第81話 学園生活の楽しみ
# 第81話 学園生活の楽しみ
## 学園の朝
朝の光が、容赦なく目蓋を狙ってくる。
……いや、違う。「容赦なく」ではない。「優しく」だ。この世界の朝は優しい。穏やかだ。魔法学園の朝は、サラリーマン時代のあの目覚ましとは全然違う。あの頃のデジタル音はガンガン鳴り、スヌーズを三回押してようやく起き上がるやつだった。
(ここは異世界だ。魔法学園だ。俺はエルフに転生した。落ち着け、佐藤カズヤ)
セラはベッドの上で上半身を起こし、目をこすった。
寮の部屋。いつものように、ルームメイトのライルはすでに起きていた。制服を完璧に着こなして、鏡の前で髪を整えている。こいつ、毎朝早いんだよな。「社畜予備軍」と言いたくなるレベルだ。もう一人のルームメイト、ガランは規則正しい寝息を立てて爆睡中だ。俺と同じ人種だ。
「おはよう、セラ。今日もいい天気だな」
「ああ……おはよう」
声がかすれた。エルフの体で転生して数ヶ月経っても、朝の声はまだ慣れない。
「起きるの遅いよ。今日の初講はゼルフィ先生だぞ」
その名前で、睡魔が吹き飛んだ。
ゼルフィ先生。銀髪・冷たい表情・遅刻者への無慈悲な補講コース。先週も遅刻した学生が一週間の放課後拘束を食らっていた。PMより怖い。PMは怒鳴るだけだが、ゼルフィ先生は「宿題という名の労働」を課してくる。しかも量が尋常じゃない。
「……なんでこの世界にも無茶ぶり上司がいるんだ」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもない。準備する」
セラは急いでベッドから降りた。洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
エルフの顔。金髪。尖った耳。整った顔立ち。
(この顔に慣れないな。毎朝びっくりする)
自分の顔に自分でツッコんでいるのも、なんかおかしい。でも転生者ってそういうもんだ、たぶん。制服を着て、準備完了。所要時間七分。
「ライル、俺はいつも七分で準備できてるんだよ。これで遅いかな?」
「それより早い人間がいることが驚きだよ。五分もあれば十分だ」
「……五分かよ。化け物か」
「鏡見ろよ。そっちもエルフの化け物だろ」
ライルが笑いながら言う。エルフの化け物。まあ、そうかもしれない。
二人で寮を出ると、廊下はすでに多くの学生で溢れていた。制服姿の学生たちがわらわらと移動している。通勤ラッシュに似ているが、密度はずっとマシだ。満員電車の地獄とは比べ物にならない。
「おはよう、セラ」
廊下の向こうから、アズマが手を振ってきた。元気な黒髪の男子だ。入学式の日に話したやつだ。
「おはよう、アズマ」
「今日ゼルフィ先生の授業だろ。準備してきたか?」
「一応」
「俺、昨夜三時間勉強した! 問題ないはず!」
「三時間で問題ないとか、強気だな」
「えっ、少なかったか? ドワーフの子なんか六時間やったって言ってたが」
(カトレアのことか。アズマとカトレアが交流してたのか。どっちも声が大きいし、馬が合いそうだ)
「六時間なら大丈夫だろ。俺は……まあ、足りてるはず」
「「はず」が不安だな! 一緒に頑張ろうぜ!」
(この明るさは武器だ。俺の前職にこういうやつがいれば、毎日もう少し違ったかもな)
「朝の空気、いいな」
ライルが深呼吸をする。
確かに。魔法学園の朝の空気は格別だ。緑の香り、魔法の微かな気配、遠くの鳥のさえずり。こんな朝の空気を「深呼吸」して味わう余裕、あの頃はなかった。電車に乗り込むか、コーヒーをがぶ飲みするかの二択だった。
「そうだな。ここはいい場所だよ」
本音だった。あっちはオゾンと疲弊の匂いだった。こっちは違う。
(この世界にもう少しコンビニがあれば文句なかったんだが)
いや贅沢を言うな。これだけ豊かな自然があれば十分だ。コンビニなんてなくても——あ、でも七十二時間営業の弁当は懐かしいのは否定できない。
## 学園の食堂
食堂はすでに賑わっていた。長いテーブルがいくつも並んで、あちこちから笑い声と話し声が飛び交っている。パンの焼ける香り、スープの温かい湯気、ベーコンの香ばしい匂い。朝から嗅ぐ匂いじゃないほど豪勢だ。
