第131話 古代エルフの試練
# 第131話 古代エルフの試練
## 試練の開始
遺跡の中央に鎮座する祭壇は、夜闇の中で幽かな光を放っていた。
苔むした石造りの台座に、直径三十センチほどの水晶が埋め込まれている。内部では何かが静かに脈動していた。呼吸するかのような、規則正しいリズム。
生きている。
(遺跡に来て最初に感じることが「生きている」って、ホラー開幕じゃないか)
セラは内心でツッコみながら、祭壇へゆっくり近づいた。
「これが……古代エルフの遺産?」
思わず呟く。
闇の森の奥深く。入り口には見覚えのないエルフ文字が刻まれていたが、意味はセラの知識の外だった。中に入ると、不思議な懐かしさがある。昔来たことがある場所に戻ったような感覚。
エルフの遺跡に来た記憶など、この体には一切ない。なのに、この懐かしさは何だ。
「すごい……」
アリアが感心そうに見回す。天井まで十メートル以上。古びた石柱が並び、壁には見知らぬ紋様が描かれている。空気は澄んでいて、森の外とは違う静寂が支配していた。「こんな場所、森の奥にあったんだね」
「誰も知らなかったってことか?」
ミサトが眉を寄せた。「エルフのみんな、知らなかったの?」
「古代エルフの時代から、隠されていたんだろう。あるいは——」
「あるいは?」
「時が経つにつれて、忘れ去られたか」
セラは推測しながら、視線を祭壇に固定した。水晶の内部の光が、まるで手招きしているように揺れている。
「セラ、気をつけて」
アリアが袖を軽く掴んだ。不安の色が瞳に滲んでいる。
「大丈夫だよ。なんとなく……この場所は、敵じゃないみたい」
「なんだそれ」
ミサトが腕を組み、眉を寄せた。「心霊スポットかよ。私、幽霊とか苦手なんだけど」
「ミサトさん、騎士様でしょ?」
「騎士だって幽霊は嫌なんだよ! 科学的に解明できないものって——」
「魔法も科学的に解明できないんじゃない?」
セラが軽くからかう。
「魔、魔法は別! 私が使えるから、身近な存在として受け入れてるんだから!」
「受容、とか難しい言葉使ってるし」
「うるさいわよ!」
ミサトが頬を膨らませた。その頬が少し赤い。
「——で、入り口の文字、読めた?」
「読めなかった。でも、エルフ文字ということはわかった」
「古代エルフの文字だわ」
アリアが補足した。「村の長老が教えてくれた知識……少し、わかった気がする」
「へえ、アリアも頭いい」
「……えへへ」
アリアは照れくさそうに髪を撫でる。「セラが賢いから、つい引き上げられちゃった」
二人のやり取りに、セラは苦笑する。
(引き上げてもらうのって、嬉しいものだな。それを素直に言えるようになったのも、この世界に来てからだ)
再び祭壇に目を向けた。水晶の中の光が、一段と強くなっている。脈動も速くなった気がする。まるで、待ちくたびれた、と言っているかのように。
「ちょっと、触れてみるよ」
「えっ、セラ!?」
アリアの声が揺れる。
「待て、危ないんじゃ——」
ミサトが手を伸ばした時には、もう遅かった。
セラの指先が、水晶の冷たい表面に触れる。
その瞬間。
世界が、白に染まった。
## 精神世界
意識が、浮遊している。
重力がない。上下がない。ただ、無限に広がる白い空間の中に、自分だけが存在しているような感覚。
(……夢か?)
違う。もっと鮮明だ。夢なら断片的で、輪郭がぼやけているはずだ。ここにあるのは、明晰すぎる意識と、圧倒的な「在る」ことの実感だけ。
声を出そうとした。音はしなかった。音そのものが存在しない。この空間には音という概念がない。
セラは手を伸ばしてみた。白い空間に指が通るが、何も触れない。温度もなく、匂いもなく、音もない。
足元も地面もない。ただ、空中に浮いているような感覚。
(問題なのは、ここから出る方法が全くわからないことだ)
魔法を試した。ウィンド・エッジを発動しようとしたが、魔力の手ごたえがない。ライト・アローも同様だ。この空間では、魔法という概念そのものが機能しないらしい。
(物理攻撃も魔法もない。完全な詰みではないか。いや——もとより、ここは戦う場所ではないのかもしれない)
「風よ、刃となれ——」と口の中で呟いてみた。日常的な魔法の中でも最も慣れ親しんだ、ウィンド・エッジの詠唱。魔力が集まる気配は微塵もなかった。手のひらには何も宿らない。
そうか。この場所では、外側の力は通じない。魔法も、剣も、知識も。ここで問われているのは、そういったものではないのかもしれない。
(なら、ここで俺に問われているのは——何だ?)
