません。彼が戦っているのは、あなたから与えられた物理法則の限界値だけです」
綾子が芳信の隣に並び、モニターに映し出される神谷のラップタイムを見て微笑んだ。
「だが、面白いのはあの中で足掻く人間たちだ」
芳信はグラスの底に残る赤い液体を揺らし、獰猛な笑みを浮かべた。
「三菱の技術、イタリアの情熱、アメリカの馬力。そして、我が九条が放った狂犬たち。神に手が届かないと悟った時、人間は同族同士で血みどろの殺し合いを始める。……さあ、もっとアクセルを踏み込め。内臓が破裂するまで、鉄の悲鳴を聞かせてみろ」
コース上では、第一セクターから第二セクターへと突入し、高低差がさらに牙を剥く『緑の地獄』の深部へとマシンたちが雪崩れ込んでいた。
アルベルトが執念のカウンターを当てて真壁の死角に潜り込もうとし、赤星がそのわずかな隙間に車体をねじ込む。
横Gの暴力がドライバーたちの首を締め上げ、視界を奪い、脳への血流を阻害する。
モータースポーツという名の、華麗にして残酷な生存競争。
世界が固唾を呑んで見守る決勝レースの前半戦は、狂気と熱狂の渦を巻き起こしながら、さらなるカオスへと加速していった。