「あそこだ」
ライルが指を差した先に、アリアがいた。窓際の席で、こちらをちらちら見ている。
「じゃあ、俺は別の友人たちのとこ行くから」
「ああ、ありがとう」
セラはアリアのテーブルへと歩いた。
「おはよう、アリア」
「おはよう、セラ!」
アリアが顔を上げて、ぱっと笑顔になった。その笑顔は朝の光を跳ね返すくらい明るい。残業明けのコンビニのバイトの子でも、さすがにここまで眩しくはなかった。
「座っていいか?」
「もちろん。セラならいつでも歓迎」
向かいに座ると、スタッフがすかさずやってきた。メニューを確認して、パンとスクランブルエッグとベーコンと野菜スープを頼む。サラリーマン時代の俺は、コンビニのおにぎりと缶コーヒーで十分だと思ってたもんな。ここはリッチすぎる。
(この朝食が圧勝だ)
「今日の初講、ゼルフィ先生だよね。緊張するなあ」
「大丈夫だよ。アリアはしっかり勉強してるから」
「でも、あの先生の質問って意地悪じゃない。授業の内容を聞いてるんじゃなくて、考え方を聞いてくるから」
「大丈夫。もし何か聞かれたら、二人で答えよう」
「ふふ、二人ならなんとかなるかも」
「どこの世界線の二人なんだよ」
「え?」
「あ、いや。大丈夫ってことだよ。二人で頑張ろう」
(前世の口癖が出るところだった。危ない)
そこへ料理が来た。パンはふわふわで外はカリッとしていて、スクランブルエッグは完璧な火加減、ベーコンは香ばしい。野菜スープは優しい味だ。
(……うまい)
毎朝これを食べられる学園生活は、あの頃の俺には考えられないくらい恵まれている。コンビニおにぎりを否定したいわけじゃないが、これは本物の料理だ。
「美味しいなあ、ここの食堂」
「そうね。シェフが優秀なのね。パンの焼き加減が絶妙だわ」
「エルフの森の料理とはまた違うけど、これはこれで」
「うん。色んな文化の料理を知れるのも学園生活の醍醐味だよね」
食事をしながら、二人は今日の予定を話し合った。
「ねえ、セラ。今日の午後は自由時間だけど、何する予定?」
「そうだな。図書館で勉強しようと思ってる。最近、古代魔法について興味が出てきてね」
「古代魔法? すごいね。私も興味あるわ。一緒に行ってもいい?」
「もちろん。二人で勉強するのは楽しいから」
「嬉しい! 古代エルフの魔法について、もっと知りたかったんだって。セラの祖先のことでしょ」
「まあ、そうなんだよな。自分でもよく分からないことが多くて、少し調べてみたいと思って」
「私も手伝うよ。二人なら、もっと早く何か分かるかも」
## 図書館での勉強
図書館は学園の静かな一角にある。大きな建物で、足音が吸い込まれるような静寂が支配している。本の匂いと魔力の微かな気配が混ざり合って、不思議な空間を作り出していた。
(……いい大学図書館みたいだ)
うちの大学の図書館は、半分の学生が寝るための場所だった。ここは違う。みんな真剣に本を読んでいる。ノートを取っている。調べものをしている。
(魔法学園の授業って……大学の講義より真面目じゃねえか。俺の大学時代はほぼ寝てたけど)
「古代エルフの本はこっちだよ」
アリアに案内されて、専門コーナーへ。棚には分厚い本が並んでいる。セラは何冊か手に取り、タイトルを確認した。
『古代エルフの魔法体系』
『魔力共鳴の原理と応用』
『失われた古代の技術』
魔法理論。物理学みたいなものか。……いや、物理学なめんなよ。こっちの方がよっぽどファンタジーだ。でも内容の密度は負けてない。どれも分厚くて、読み始めたら終わらなさそうだ。
「セラ!」
小声で呼ばれ、振り返るとアリアがこちらに歩いてきた。手には何冊かの本を持っている。
「見つけた。何読んでるの?」
「これ」
『古代エルフの魔法体系』を見せると、アリアの目が輝いた。
「わあ、それすごい本! 私も昔読みたいって思ってたの」
彼女が机に自分の本を置いた。『魔法的共鳴の研究』と書かれている。
「私はこれ。二人の共鳴について、もっと知りたくて」
「一緒に読もうか。知識を共有すれば、理解が深まる」
「うん!」