「夢か?」
声が出た。いや、声ではない。意思が直接伝わる感覚だ。
『次は楽しめ』
ビクリと、胸の奥が震えた。
その声には、聞き覚えがある。遠い、遠い記憶の底——転生した瞬間、あの暗転の中で聞いた声だ。
白い空間に、意味そのものが直接脳裏に焼き付いてくる感覚。言語を超えた、純粋な概念の伝達。
『何度も聞こえてくる気がするんだ』
「誰だ?」
『誰だって』
その声は、楽しげだった。
『キミ自身だよ』
「自分?」
『キミの、もう一つの顔。あるいは——キミが忘れていた顔』
白い空間が、にわかに動き出した。静止していた「無」が、色を帯びていく。光と影が交錯し、形を成していく。誰かが白いキャンバスに絵を描き始めたかのように。
浮かび上がってきたのは、映像だった。
## 前世との対峙
オフィスビルの窓から、夜景が見下ろせる。
コンクリートのジャングル。ネオンが煌めく都会。走るタクシー、高層マンションの明かり。
そして、窓際のデスクでパソコンに向かう一人の男。
黒髪、平凡な容姿。痩せ型で、やや猫背。目元にはクマがあり、スーツのサイズが少し大きい。
「……俺」
映像の中の男は、深夜のオフィスで一人、残業をしていた。
(デスクトップの壁紙もデフォルトのままだ。何も変えなかった奴だな、あの頃は。変えることすら思いつかなかった、と言うべきか)
胸の奥で、何かが痛む。懐かしさ、ではない。これは、直視したくない何かを見せられているような感覚だ。
映像がその男の日常を映し出していく。
朝七時の目覚まし時計。満員電車で揺られる通勤。上司に怒鳴られる午前中。昼休みに一人でかきこむ飯。残業が続く夕方。深夜の帰宅。
一人で飲む缶ビール。テレビで流れるバラエティ番組。スマホで見るSNS。他人の幸せな生活を眺めて、微かな羨望と虚無感を抱く。
「週末も予定なんてない」
映像の中の男が、独り言のように呟いた。
「明日もまた月曜だ。仕事、仕事、仕事……これが人生ってやつか」
彼はベッドに倒れ込む。疲れているのに、眠れない。
「もっと、何か……違うことがあったはずじゃ……」
子どもの頃に夢見た未来。なりたかった職業。行きたかった場所。好きだった人。すべてが、いつの間にか諦めと妥協の中に埋もれていく。
「俺は、何のために生きてるんだ」
天井を見つめながら、その男は問いかける。答えはない。明日への微かな絶望と、惰性で生きる自分への軽蔑だけ。
(……俺は、この問いに答えたことがあったか)
ない。ずっと、なかった。ただ流れに乗って、波に押されて、岸まで漂ってきただけだ。自分で漕いだことなど一度もない。
「次の人生は、もっと楽しめればいいな」
その言葉を呟いて、男は眠りに落ちていく。
翌朝。いつもの満員電車。いつもの上司。いつものような一日。
その日、午前十時四十分。
交差点で信号が変わるのを見ていたその男は、右折しようとしたトラックの直進に気づかなかった。
『────!?』
クラクション。衝撃。暗転。
そして、あの声。
『次は楽しめ』
叱咤激励でも、嘲笑でもない。ただ、祈りに近い願いを含んだ、優しい声だった。
映像が、フェードアウトしていく。
一人の男の平凡な人生が、虚しく消えていく。
最後に残ったのは、夜空を見上げて願った、叶わぬ願いだけ。
白い空間に、もう一人の自分が立っていた。
透明に近い幻影。輪郭はぼやけているが、その表情、その仕草、その存在感は紛れもなく自分——佐藤カズヤだった。
「楽しめ、か」
カズヤの幻影は、悲しげに微笑んでいる。その微笑みには、二十九年の人生で培った悔しさと、諦めと、微かな望みが混じっていた。
『楽しみ方が、わからなかったんだ』
その声は、セラの心に直接響いてくる。
『小さい頃は、何もかもが楽しかった。アニメも、ゲームも、公園で遊ぶことも、家族での旅行も』
カズヤの記憶が、フラッシュバックのように駆け巡る。
『でもいつの間にか、楽しむことを忘れていた。「普通」が幸せだと言われ、「普通」を目指して、誰よりも「普通」の人生を送ってきた』
