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神に楽しめと言われた。楽しみすぎて、神を超えた。  作者: issoh


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第1話 事故死と転生、そして裸の覚醒

# 第1話 事故死と転生、そして裸の覚醒


## 裸の覚醒


 目が覚めたら裸だった。


 確認しておきたい。これが「転生」ってやつか。それとも俺は変な場所で寝てしまっただけなのか。


 自分の体を見る。


 ——裸。細い。白い。木造りの天井。耳が、尖っている。


 転生、確定。


(……で、なんで俺、こんなに平静に受け止めてんだ。おかしい、絶対おかしい)


 体を起こす。ベッドは柔らかくて、シーツが白い。窓の外から小鳥の声がする。チュンチュン、などという無責任なほど朗らかな声で。


(待て。死んだはずだ。深夜の交差点で、巨大なトラックに——あ、死んだわ。確かに死んだ)


 胸の奥をまさぐってみる。悲しいか。怖いか。後悔があるか。


 ……あんまりない。


(前世の29年、そんなに濃かったか俺。コンビニでポテチ買って終電逃してた人間が)


 深呼吸した。


 体の中を、何かが流れている。血液とは違う、もっと根底にある温かいもの。全身を循環している。心臓の鼓動に合わせて、脈打っている。


(……これが魔力、ってやつか。異世界に来たなら魔法くらいあるだろうと思ってたが。ホントにあった)


 掌に意識を向けると——うっすらと光が漏れた。青白い、淡い光。


「……やばい」


 独り言が出た。感動のやばいかパニックのやばいか自分でもわからない。たぶん両方だ。


 ただ、窓の外の景色が、信じられないくらい綺麗だった。緑の木々が朝陽を浴びて輝いている。空気が清々しい。前世の朝は隣の部屋のテレビ音と自動車の排気ガスから始まったが、この世界は鳥の声と木漏れ日と新鮮な空気から始まる。


(すでに条件は前世より上だな)


 現金なもので、そんなことを考えている自分がいた。


## 前世の話(少しだけ)


 佐藤カズヤが死んだのは、二十九歳の春だった。


 深夜の街。コンビニの蛍光灯が白い光を垂れ流す歩道を、終電を逃したサラリーマンが歩いていた。中堅商事の営業部。特筆すべき特徴もなければ、特筆すべき人生もない。ポテトチップスの袋を提げて、明日の朝礼のことを考えながら、信号の前に立っていた。


 そしてトラックが来た。


 思考が追いつかなかった。大きなヘッドライトが迫ってくる。タイヤが悲鳴を上げる。体が宙に舞って、夜空の星が見えた。都会でこんなに星が見えたっけ、などと思いながら。


(ああ。これで終わりか)


 痛みはなかった。静かな事実認識だけがあった。


(……次は、もっと楽しめばよかった)


 こんなに普通の、平凡な、特別でもない後悔が——意識と一緒に消えていった。


 二十九年という時間を、毎朝の通勤と毎週の残業と毎月の締め作業に費やした。楽しかったこともある。好きな食べ物も、好きな音楽も、ちゃんとあった。でも総合的に振り返ると、「何かに夢中だった」という瞬間がほとんど思い出せない。いつも「そこそこ」で、いつも「まあいいか」で、いつも「そのうち」だった。


 そのうち、が来なかったまま、トラックが来た。


 カズヤには、親しい友人がいなかった。いや、正確には「いなくなった」。学生時代は多少いたが、社会人になって二年もすると連絡が途絶えた。職場に飲み友達はいたが、「友達」と呼べるかは微妙だった。帰宅して誰かに「今日こんなことあった」と話せる相手が、ここ数年でいなくなった。


 それが別に、特別つらかったわけでもなかった。そういうものだと思っていた。


 だから——後悔は、小さかった。


## 謎の声


 暗闇の中で、声がした。


「……楽しめ」


 男でも女でもなく、遠くて近い声。でも——どこかで聞いたことがある気がした。自分自身の声に、微妙に似ている。


「次は、楽しめ」


(……誰だよ。死後の世界ってこういう感じか。設定が雑すぎる。というかその二言だけ言って終わりか。もう少し情報量をくれ。何の世界に転生するのか。どんな能力があるのか。攻略本みたいなもの、ないのか。せめてスキル確認の画面くらい出してくれてもいいのでは。なろう系的にはここでステータスウィンドウが開くのが定番のはずだが——)


 指先に、ふわりと温度を感じた。暗闇の中に、淡い光が見えた。その光に意識を向けると、温かさが全身を包んでいく。


(……意識というのは最後まで余計なことを考えるんだな、と思いながら、俺は光に吸い込まれた)


## 水面の鏡


 部屋を探索する。服がない。


「なんで服がないんだ」


 廊下に出る。木造の廊下を歩いていくと、泉に似た水場があった。透明度の高い、底の小石まで見える水。水草が揺れていて、小さな魚が泳いでいる。前世のアパートのユニットバスとは、空間として別次元だ。泉の水が光を受けてきらきら揺れていた。