二人は並んで座り、それぞれの本を読み始めた。図書館の静寂の中、ページをめくる音だけが聞こえる。
(……居心地がいいな、これ)
週末に図書館で幼馴染と本を読む、なんて経験は一切なかった。仕事か、家で寝るか、コンビニに行くかの三択だった人間が、今は魔法学園の図書館で古代エルフの文明について勉強している。
我ながら、転生は不思議なものだ。
「ねえ、ここ見て」
しばらくして、アリアが小声で呼びかけた。
「共鳴は互いの魔力を増幅させるだけでなく、精神的な絆も深める——って書いてある」
セラはその箇所を読んだ。確かに、二人の共鳴は単なる魔力の問題じゃない。何か特別なものを感じる。
「そうだな。僕たちが共鳴してる時、何か感じないか?」
「うん。胸の中に温かいものが広がって、一体になるような感覚。セラの感情も伝わってくる気がする」
「僕もだよ。アリアが喜んでると自然と笑顔になるし、アリアが不安だと心配になる」
「ふふ、それが絆ってことだね」
アリアは満足そうに微笑んだ。
(「絆」か。むずがゆいが、悪くない。今はそう言えるようになった)
「セラ、少し聞いていい?」
アリアが本から目を上げた。
「うん、何?」
「セラって、自分がどんな存在か、分かってると思う?」
唐突な問いだった。
「……どういう意味?」
「魔力の量とか、共鳴のことだけじゃなくてさ。セラって、時々普通のエルフとは違う感覚で話すじゃない。前世のこととか言いかけたり、こっちが知らないようなことを知ってたり」
(バレてた……? いや、違う。アリアは「転生者だ」とは言っていない。でも、気にはなってるんだ)
「……俺も、自分のことがよくわからない部分はあるよ。だから調べてる」
「そっか。なんか……セラが時々、遠いところにいるみたいに見える。昔のことを思い出してるような顔をする時がある」
「それは……まあ。少し複雑な過去があるから」
「うん。無理に言わなくていいよ。でも、一人で抱えてたら辛そうだから、何かあれば言ってね」
(気づいていないが、気にかけている。それが優しさだ)
拳を、軽く握った。
「ありがとう、アリア」
「えへへ。仲間だから」
さらに読み進めると、興味深い記述が出てきた。古代エルフの成人儀礼について。
「セラ、これ!」
アリアが同じ箇所を指差していた。『星の気配感知』という試練の説明だった。
「僕、これもうやったんだ。エルフの森での修行の時」
「本当に? すごいなあ。現代で古代の試練を受けるなんて珍しいじゃん」
「ああ。その時、すごく疲れたけど、何か特別な感覚を感じたんだ。森のリズムが、自分の心臓の鼓動と重なるような」
「それはきっと、古代エルフの血が眠ってるからだよ。セラ」
アリアの言葉に、セラは少し考える。自分が古代エルフの転生者であるという仮説。まだ証明されていない。でも、様々な事実がそれを示唆している。
「分からないけど……自分の力を正しく使うために、もっと勉強したい」
「うん。私も手伝うよ。二人なら、きっと何か分かるよ」
アリアの励ましに、セラは小さく頷いた。
二人はしばらく図書館で過ごした。静寂の中で本を読む時間。週末に仕事の疲れで寝るか、動画を見るかのどちらかだった人間が、今は好奇心のままに本を読んでいる。転生後に初めて手に入れた幸せのひとつだ。
## 学園の催し物
昼食後、セラとアリアは中庭に出た。様々な花と植物で彩られた美しい場所で、ベンチがいくつか置かれている。木陰のベンチに腰を下ろすと、心地よい風が吹いた。鳥のさえずりが遠くから聞こえる。
「ここ、好きだな」
「そうね。自然の中にいると落ち着くわ」
二人はしばらく静かに過ごした。昼休みに中庭でぼんやりすることなど、あの頃は夢のまた夢だった。昼食を食べながら仕事のメールを確認するのが当たり前だったのに。
その時、生徒会の制服を着た学生が近づいてきた。手に書類を持って、学生たちに何かを説明しているようだ。
「皆さん、少しお時間よろしいですか?」
彼女の声に、近くにいた学生たちが注目した。
「来月、学園で文化祭が開催されます。各クラスで出店や演目を企画してください」
(文化祭!)
