第34話 鋼鉄の防潮堤、アメリカの影
短かったので、本日2話目を投稿します
昭和十二年(一九三七年)七月。
北京郊外の盧溝橋で響いた数発の銃声が、泥沼の日中戦争へと繋がる導火線となった。
史実ならば、日本軍は戦果を求めて際限なく大陸奥地へと侵攻し、国際的な孤立を深めていく時期である。
しかし、この世界線の「参謀本部」には、九条芳信という冷徹な計算機が深く根を張っていた。
「進藤さん。現地軍の暴走を止めろ。北京周辺の確保で十分だ。それ以上の南下は、我々のロジスティクスの限界を超える」
川崎の九条本社。
もはやそこは単なる自動車メーカーではなく、国家の戦略を策定する「影の参謀本部」と化していた。
芳信の指示を受けた進藤大佐は、九条から提供される膨大な「補給シミュレーション」を盾に、拡大派の将校たちを黙らせていた。
「いいか、これ以上の進撃は燃料と弾薬の無駄遣いだ。芳信が計算した。これ以上進めば、我が軍の戦車は一週間で鉄のクズになる」
進藤の言葉には、九条製品という「物資」の供給を止められることへの恐怖が隠されていた。
軍部は、九条から提供されるパーツや輸送機を人質に取られているに等しい状態だったのである。
だが、芳信が真に警戒していたのは、大陸の戦火ではなかった。
太平洋の向こう側。
急速に軍備を増強し、日本への経済制裁の準備を固めつつある巨大な怪物――アメリカ合衆国である。
「義父上。アメリカからのスクラップ鉄と原油の輸入が、近く制限される可能性があります」
芳信は、西條財閥のトップである西條康隆侯爵の書斎を訪れていた。
「何だと。アメリカがそこまでするか? 我々は彼らの優良顧客だぞ」
「彼らは正義感を外交の道具にします。だからこそ、今すぐに『南洋の資源地帯』を見越した準備が必要です」
芳信は鞄から、極秘の設計図を取り出した。
それは、不気味なほど無機質な「プラント」の図面であった。
「これは、石炭から人造石油を合成する最新の化学プラントです。ドイツの技術をベースに、僕が効率を三倍に引き上げました。これを満州と九州に建設します」
「芳信君。そんなものに投資するより、新型戦艦の鋼材を造った方が儲かるぞ」
西條侯爵の言葉に、芳信は静かに首を振った。
「義父上。石油が止まれば、戦艦はただの浮き島です。僕たちはアメリカと戦う前に、自給自足の循環システムを完成させなければならない。これはビジネスではありません。九条と西條、両家が生き残るための『保険』です」
芳信の言葉には、逆らえない重みがあった。
二・二六事件で命を救われて以来、西條侯爵は芳信の先見明を神託のように信じるようになっていた。
「……分かった。西條の化学部門をすべて君に預けよう」
着実に進む自給自足計画。
だが、芳信の心は休まることがなかった。
その夜、芳信は久しぶりに九条の本邸で家族と食卓を囲んだ。
「芳信。最近、また少し痩せたんじゃないかしら」
母の静子が心配そうに顔を覗き込む。
父の正和も、酒杯を置きながら息子を労わった。
「無理もなかろう。今の日本が動いているのは、芳信の知恵のおかげだと言っても過言ではないからな」
「お父様、言い過ぎですよ」
芳信は苦笑したが、姉の華子がそっと手を重ねてきた。
「芳信。あなたが造るものが、いつか誰の命も奪わなくて済むようになればいいわね。私は、あなたが楽しそうに車の絵を描いていた頃の顔が一番好きなのよ」
「……お姉様」
華子の純粋な言葉が、芳信の心に深く刺さる。
『僕が造っているのは、平和を呼ぶ道具じゃない。地獄の中で、少しでも長く息を繋ぐための酸素マスクなんだ』
芳信は内心でそう呟きながら、家族の笑顔を脳裏に焼き付けた。
昭和十二年末。
芳信が主導する「人造石油プラント」と「南方航空輸送ルート」の構築が急ピッチで進められる中、ワシントンからの外交電報が、帝都に冷たい衝撃を走らせた。
アメリカ海軍の軍拡法案、通称「ヴィンソン案」の可決。
それは、アメリカという巨人がついに目覚め、日本を叩き潰すための鋼鉄の拳を握り締めたことを意味していた。
芳信は、川崎の工場の屋上で、夜の海を見つめていた。
「いよいよ、避けられない『嵐』が来るな」
彼はポケットから、一機の小さな紙飛行機を取り出し、闇へと投げた。
銀色の紙飛行機は、工場の煙突から出る煙に巻かれながら、暗い海へと消えていった。
マシな敗戦、そしてその後の「日本復活」のための、究極のギャンブル。
その幕が、ついに上がろうとしていた。