「誰に似たわけでもない。突出した才能も、特別な美貌も、裕福な家庭もない。ごく普通の成績で、ごく普通の学校に入って、ごく普通の会社に就職して」
セラは、カズヤの言葉を受け止める。
「俺も、そうだ」
『えっ』
「転生してきた俺も。楽しみ方がわからないまま、ずっと大人のふりをしていた気がする」
セラは、自分の手を見た。細長い指、白銀の髪、エルフとしての姿。
「転生して、最初は戸惑った。こんな体になって、こんな世界に来て、魔法が使えて、アリアやミサト、ルナやカトレアに出会って——」
それでも、どこかで楽しんでいなかった。前の自分が受け継いだ「普通を生きる癖」が。強いのに、強がって。幸せなのに、謙遜して。楽しいはずなのに、大人のふりして。
『……あはは』
カズヤが笑う。
『やっと、言えたな』
「え?」
『俺は、楽しめなかった』
カズヤは、静かに言った。
『二十九年の人生で、一度も全力で楽しんだことがない。周りの目を気にして、常識を守って、怒られないように、変な奴だと思われないように』
彼の声に、悔しさが滲む。
「後悔してるのか?」
『後悔……。そうだな』
カズヤは少し考えた。
『後悔してる部分はある。でも——責任転嫁したくない。あの人生は俺が選んだ。怖かっただけだ。失敗するのが、変だと思われるのが、誰かに笑われるのが。怖くて、全部が出来なかっただけだ』
「……わかる」
セラは、静かに言った。
「俺もそうだった。転生して、仲間が増えて、魔法も使えるようになって——でも、どこかでブレーキをかけてた。限界まで笑ってはいけない、全力で喜んではいけない、好きだと叫んではいけない、って」
『それが、「普通を生きる癖」だよ』
「抜けられなかったな」
『でも、今はどうだ?』
セラは自分の手を見た。エルフの手。魔力が指先まで宿っている。
「……まだ怖い。でも」
胸の中に、炎のようなものが灯る感覚がした。
「でも、試してみたい。全力で。失敗しても、笑われても」
『それで十分だ』
カズヤは、静かに頷く。
『「楽しめ」って言われた意味、やっとわかったよ』
「あの声は、お前を——そして今の俺を」
『ああ。俺を——そして今のキミを』
カズヤは、一歩近づく。
『前の人生で楽しめなかった分、今は全力で楽しめって。叱咤激励か、皮肉か、それとも祈りか。どれにせよ、意味は同じだ』
「全力で、楽しむ」
セラは、言葉に力を込めた。
『そのチート能力も、その美貌も、その仲間も。全部、キミのために用意された舞台装置なんだよ』
「……ちょっと待て。チートって自覚はあったのか」
『あははは。キミが転生前から読んでたラノベに、全部書いてあっただろ』
「それを言うな」
二人は笑った。声は、白い空間に吸い込まれていく。でも、確かに笑った。これが最初で最後かもしれない、自分自身との笑い。
カズヤは、セラの肩に手を置こうとした——が、すり抜けていく。幻影だから。
『そうだ。俺はもういない。前のキミは、もういない』
カズヤの姿が、ゆっくりと薄れていく。
『これからは、セラ・ウィスパーウィンドとして生きるんだ』
「待て、まだ言いたいことが——」
『言いたいことは、一つ』
カズヤは、最後に微笑んだ。それは、二十九年間で一度も見せたことのない、自由で、楽しげな笑顔だった。
『俺の分も、楽しんでくれ』
カズヤの姿が、光の中に溶けていく。
白い空間が、急速に収縮していく。意識が、遠のく。
## 覚悟と覚醒
「セラ────!!」
アリアの声が、雷鳴のように響いた。
「っ!?」
セラは、大きく息を吸い込んだ。
白い空間が、一瞬で砕け散る。浮遊感が消え、重力が戻ってくる。冷たい石の感触が背中に伝わり、湿った空気が肺を満たす。心臓が、激しく打っている。
目の前には、心配そうな二人の顔がある。
「セラ……」
アリアの瞳から、大粒の涙がポタリと落ちる。
「セラ!?」
ミサトが駆け寄ってくる。「やばかったんか! 突然光って、消えて……」
「あ……ああ」
