交渉
暇なときに数行ずつ書いて、久しぶりに投稿です。出張中になってしまいましたが……。
「あなた、先ほど『薄い本』とか口走ってましたよね? そういう仕事をなさっていたのですか?」
本というものがどういう役割を果たすものかは知っている。本を出す仕事をしていたのなら、A512L3に「ほかの世界に飛ぶということがどういうことなのか」「ほかの世界に飛んだことにより能力が高まることがなぜあり得ないか」「こちらの世界の人間の才能が世界を飛んできた存在によって潰された実例」を紹介してもらい、幻想を捨ててもらうことができるのではないだろうか。
「あー、あのですね、『薄い本』というのは、仕事とかそういう次元のものではなくてですね、自分の存在すべてともうしますか、その……」
「よくわかりませんが、仕事ではないのに、知識を広める活動をしていたのですか? ずいぶんと献身的な活動をしていたのですね」
生活の糧を得る必要もあるだろうに、ずいぶんと殊勝なことだ。
「知識を広めるというか、新しい価値観を提示するというかですね、とにかく自分の頭の中をさらけ出す活動、あるいは、他人に自分の好みを押しつける活動というか」
「知識にとどまらず、新たな世界観まで提唱していたのですか? 正直いえば、あなたからそのような創造的な香りを感じておりませんでした。お詫びいたします」
これは本当に摩耶を見くびっていた。わたしは、彼女は人に動かされる側の人間であると思い込んでいた。まさか、動かす側だったとは……。
「いえ、とんでもない。創造というよりは妄想ですから、そう思われても仕方ないです」
「何を言うのですか。すべての創造が一部のものの妄想から始まる、というのは世界を超越した真理ではないですか」
摩耶は少しの間考え込んだ。
「そう……かもしれませんね……。うん、そうです! まさにわたしやわたしの同志たちは、世界をわたしたちの望む色に染めるべく活動していました。その心にウソはありません!」
……少し話が噛み合わなかったような気がするのは気のせいだろう。摩耶は、まさにわたしの考えを託すにたる存在であると確信した。
「そうですか。それではわたしからお願いしたいことがあります。それを受け入れてくれるなら、多少の能力アップは本部と交渉して実現できるよう努力します。また、あなたの身体は幸いにも死んではおりませんので、あなたの魂をもとの世界に戻してあげましょう」
「え、戻されちゃうんですか?」
「イヤなのですか?」
「こっちの世界で暮らしたあとに向こうに戻っても、ずいぶんな時間がたってますよね? 今までの蓄積が役にたたなくなりますし、そのときの流行りを把握するにも時間がかかりますし……」
なるほど。摩耶はブランクを気にしているのか。
「あの、所長、どうも彼女の言っていることと所長の理解が違っているような気がするんですが……」
キシモトくんが、なぜか心配そうだ。わたしは、彼らの負担を減らすように頑張っているというのに……。
「なんですか? 少し黙ってください。……失礼しました、摩耶さん。そのことでしたらご心配なく。あなたのもとの世界のあなたが実際に暮らしていた次元の時間と、この世界のあなたが暮らすことになる次元の時間は切り離されています。あなたがしばらくこちらで生活し、もとの世界に戻っても、あちらでは時間は経過していません」
「そうなんですか?! それなら問題なしです。新しいカップリングを研究してると思えば、何でもないですね!」
何を研究すると摩耶は言った? まあ、わたしの希望どおりに行動してくれれば、別に何をしていてもいいのだが……。
「あと、ひとつ聞きたいことがあるのですが、いいですか?」
「わたしに答えられることであれば」
「先ほど本部と言ってましたよね? やはり全体を統括する存在があるのですか? それは、わたしたちの世界でいう『神』とは違うのですか?」
また、「神」か。どうもA512L3から来る魂は、この存在に妙に思い入れがあるようだ。だが、一度産み出された世界は、自らの中にある力によって勝手に動いていく。どう発展するかわからないものに自在に介入できるものなど、あってはならないだろう。その介入が生む結果が予想できないのだから。
「『神』が全知全能に近いものを指しているのであれば、違います。本部とは、わたしたちのようなひとつひとつの世界を見ているラファエルを束ね、総合調整を行うだけです。その長がガブリエルと呼ばれますが、役割はラファエル担当の執行役員です」
「神はないのに執行役員はあるんですか……」
「組織があれば執行役員は存在しますよ」
「わかりました。深くは考えないことにします。それで、わたしは何をすればいいのですか?」
ようやく、本題に入れそうだ。
「特に難しいことはありません。あなたがこちらの世界で見たこと、体験したこと、感じたことを、あなたのもとの世界で本にしてほしいのです。そうして、『転生』とやらに対する幻想を打ち消してほしいのです」
「それはかまいませんけと、わたしの本はさっきも言ったとおり薄いので、読者層が偏ってますよ? あ、でも、けっこう読者層重なってるかも……」
「薄いということにこだわってるようですが、いったいどのようなものなのですか? ちよっと感じがわかるように教えてください」
わたしは摩耶の手もとにデザイン入力端末をだした。彼女はどういうわけか手際よく端末を操作し、わたしにデータを送ってよこした。やはり手際がよい。そのデータを開いて……わたしは意識を失った。
お読みくださった方へ。心からの感謝を‼