第64話:フラッシュの裏側と、重力の檻
昭和二十六年(1951年)秋。
「橘さん! こちらに目線をお願いします!」
「タクシードライバーから一躍、九条レーシングの顔となったお気持ちは!」
「男性ファンが急増していますが、特定のパートナーはいらっしゃるのでしょうか!」
帝都の高級ホテルのエントランスで、橘マキは鼓膜を劈くような質問と、視界を白く染めるマグネシウムの閃光を浴び続けていた。
彼女は特注のシルクのドレスを身に纏い、完璧な作り笑いを浮かべて記者たちの要望に応えている。
『第一回 全日本アマチュア・ツーリングカー選手権』での鮮烈な表彰台入り、そして美貌。
世間は、男たちの汗とオイルにまみれた世界に突如として現れたこの「サーキットのシンデレラ」を、格好の消費対象として持て囃していた。
「パートナー、ですか? 今の私の恋人は、九条のV12エンジンだけですね」
マキが小首を傾げてウインクをすると、記者たちは熱狂し、ペンを走らせる。
(……ああもう、本当に馬鹿みたい)
内心で盛大なため息をつきながら、マキは時計を盗み見た。
世間は平和を謳歌している。
今日の朝刊の一面を飾ったのは、日本政府と九条技術研究所による、軌道上宇宙ステーション『高天原』計画の発表だった。
日本が基礎となるコアモジュールを打ち上げ、ドッキング規格を全世界に無償公開して各国の参加を促すという、壮大な宇宙開発プロジェクトである。
平和目的を謳ってはいるが、要するに宇宙空間のインフラをも「九条の規格」で支配し、参加しない国を未来から締め出すという、秀一の冷徹な外交戦略の延長だった。
「では橘さん、最後に次戦への意気込みを!」
「……ええ。次は、男たちの背中ではなく、誰もいないクリアな視界を楽しみたいと思います」
優雅に一礼し、待機していた九条の黒塗りセダンに乗り込むと、マキはドレスの裾を乱暴に捲り上げてハイヒールを蹴り脱いだ。
「お疲れ様です、橘さん。完璧な受け答えでしたよ」
運転席から声をかけてきたスーツ姿の広報担当者に、マキは恨めしそうな視線を送る。
「こんな茶番、いつまで続けさせる気? 私が欲しいのはチヤホヤされることじゃなくて、Gに耐えられる頑丈な首と三半規管よ」
「芳信社長の指示ですから。あなたは『KRD(九条レーシング・ディビジョン)』の重要な広告塔です。……それに、どうせこの後は地獄でしょう?」
広報担当者の言葉通り、セダンが向かったのは華やかな帝都の中心ではなく、郊外にある九条の航空宇宙開発センターだった。
分厚いコンクリートの壁に囲まれた訓練棟。
そこには、宇宙ステーション計画のために開発された巨大な遠心加速機――通称「重力の檻」が鎮座している。
戦闘機や宇宙船のパイロットが耐G訓練を行うためのこの恐るべき設備を、芳信は四輪のドライバーである彼らのために平然と流用していた。
「……おえぇっ……だめだ、マジで胃袋がひっくり返る……」
訓練室に入ると、部屋の隅に置かれたバケツを抱え込み、赤星健が青白い顔でうずくまっていた。
その横では、大柄な氷室涼が壁にもたれかかり、荒い息を吐きながらスポーツドリンクを頭からかぶっている。
「情けねえな、赤星。そんなヒョロヒョロの体で、神谷さんのバケツの記録を抜けると思ってんのか」
「うるせえ氷室……お前だって、さっきよだれ垂らしながら気絶しかけてただろ……」
「はっ、俺はただ目を瞑って、ターボの過給圧を計算してただけだ」
減らず口を叩き合う二人の姿に、マキは思わず吹き出した。
「あんたたち、本当に懲りないわね。外の連中が見たら幻滅するわよ、日本のトップドライバーの惨状に」
マキがトレーニングウェアに着替えて姿を見せると、赤星は恨めしそうに見上げた。
「いい身分だよな、アイドル様は。こっちは朝から三回も脳みそシェイクされてんだぞ」
「好きでドレス着てるわけじゃないわよ。……それより、今日の私のメニューは?」