 水面を覗き込む。


 そこには——銀髪の美形エルフが映っていた。


「……これ、俺!?」


 声が震えた。銀色の髪。緑色の瞳。長く尖った耳。どう見ても異世界ファンタジーの住人だ。顎のラインが綺麗で、肌が透けるように白くて、こんなスペックを前世では持ったことがない。


「エルフ……!?」


(エルフ。長命種で魔法に適正がある。美形が多い種族——まさか自分がエルフになるとは。いやこの顔、マジか。マジのやつだ。もしかして転生特典か。前世の俺に「イケメンに転生できる」と言ったら信じなかっただろう。十年くらい前の俺に言ってやりたい。「安心しろ、死ぬけど美形エルフになれる」と。励ましになるかは不明だが)


 イケメンすぎないか。


「……うわ、イケメン」


 口から出た。自己評価としてはあまりにも率直だが、客観的にそう見えるから仕方ない。


「これ誰よ!? 俺!?」


 耳に触れる。ピクリと動いた。風を感じているのか、遠くの音を拾っているのか。指先で軽く触れると——


 敏感だ。とても。触れた瞬間、遠くの鳥の声が急に鮮明になった気がした。鳥が何羽いて、どの木にとまっているか、そういった情報まで自動的に読み取れてしまう。


「……耳がすごい敏感だ」


(エルフの標準装備、こんなに性能いいのか。美形で魔法使えそうで聴覚も鋭い。ご褒美が来た——いや死んでるんだけど。でも悪くない、か。むしろかなり良いのでは。前世の俺はほぼ何もなかった。今世はいきなり美形エルフで魔力持ちだ。振れ幅が大きすぎる人生を歩んでいる)


## 耳の苦悩、初日から


 部屋を出る前に、また問題が起きた。


 廊下から、複数の音が聞こえてくる。人の足音。一人じゃない。少なくとも二人。それだけではなく——その足音の質から「体重が軽い方が少し緊張している」「もう一人は急いでいる」という情報まで読み取れた。


(……情報が多すぎる。耳がハイスペックすぎて、俺のOS側が追いついていない)


 頭が痛い。全ての音が等しく飛び込んでくる。選別できない。前世では、自分の意思で「聴く音」と「流す音」を無意識に区別していた。でもこの耳は——全部を同じ優先度で処理しようとしているらしい。


(これ、慣れるのか? 慣れないと毎日頭が痛い生活になるんだが)


 深呼吸した。体の中の魔力が、少し揺れた。感情に連動しているのか——痛みや不安が揺れを引き起こしている。


(魔力と耳が連動してるとすれば、魔力を安定させれば耳も落ち着くのかもしれない。でも今の俺に魔力の制御ができるかというと——できない、たぶん。今日転生したばかりの人間にそれを要求するのは無理がある)


 しばらく目を閉じていた。耳に入る音の量が減らないが、少しずつ「慣れ」が来た。ただ音として流すことを、少しずつできるようになってきた。


(……まあ、時間をかければどうにかなるだろう)


 前世でも、残業三時間が当たり前になるまで最初は限界だった。慣れというのは、どんなことにも来る。


## 魔力の渦


 部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。


「佐藤カズヤは死んだ」


 再確認する。


「今は、セラ・ウィスパーウィンド?」


 頭に浮かんだ名前。この銀髪のエルフの名前。どこから来た情報かわからないが、確かにそう感じた。


「セラ」


 試しに呼んでみる。しっくりくる。最初からその名前だったかのように。佐藤カズヤという名前は、どこかとても遠い場所の記憶になった。


(なろう系かよ。美形エルフに転生して魔法が使えそうで何かすごい能力まで付いてそう。台本通りすぎて笑えてくる。よく考えたらまだ裸だった。台無しだ)


 物置で緑色のチュニックとズボンを見つけて着替えた。この体の持ち主の服だ。サイズが合う。


(美形エルフに緑色のチュニック。どこのファンタジーの住人だよ——ファンタジーの住人だった。当たり前だ)


 体の中の「何か」を意識する。血管を流れるような温かさ。心臓から全身に広がるエネルギー。それが掌に集まってくる感覚。


「……これが魔力回路?」


 掌に意識を集中させると——光が出た。柔らかく、でも確かな、淡い白い光。指先から溢れて、手の平いっぱいに広がっていく。


(……本当に出た)


(魔法。本当に、魔法だ。前世の俺が見たら卒倒するか、あるいは喜ぶか——たぶん喜ぶ。だってこれ、子供の頃に憧れたやつだ。RPGゲームで「呪文」を使う瞬間の快感を、実際に体の中から感じている。しかも手の平から光が出るとは。光量がどのくらいあるかわからないが、とりあえず「魔法が使える」という事実は確認できた)


 喜びのあまり、もっと解放しようとした。


 その瞬間。


(……あれ? 止まらない)