その言葉で、記憶が一気にフラッシュバックした。高校の文化祭。クラスで屋台を出して、演劇をやって、みんなで準備に明け暮れた日々。あれは楽しかった。大学でもあったが、サークルに入ってなかった俺は端から眺めるだけだった。結局、コンビニバイトで稼いだ金で友達のクラスの出し物を買って食べただけだ。
(この世界でも文化祭か。今度こそちゃんと参加したいな)
「文化祭って何だ?」
セラがアリアに小声で尋ねる。念のため、知らないふりをしておく。
「色んな展示や催し物をするイベントだよ。クラスごとに出店したり、歌とかダンスとか演劇を披露したりするの」
「優勝クラスには特別賞品と食堂の無料パスが用意されています」
食堂の無料パス。その言葉に、近くにいた学生たちから歓声が上がった。
「個人参加も歓迎します。得意な芸がある方はぜひ」
役員がセラとアリアの方を見て微笑んだ。
「あなたたちも、ぜひ参加を考えてみてください」
彼女は次のグループへと移動した。
「文化祭かあ。面白そうだね」
「うん! 私、演劇とかやってみたい。セラと一緒に」
「演劇か。僕は出店の方がいいかな。食べ物を売るとか」
「ふふ、セラはやっぱり食べ物好きだね」
「好きだよ。前世でも——いや、なんでもない」
あやうく言いそうになった。文化祭の屋台が一番楽しかった、と言いかけた。
「前世って何?」
「あー、その……地元の祭りのこと。うちの村の習慣でそう呼んでるんだ」
「へえ、変わった言い方」
アリアはそれ以上追及しなかった。助かった。
「とりあえず、クラスのみんなと相談しよう」
「うん、そうね!」
## 一日の終わり
午後の授業は実技魔法の演習だった。広い演習場で、セラが風刃を的に正確に当てると、担当教師がすかさず褒めた。
「素晴らしい。セラ、その調子で」
(……褒められると、なぜかあの上司の顔が浮かぶ)
あの上司は年間を通じて俺を褒めなかった。でも、この世界では褒められる。褒められるために転生したわけじゃないが——まあ、悪くない。
「アリアも頑張って」
「えっ、もうセラ当たってる?」
アリアが驚いて的を見る。彼女の風刃も、的に正確に当たっていた。
「二人とも優秀だ。素晴らしい」
「「ありがとうございます」」
二人で声が揃った。ちょっと照れくさかった。
「……揃ったね」
「……そうだね」
二人で苦笑い。それはそれで、なんか悪くない感じだった。
授業が終わって、演習場の外でカトレアが待っていた。
「よう、セラ! 実技どうだった?」
「的に全部当てられた。まあ普通だよ」
「普通ってレベルが違うんだよなあ。あたしのクラスは五回に一回しか当たらない子がいてさ……まあ、得意不得意はあるか」
「カトレアは?」
「魔法陣の組み方を練習したよ! ドワーフの職人気質って、魔法陣との相性がいいらしくてさ。先生に褒められた!」
「さすが。職人の子孫だな」
「ギャハハ! でもその分、体感魔法は苦手で……火を出そうとしたら煙だけ出た。は? ってなったよ」
「火を出そうとして煙だけ。それはそれで技術じゃないか?」
「違う技術だよ! ちゃんと炎にしてよ!」
三人で笑い合った。
授業が終わって夕食の時間。またアリアと食堂で食事を共にした。今日は特に内容が濃かった。
「今日、楽しかったね」
「うん。図書館の本、面白かった。文化祭の話も出たし」
「そうだな。来月が楽しみだよ」
「セラが言えば、みんな乗ってくると思うよ」
「そうかな。みんなで一緒に何か作るのは、楽しそうだけど」
「楽しいよ、絶対に! 私は演劇押しだけど」
「まあ、考えとくよ」
「当たり前でしょ? 文化祭でセラが演じる姿、見たいもん」
「そんなに言うならやってみようかな……」
「やった!」
(あっさり乗せられた。「まあやってみるか」で残業が増えた記憶があるぞ)
夕食後、寮に戻るとライルがいた。
「お帰り。今日どうだった?」
「楽しかったよ。図書館で勉強して、文化祭の話も聞いてね」
「文化祭か。うちのクラスは食べ物の店を出す話になってる。セラも手伝ってくれるか?」
「えっ、でもアリアと演劇もって話になってるんだ」
「演劇か。セラが役者だとはな」
ライルが笑う。
(役者、か。やってみると案外楽しそうだ。一回くらいはいいかもしれない)
夜になって、セラはベッドに座り、一日を振り返った。
授業、図書館、文化祭の話、実技演習、夕食。あの頃は毎日同じことの繰り返しで、来週どうなってるかすら想像したくなかった。でも今は、来月の文化祭が楽しみだ。
「充実してる」
口に出して、ちょっと照れた。カッコよく決めたつもりだったが、よく考えたら一人ごとだった。台無しだ。
(まあいいか。飯も食えるし、友達もできるし、朝の空気も美味しい。文句なし)
「さあ、寝よう。明日も早いから」
ベッドに横になって、目を閉じた。学園の夜が静かに広がっている。
充実した一日だった——そんな言葉が似合う夜は、あの頃は久しぶりだった気がする。
いや、あったかもしれないけど、あの頃は感じる余裕がなかっただけだ。
この世界では、ちゃんと感じられる。それが、今の幸せだ。