声が出た。掠れていて、自分の声ではないようだった。
「ど、どしたん? 気絶か? バカなことして、頭打ったか?」
「……頭は大丈夫」
セラは、ゆっくりと上体を起こした。頭が重い。でも、それは不快な重さではない。まるで、何かが詰め込まれたような、満ち足りた感覚。
「ただ、少しだけ……長い夢を見ていたんだ」
「夢?」
アリアが彼の手を握る。その手は震えていた。「どんな夢?」
「前世の夢。俺が、佐藤カズヤとして生きた頃の」
二人は、顔を見合わせる。
「ずっと、避けてきたんだ」
セラは続ける。「転生したことを、前の人生を。平凡で、退屈で、楽しめなかった人生だったことを」
彼は自分の両手を見る。エルフの、白銀に輝く手。魔力が静かに脈打っている。今まで気にしたことがなかったが、この手はいつも精いっぱいだったのかもしれない。
「でも、やっとわかった」
「なにが?」
アリアが、怯えの中に期待を宿して問う。
「あの声の意味」
セラは、顔を上げて二人を見た。
「俺は転生した時、"次は楽しめ"って言われたんだ。あれはただの挨拶じゃなかった。戒めでも、皮肉でもない」
彼は、握られたアリアの手を、自分から握り返す。
「俺の前世は楽しめなかった。二十九年の人生で、一度も全力で楽しまなかった。だから、今度は楽しんでくれって。俺自身から、俺へのメッセージだったんだ」
「セラ……」
アリアの瞳から、新たな涙が溢れる。不安の涙ではない。
「だから、俺は決めた」
セラは立ち上がる。足元が少しふらついたが、アリアがすぐに支えてくれた。ミサトも、無言で彼の肩を掴んでいる。
「これからは、全力で楽しむ。この世界で、この体で、この仲間と」
彼は、二人の顔を交互に見る。
「遠慮しない。謙遜しない。常識に縛られない。強くなりたいなら強くなる。好きな女も、追いかける」
「し、好きな女って……!?」
ミサトが赤面して狼狽する。「は、はずかしいこと言うな!」
「って、ミサトもか」
アリアも、耳まで赤く染まっている。でも、その顔には幸せな光が宿っていた。
「俺は、セラ・ウィスパーウィンドとして生きる。佐藤カズヤの人生を含めて、それが俺の今だ」
彼は、祭壇に向き直る。水晶は、もう光を失っていた。ただの透明な石に戻っている。
「ありがとう」
セラは、祭壇に向かって手を合わせる。
「俺の分も、楽しむよ」
その瞬間。水晶が、ほんの少しだけ輝いた気がした。
遺跡の出口へ向かいながら、セラは一度だけ振り返った。
祭壇の水晶は、再び静かな脈動を刻んでいた。問いかけでも試練でもない、ただの静かな光。それが今は不思議と懐かしい。
「……また来るかもしれない」
呟きは誰にも届かなかった。でも、水晶が少し明るく輝いた気が——した。気のせいかもしれないが、気のせいでいい。
「セラ、早く!」
ミサトの声がして、セラは前を向いた。月明かりが差し込む出口に、二人のシルエットが輝いている。
「今行く」
一歩、また一歩。セラの足取りは、遺跡に入った時より確かだった。
遺跡の出口から差し込む月明が、三人の背中を照らしていた。
「ねえ、セラ」
アリアが、彼の腕を抱くように歩いている。
「ん?」
「夢の中で、私たちのことは出てきた?」
「……出てこなかったな」
「えー!」
「でも」彼は微笑む。「これからは、出し続けるつもりだ」
「……もう、調子いい」
アリアは、幸せそうに彼の腕に顔を埋めた。
「って、あんまりくっつきすぎやろ!」
ミサトが後ろから文句を言う。「周りの目があるねん!」
「誰もいないよ、ここ」
「そういう問題じゃないっての! 羞恥心とか!」
「ミサトさん、顔、真っ赤だよ」
「気のせいや! 月光のせいや!」
ミサトは自分の頬を覆いながら、早足で歩き出す。二人の軽口が、森の夜に溶けていく。
(これが「全力で楽しむ」ということか。深夜残業と缶ビールだけじゃなかったんだ、人生は)
遺跡を出ると、森の空気が変わっていた気がした。試練の前よりも、風が優しく感じる。星の光も、少し増しているようだ。
