第57話:三巨頭の決断と、塗り替わる世界地図。
昭和二十五年(一九五〇年)冬。
モスクワ、クレムリンの奥深く。
ヨシフ・スターリンは、分厚い執務机の上で燃え盛る暖炉の火を見つめながら、パイプから濃い煙を吐き出した。
彼の眼前には、ジュネーブで日本の九条秀一が提示したアメリカの核兵器に関する詳細なデータと、恐るべき被害シミュレーションの報告書が置かれている。
「……アメリカの資本家どもが、都市を丸ごと消し飛ばす爆弾を造っていたとはな」
スターリンの低くしゃがれた声に、直立不動で控えていた国家保安省の高官は微かに肩を震わせた。
「しかし、同志書記長、我が国の科学陣もすでに核分裂の基礎理論は確立しておりますし、この日本のデータがあれば、開発期間は劇的に短縮されます」
「馬鹿者、問題はそこではない」
スターリンはパイプを机に叩きつけ、氷のような視線で高官を睨みつけた。
「アメリカが核を持とうが、我々が核を持とうが、それを目標に到達させる手段がなければただの巨大な花火に過ぎないのだ」
彼は立ち上がり、壁に掛けられた巨大な世界地図の日本の部分を力強く指差した。
「極東のあの小さな島国は、宇宙から我々を見下ろす衛星と、音速を超えるジェット機、そして完璧な迎撃ミサイル網を持っている」
「いかに強力な核爆弾を造ろうとも、日本の上空にたどり着く前に撃ち落とされれば何の意味もないのだ」
スターリンは、冷徹な独裁者としての計算をすでに完璧に終えていた。
「核開発は急務だが、それ以上に重要なのは、日本が持つテクノロジーを手に入れることだ。あらゆる手段を講じて、日本の施設に優秀な工作員を潜入させろ」
「図面の一枚、ネジの一本でもいいから、奴らの技術を盗み出し、大祖国ソビエトの科学力に組み込むのだ」
それは、力による世界支配を諦めない赤い巨熊が、極東の怪物に対して放った執念の宣戦布告であった。
一方、深い霧に包まれたロンドン、ダウニング街十番地の首相官邸。
ウィンストン・チャーチルは、トレードマークの太い葉巻を燻らせながら、窓の外のどんよりとした空を見上げていた。
かつて七つの海を支配し、世界の覇権を握っていた大英帝国の栄光は、今や見る影もない。
「……アメリカは狂ったか、自らの焦りから世界を道連れにする破滅の兵器に手を染めるとは」
チャーチルは、外務大臣からの報告書をテーブルに放り投げ、深く息を吐き出した。
「首相、アメリカは我が国に対し、日本への非難決議に同調し、核の脅威を盾にした大同盟に参加するよう強烈な圧力をかけてきています」
「断れ、そんな狂人の道連れになるつもりは毛頭ない」
チャーチルは即座に切り捨て、老獪な政治家としての顔つきに変わった。
「アメリカは完全に孤立しつつあり、もはや彼らに未来を託すことは不可能だ」
「我々大英帝国が生き残る道は、古き良きプライドを捨て、勝馬に乗ることしかないのだよ」
彼は、机上に広げられた日本の九条ネットワークの欧州敷設計画書をトントンと指で叩いた。
「日本政府に極秘裏に特使を送り、我が国が欧州における彼らの情報通信網のハブとなることを提案しろ」
「九条の通信インフラと自動車産業を全面的に受け入れ、イギリスを極東の超技術の欧州窓口として機能させるのだ」
「アメリカの野蛮な核の傘ではなく、日本の洗練された技術の傘の下に入り、実利をもって国の立て直しを図る」
かつての超大国が、新興の極東の怪物に屈服し、その庇護下に入ることを選んだ歴史的な瞬間であった。
そして、ワシントンD.C.、ホワイトハウスの大統領執務室。
フランク・D・ローズウェル大統領は、車椅子の上で虚ろな目を宙に向け、荒い息を繰り返していた。
ジュネーブでの日本の暴露により、アメリカは国際社会から凄まじい非難を浴び、完全に孤立無援の状態へと追いやられていた。
「……同盟国であるはずのイギリスやフランスまでが、我々を非難し、日本の技術提携の餌に群がり始めている」
首席補佐官の絶望的な報告が、ローズウェルの耳に虚しく響く。
国内でも、核兵器開発という狂気の計画が明らかになったことで反戦デモが暴動へと発展し、ホワイトハウスの周辺は怒り狂う群衆によって包囲されていた。
「閣下、もはや核の実験も、実戦投入も不可能です」
「議会は調査委員会を立ち上げ、大統領の弾劾に向けて動き出しています」
国防長官の声すらも、すでに彼を見限っているかのように冷ややかだった。
だが、ローズウェルの瞳の奥には、常軌を逸した執念の炎がまだ消えずに燻っていた。
「……まだだ、私はまだ終わっていない」
ローズウェルは、震える手でデスクの上のペンを握りしめ、一枚の書類にサインを書き殴った。
「日本と技術提携を結ぶすべての国家、および九条の製品を輸入するすべての企業に対し、合衆国は一切の経済取引を停止し、ドルの決済網から追放する」
「核が使えないのなら、アメリカという国家の経済力そのものを兵器として使うまでだ」
補佐官たちが一斉に顔色を失い、悲鳴のような声を上げた。
「大統領、それでは自国の経済まで完全に崩壊してしまいます」
「構わん、アメリカが血を流すのなら、世界中を巻き添えにしてやる」
ローズウェルの決断は、もはや国家の指導者としてのものではなく、九条芳信という怪物に対する私怨と、狂気に取り憑かれた男の最後の足掻きであった。
世界は今、日本の圧倒的な技術力にすり寄る者、技術を盗もうと牙を研ぐ者、そして自滅覚悟の道連れを図る者という、三つの巨大な狂気に引き裂かれようとしていた。
その中心で、九条芳信は高回転のエンジン音のサウンドに酔いしれながら、彼らが踊る滑稽なワルツを冷笑しているのである。