マキが視線を向けた先、コントロールルームのガラス越しに、白衣を着た若い男がマイクを握っていた。
「橘さんは、昨日より0.5G上げて、連続5Gを三分間です」
スピーカーから響くその声は、神谷のような威圧感はないが、どこか無機質で容赦のない響きを持っていた。
彼の名は、真田源。
齢七十を超える九条の現場の神様・黒木伝蔵が、「俺の孫より生意気だが、図面を引く手は俺より早い」と評し、次世代の開発リーダーとして抜擢した二十二歳の天才エンジニアだ。
「5Gを三分……殺す気?」
マキが睨みつけると、真田はガラスの向こうで分厚いバインダーを叩いた。
「神谷さんは8Gで五分耐えられます。あなたたちが神谷さんを抜きたいなら、内臓の位置がずれるくらいで音を上げてもらっては困る。データが取れないんです」
「言うじゃねえか、源。ならお前も一度あれに乗ってみろよ」
氷室が凄むが、真田は涼しい顔で眼鏡を押し上げた。
「僕は車を創る側です。あなたたち『部品』が音を上げない限り、最高のマシンを用意しますよ。……さあ橘さん、カプセルへ」
真田の憎たらしいほどの冷静さに、三人はいつも毒気を抜かれてしまう。
彼は冷徹なデータ至上主義者に見えるが、彼らが命を削って出したデータをもとに、徹夜でサスペンションのジオメトリを計算し直していることを、三人は知っていた。
黒木の泥臭い職人魂を、最新の数理モデルで表現する。
それが真田源という男のやり方なのだ。
マキは遠心加速機のカプセルに乗り込み、五点式シートベルトをきつく締め上げた。
「行くわよ。データでもなんでも、好きに抜き取りなさい」
真田のカウントダウンが始まり、巨大なアームが回転を開始する。
回転速度が上がるにつれ、見えない巨大な手がマキの全身をシートに押し付けていく。
「ぐ、うぅっ……!」
3G、4G、そして5G。
全身の血液が足元へ叩き落とされ、視界の端が黒く欠け始める「グレイアウト」の症状が現れる。
肺が押し潰され、呼吸すらままならない。
(負けるものか……!)
マキはタクシーの運転で培った、極限の集中力を呼び起こした。
腹筋に力を込め、下半身の血管を収縮させて脳へ血液を送り返す。
彼女の脳裏には、記者のフラッシュでも、煌びやかなドレスでもなく、神谷蒼が見せたあの理不尽なまでの旋回速度だけが焼き付いていた。
三分後。
回転が止まり、カプセルのハッチが開く。
「……ぷはっ!」
マキは転がり出るようにして床に四つん這いになり、激しくむせた。
「おいマキ、大丈夫か!」
「ほら、水飲め」
すぐに赤星と氷室が駆け寄り、背中をさすって水筒を差し出してくれる。
サーキットに出ればコンマ一秒を削り合う殺伐としたライバルだが、この重力の檻の中では、同じ地獄の釜の底を這いずる戦友だった。
「……ええ、平気よ。あんたたちみたいに、無様に吐き散らしたりしないわ」
強がるマキの顔色は蒼白だったが、その瞳には決して折れない光が宿っていた。
コントロールルームから降りてきた真田が、心拍数と血圧のデータを記録した紙を見ながら頷く。
「素晴らしいですね、橘さん。横Gに対する耐性は、男性陣よりあなたの身体構造の方が適応が早いかもしれない」
「……褒めてるの、それ」
「ええ、最高の褒め言葉です。これで、次期プロトタイプのコーナリングスピードを、あと時速十キロ上げられます」
真田の言葉に、赤星と氷室が顔を見合わせてニヤリと笑った。
「聞いたかよ、赤星。まだ速くなるらしいぞ」
「上等だ。俺の内臓が破裂するのが先か、真田の用意するシャシーがぶっ壊れるのが先か、勝負だな」
ボロボロの体を引きずりながら、三人の「牙」たちは狂ったように笑い合う。
華やかなニュースや国際政治の駆け引きの裏側で、彼らは純粋に「速度の向こう側」だけを見つめていた。
九条芳信が作り出した重力の檻の中で、三つの魂は、神谷蒼という撃墜王の背中を喰い破るための鋭利な刃へと、着実に研ぎ澄まされつつあった。