セラは立ち止まり、夜空を見上げた。満点の星。二つの月。異世界の美しい夜。
日本の夜空も美しかった。でも、こんなに輝いてはいなかった。光害が星を隠していたから。この世界には、そんなものはない。ただ、純粋な光と闇だけがある。
(こんな景色、見たことなかったな。いや——見ようとしなかったんだ)
カズヤが見守ってくれているとしたら、きっと笑っているだろう。「ようやく気づいたか」と。
「全力で楽しむ」
セラは、もう一度誓う。
この世界で、この体で、この仲間と。逃げない。諦めない。遠慮しない。
隣には、アリアがいる。少し先には、ミサトがいる。遠くには、ルナやカトレアがいる。
仲間がいる。好きな人がいる。守りたいものがある。
それは、かけがえのない宝物だった。
月光が、三人の背中を優しく照らす。
セラ・ウィスパーウィンド。エルフとして生まれ変わったセラの、本当の意味での「人生」が、ここから始まる。
(そういえば——魔法も、もっとちゃんと使えるようになろう。試練を経て、何かが変わった気がする。「風よ、刃となれ——ウィンド・エッジ」の感覚が、今夜は少し違う。もっと、深いところから引き出せる気がした)
遺跡を出てしばらく歩いたところで、セラは足を止めた。
空には満天の星。二つの月が、互いに引き合うように並んでいる。異世界の夜は、このくらいの時間が最も静かだ。
「ねえ、セラ」
アリアがセラの袖を引く。「さっきの話、もう少し教えてもらえる?」
「さっきの話?」
「自分の中の声のこと」
セラはしばらく沈黙した。そして、静かに歩き出しながら話す。
「あの中で、自分と話をしたんだ」
「自分と?」
「前の俺と。前世の自分と、向き合った」
ミサトも足音を立てながら聞いている。彼女は質問しない。でも、耳を傾けているのがわかる。
「前の俺は、楽しめなかった。二十九年間、一度も全力で楽しんだことがないまま——終わった」
「カズヤちゃん……」
「でも、それは俺のせいでもある。本当は楽しめる場所に行けたかもしれないし、勇気を出して動けばよかっただけかもしれない。……でも、あいつも精一杯だった。だから許す。そして、今の俺が代わりに生きる」
アリアが隣に並んで歩く。その手が、セラの手を探して、そっと握る。
「セラ、あなたは今、楽しんでるよ」
「……そうかな」
「うん。顔を見ればわかるわ。あなたが本当に楽しい時と、そうじゃない時の顔、私はちゃんと知ってるから」
「アリア……」
「遺跡でのあなた、大変そうで怖かったけど、でも、戻ってきた時の顔が——すごく穏やかだった。何かを手放して、軽くなったみたいな顔」
その言葉に、セラは胸が詰まるような感覚を覚えた。
(アリアはよく見てる。全部バレてる。それが、なぜかすごく嬉しい)
「ミサトも」
セラはミサトの方を向く。「心配かけてごめん」
「謝らなくていい。私は、あなたが選んだことを——信じてたから」
ミサトが少し早口で言う。照れ隠しの早口だ。それがわかって、セラは苦笑する。
「信じてた、か。ありがとう」
「……礼はいらないって言ったわよ」
「いや、言わせてほしい。ミサトが信じてくれたから、俺も諦めなかった気がするから」
ミサトは何も言わなかった。でも、夜の中で、その顔がほんの少しだけ赤くなったように見えた。月明かりのせいではないと思う。
「さあ、帰ろうか」
三人は再び歩き出す。
(前世では一人で歩いていた道が、今は三人分の幅がある。それだけで、世界の見え方がまるで違う)
星の下を三人の影が進んでいく。遠くで、夜鳥が鳴いた。
「あ、おやすみの声だって」
アリアが言う。「この鳥、夜に鳴いたら「おやすみ」って意味があるんだって、昔おばあちゃんから聞いた」
「本当に?」
「うん。だからセラ、おやすみ」
「……おやすみ、アリア」
「おやすみなさい、ミサトさん」
「……おやすみ」
ミサトが短く答える。でもその声は、今夜一番柔らかい声だった。
三人の足音が、静かな夜道に続いていく。




