第62話:天上の走りと、拡がる火種
昭和二十六年(1951年)晩夏。
世界を揺るがす巨大なニュースが、太平洋を越えて日本に届いた。
日本の経済封鎖に失敗し、国内のハイパーインフレと暴動を制御できなくなったフランク・D・ローズウェル大統領が、任期を待たずして電撃辞職を発表したのである。
後任としてホワイトハウスに座ったドワイト・D・アイアンサイド新大統領は、就任演説でこれまでの対日強硬策を完全に否定した。
「我々は、偉大なる友人である日本との間に築かれた壁を、いまこそ取り払うべきだ。孤立は繁栄を産まず、対立は技術を腐らせる。デトロイトの栄光を取り戻す道は、排斥ではなく競争の中にある」
アイアンサイドは国際貿易の即時再開を宣言すると共に、アメリカ国内にも九条の規格に準じた巨大サーキットを建設することを表明した。
露骨なまでの親日アピールは、世界がもはや「九条の技術」なしでは立ち行かないことを認めた瞬間でもあった。
こうした政治の喧騒から離れた群馬の山奥、九条自動車・専用テストコースのピットに、かつて大空で「撃墜王」と呼ばれた神谷蒼は立っていた。
目の前には、先日富士で選別された三人の若者たちと、三台の異様な形状をしたマシンが並んでいる。
それらは、市販車の面影を完全に捨て去った、速度を稼ぐためだけに最適化された剥き出しの鉄の骨格――『九条プロトタイプ・フォーミュラ』であった。
「……驚くのは、乗ってからにしろ。これは、お前たちが昨日まで乗っていた『乗用車』とは、別の物理法則で動く機械だ」
神谷の静かな、しかし威圧感のある声がピットに響く。
神谷はまず、自ら「基準」を示すためにデモ走行に入った。
「紫電」の血統を受け継ぐ超高性能エンジンが、一万五千回転という、もはや悲鳴に近い咆哮を上げる。
神谷がシフトを叩き込み、クラッチを繋いだ瞬間、マシンは物理的な衝撃を伴って視界から消えた。
三人の若者は、言葉を失った。
市販車では考えられない減速G、そして旋回G。
神谷のマシンは、まるで路面に磁石で吸い付いているかのように、鋭角なコーナーを平然と駆け抜けていく。
神谷が三周のデモ走行を終え、ピットに戻ると、三人にそれぞれのマシンへの搭乗を促した。
芳信の指示により、三台のマシンは彼らの走りの特性に合わせ、微妙に異なるセッティングが施されていた。
赤星のマシンは、さらなる軽量化と鋭敏な回頭性を重視したスプリント仕様。
氷室のマシンは、低回転からの過給圧を極限まで高めた、直線の暴力に特化した仕様。
橘のマシンは、荷重移動の滑らかさと、タイヤの接地感を最大限に引き出すスタビリティ重視の仕様だ。
最初にコースインした赤星は、第一コーナーでその性能に絶叫した。
「なんだこれは……曲がりすぎる! 思考した瞬間に、車体がインを向いている!」
続いて氷室が、ストレートでアクセルを床まで踏み抜く。
「ぐっ、……脳が、後ろに持っていかれる……!」
そして橘マキは、誰よりも冷静にマシンの「対話」を楽しんでいた。
「……凄い。タイヤが路面の砂粒一つひとつを数えているみたい」
三人のタイムアタックは、初走行にして神谷の基準タイムに迫るという、驚異的な結果を叩き出した。
しかし、本当の「洗礼」は走行が終わった後に待っていた。
ピットに戻り、エンジンを切った瞬間、三人の表情から血の気が引いた。
赤星はコクピットの縁を掴んだまま動けず、氷室はふらつく足取りでマシンを降りるなり、その場に膝をついた。
「お、……うっ……」
吐き気を催し、胃の内容物をこらえようと口を押さえる。
クールに走りきったはずの橘でさえ、ヘルメットを脱いだ顔は土気色で、ひどい目眩に耐えるようにマシンのカウルに寄りかかっていた。
「どうした。地上に降りた気分は」
神谷が冷淡に言い放った。
「戦闘機のパイロットは、特殊な訓練で耐G能力を鍛え上げている。四輪なら安全だと思ったか? このマシンが発生させている横Gは、お前たちの未熟な内臓をかき回すには十分すぎる威力だ」
三人は、自分たちがまだ「操作」はできても、この速度域で「生きる」ための肉体ができていないことを痛感した。
「一億円を稼ぐより、内臓を鍛え直す方が苦労しそうだな」
神谷の言葉に、赤星は顔を上げることすらできず、ただ荒い呼吸を繰り返すしかなかった。
その夜。
芳信は記者会見で不敵な笑みを浮かべ、新たな爆弾を投下した。
「全日本アマチュア・ツーリングカー選手権は、来年以降も毎年開催いたします。さらに、四輪だけではありません。二輪車――バイクによる全日本選手権も同時開催いたします。文字通り、日本中を『速度の虜』にして差し上げましょう」
この発表は、戦後急速に普及したオートバイに熱中する若者たちをも狂喜させた。
だが、この熱狂に火をつけたのは九条だけではなかった。
時を同じくして、三菱財閥が鈴鹿の地に巨大な国際サーキットを建設することを発表したのだ。
九条の独走を許さない財閥の参入、そしてアイアンサイド新大統領によるサーキット建設宣言。
日本のモータースポーツは、いまや国家規模、あるいは地球規模の産業競争へと押し上げられようとしていた。
品川の本社。
芳信は、鈴鹿サーキットの建設予定地が記された地図を見つめていた。
「三菱も、そしてアメリカも動いたか。……面白い。競い合ってこそ、技術は真の輝きを放つ」
隣で綾子が、三人のテスト結果を見ながら微笑む。
「三人とも、最後はひどい顔をしていたわよ。神谷くんにしごかれて、本物の『牙』になれるかしら」
芳信は窓の外、夜の帝都を走る車のヘッドライトの群れを見つめた。
かつては静寂に包まれた夜が、いまやあちこちでエンジンの咆哮が響く、狂おしい夜へと塗り替えられている。
平和を維持するための技術は、いまや「より速く」という、人間の最も原始的で、最も純粋な欲望を燃料にして加速し始めた。




