第68話:黄金の動脈と、開戦のフラッシュ
昭和二十七年(1952年)春。
帝都・東京の空は、至る所で天を衝くように伸びる真新しい鉄骨と、無数の巨大クレーンによって埋め尽くされていた。
九条芳信の台頭以来、日本列島は文字通り「沸騰」していた。
講和後の莫大な外貨流入と、九条が敷いた次世代インフラ網の構築による、前代未聞の建設ラッシュである。
その凄まじい経済の血流を根底から支えていたのは、九条自動車工業が新たに発表した一台の怪物――超大型貨物牽引車、通称『九条式・重ライントレーラー』だった。
「……信じられん。あんな巨大な鉄の塊が、時速八十キロでハイウェイを巡航しているだと?」
視察に訪れたアメリカのインフラ視察団は、専用の物流幹線道路を次々と駆け抜けていくその威容に、言葉を失っていた。
史実の日本における狭隘な道路事情とは異なり、芳信と秀一が強権を発動して整備させた「九条ネットワーク」の基幹道路は、欧米のハイウェイすら凌駕する規格を誇っていた。
そのため、全幅3メートルを優に超える巨大トレーラーであっても、何の制限も受けることなく日本中を駆け回ることが可能だったのだ。
心臓部に搭載されたのは、芳信が戦艦の発電用エンジンをベースに再設計した、超高トルクの過給機付きV型12気筒ディーゼルエンジン。
山のように積まれた鉄骨や、数百トンに及ぶセメント、果ては工場用の巨大プラント設備まで、このトレーラーは一切のあえぎ声すら上げず、鼻歌交じりで運んでみせた。
結果として、かつては数ヶ月を要した資材の輸送がわずか数日に短縮され、日本の建設業の工期は劇的に縮小。
狂ったような速度で都市が更新されていくその様は、世界から「極東の黄金郷」と畏怖と羨望を込めて呼ばれるようになっていた。
国家の「血脈」が太く、速く鼓動するにつれ、人々の熱狂もまた、ひとつの頂点へと向かっていた。
群馬県、『九条国際サーキット』。
物流の要として日本中を駆け回るトレーラーたちとは対極に位置する、ただ「最速」であることのみを追求した刃のようなマシンたちが、世界中からこの緑の地獄へと集結していた。
フォーミュラ1(F1)世界選手権・特別招待戦。
総エントリー台数は実に50台に達した。
だが、芳信が定めたルールは残酷だ。
決勝のグリッドに並ぶことが許されるのは、本日の予選タイムアタックを生き残った上位わずか「16台」のみである。
「橘さん! こちらへ一言お願いします!」
「紅一点として、世界最高峰のF1ドライバーたちを相手にどう戦うおつもりですか!」
パドックの裏手に降りた途端、マキは殺気立った報道陣と無数のフラッシュの波に飲み込まれた。
マキは心中で(ディナーだの何だの、馬鹿みたい)と毒づきながらも、完璧な営業スマイルを顔に貼り付けた。
「そうですね。紳士的なエスコートは歓迎いたしますわ。……でも、コースの上では、私が皆様をエスコート(先導)することになると思いますけれど」
その優雅な切り返しに記者たちが沸き立ったその時、背後から落ち着いた、しかし威圧感のある声が重なった。
「皆様、それくらいにして頂けませんか。我々のチームメイトには、これからコンマ一秒の精度を研ぎ澄ませるための静寂が必要なのです」
「九条のドライバーとして、最高のパフォーマンスをお見せすることをお約束します。ですから今は、彼女をマシンへ送り出させてください」
赤星と氷室だった。
二人はKRDの気品あるレーシングスーツを纏い、洗練された仕草で報道陣を制しながら、マキを促して喧騒から距離を置いた。
記者たちの声が届かないピットの奥、静寂が支配するガレージへと場所を移した途端、三人の空気は一変した。
「……はぁ、助かったわ。あいつら、レースよりゴシップにしか興味ないんだから」
マキが深いため息をつくと、赤星が肩の力を抜いてニヤリと笑った。
「マキちゃん、さっきの『エスコート』ってやつ、最高に決まってたぜ。けど、あんまり煽りすぎんなよ? 海外の連中、マジで顔真っ赤にしてたからな」
「フン、煽りじゃなくて事実だろう。……おい赤星、お前こそニヤニヤすんな。浮ついてると第一コーナーで消し飛ばされるぞ」
氷室がいつもの冷徹な口調で釘を刺す。
「分かってるって。……おっと、報道陣以上に厄介な連中が来たみたいだぜ」
赤星が視線を向けた先に、二人の男が立っていた。
三菱財閥が社運を賭けて送り出したワークスチーム『三菱スピード・エンジニアリング』。
その新型マシン『零神』を駆る二人のドライバーである。
一人は、元海軍航空隊のエースであり、冷徹なまでの操縦技術を持つ真壁一輝。
もう一人は、若くして三菱のテスト部門を統括する異端の天才、羽村翔。
「九条の『牙』の方々とお見受けする。ようやく同じ土俵で戦える日が来たようだな」
真壁が静かに口を開く。
その瞳には、かつて空で死線を潜り抜けた者特有の鋭利な光が宿っていた。
「三菱が空で培った流体力学の真髄、この『緑の地獄』で九条の技術にどこまで通じるか……我々も楽しみにしている」
羽村が不敵な笑みを浮かべ、奥の影で腕を組んでいた男へ視線を向けた。
ガレージの暗がりに立っていた神谷蒼が、静かに一歩前へ踏み出す。
「三菱の翼が、地を這う四輪でどこまで羽ばたけるか、拝見させてもらおう。……だが、ここは空ではない。アスファルトの重力に潰されないよう気をつけることだ」
両陣営の間に、火花が散るような緊張感が走る中、コース上に設置された巨大なスピーカーから、予選開始を告げるサイレンが短く鳴り響いた。
それまでの静寂を切り裂くように、ピットロードの先で一台目のマシンが咆哮を上げ、1周20キロという広大なコースへ繰り出していく
2分間隔で挑むタイムアタックの先陣を切った海外勢のV12エンジンが放つ高周波の絶叫が、群馬の山々に反響し、アスファルトを物理的に震わせる。
メインスタンドの最上階、ガラス張りの VIPルームから、眼下で繰り広げられる鉄と血の祭典を、ワイングラスを片手に見下ろす九条芳信と秀一の姿があった。
「さあ、見せてもらおうか。世界が、そして我が国のライバルたちが、私の物理法則にどこまで食らいつけるかを」
芳信の瞳の奥で、狂気と歓喜の炎が燃え上がった。
世界の覇権とプライドを懸けた、緑の地獄の予選が、いま幕を開けた。