 掌から溢れ出す光が、部屋全体を白く包んだ。床が、揺れた。大地が、大きく震えた。本棚が傾いた。


「わっ——!」


 棚から本が崩れ落ちる。窓ガラスがびりびりと振動する。部屋の隅の花瓶がカタカタと動いている。壁に飾られた何かが床に落ちた。


(でかすぎる。俺の魔力、でかすぎる。制御できてない。制御の仕方を、誰も教えてくれなかった。そりゃそうだ、今日転生したばかりだ。ダムを建設したがダムを操作する方法を誰も知らないまま放水しようとしている状態だ。というか魔力が「多すぎる」のは問題じゃないのか。これだけ揺れたら近隣の住民にもわかるだろう。異常だと思われないか。転生早々「あいつの魔力がおかしい」とか言われる展開になるのか)


 必死に押さえ込もうとする——が、まるでダムが決壊したような感覚だった。どうにもならない。感情を落ち着けようとすると余計焦る。焦ると魔力が余計に揺れる。悪循環だ。


(どうしろっていうんだ)


 数分後、ようやく揺れが収まった。


 肩で息をしながら、床に手をついてへたり込む。


「は……はぁ」


 感動的な場面のはずだが、よく考えたら腹が減っていた。


(エルフだけど……生命体の三大欲求には逆らえない)


「……まずは服を見つけた。次は飯だ」


 窓の外には、緑の森が広がっていた。木々が青々と茂り、陽光が木漏れ日となって踊っている。空気が清浄だ。どこまでも深い緑の中に、いくつかの建物が見える。エルフの集落、だろうか。


(こんな絶景の中にいるとは。振れ幅がデカすぎる。でも——悪くない。むしろ、かなりいい)


## 現実の確認


 居間に出ると、木製のテーブルの上に羊皮紙が一枚あった。


「……読めるか?」


 エルフ語らしき文字。でも意味がわかる。この体の言語知識が、ちゃんと頭の中に入っているらしい。便利なものだ。


『セラ、朝起きたら森の西側の小道を歩いてみなさい。きっと、あなたの力の手がかりが見つかるはずです』


 署名がない。誰が書いたのかわからない。


(「件の資料をフォルダAに入れておきました」みたいな謎のメモ書き。誰だよ。対応しなければならない気がするのが万国共通か。いや前世より謎の指示の出し方だ。「力の手がかり」って何だよ。魔力暴走の原因を知っている人物が書いたのか? それとも転生者を送り込んだ何者かからの指示なのか。「エルフの森に転生しました、行動指示も自動で送ります」みたいな何かがあるとすれば、かなり手が込んだシステムだ)


 棚にあった乾燥果物を一つつまむ。甘い。


(素直に食べよう)


 もう一つ。うまい。果肉がしっかりしていて、甘みが濃い。前世のコンビニスイーツとは違う種類の甘さだ。素材の味というやつか。


「……悪くない」


 外は静かだった。木々の間を風が通り抜ける音。遠くで鳥が鳴いている。空が高い。森に包まれているのに、閉塞感がない。むしろ広い。


 乾燥果物を一つ追加でつまみながら、セラは窓の外を眺めた。これから何が起きるかわからない。でも——ここにいる理由が「次は楽しめ」という言葉ひとつで説明されるとすれば、方向性は決まっている。


## 先の不安


 森の西側の小道を歩いた。


 踏み固められた土の感触が足の裏に伝わる。朝露が葉の上で光っている。鳥の声が、立体音響のように頭の中で響く。


(耳が鋭すぎる問題は、今日も変わらず健在だ。歩いているだけで情報量が多すぎる。どの音に集中していいかわからない。二羽の鳥が鳴いているが、片方が威嚇しているのか、それとも求愛しているのか、そういった情報まで読み取れてしまう。エルフってこれが毎日続くのか。慣れるまでどのくらいかかるんだろう)


 小道の両側には花が咲いていた。青い花、白い花、薄紫の花。前世では路上の草くらいしか目に入らなかったが、ここの草木は全部が綺麗に見える。空気が良いからか、光の質が違うからか。


 開けた場所に、小さな木製の看板があった。


「セラ・ウィスパーウィンド」


 俺の名前が、そこに記されていた。名前の下に何か書かれている。読むと——「この地の守り手として生まれし者へ」とある。


(守り手。何の守り手だ。規模が急に大きくなってきた気がするが、気のせいか)


「転生した」


 改めて実感した。異世界に。エルフとして。しかも「守り手」なる称号付きで。


(なろう系かよ)


 それが最初の感想だった。


 美形エルフに転生して、魔法は最強っぽくて、守り手称号がついている。完全になろう系だ。まさか自分がその当事者になるとは。


「……まあ、悪くないか」


 セラはふっと笑った。前世では「まあ、悪くはない」という充満感のない日常だった。でも今の「悪くない」には、少しだけ違う感触がある。選択肢がなくて、ただ流されていた日常ではなく——何かに向かっていく予感がある。


 体の中に魔力が流れている感覚。耳で森の音を全て拾える感覚。そして、この新しい姿。


「……なんだか、これからが忙しくなりそうだ」


 忙しく、なってもいい気がした。


 看板から視線を外して、周囲を見回した。


 森の小道は静かだった。誰もいない。風が揺らす木の葉の音。遠くで流れる水の音。どこかで鳥が鳴いている。前世の東京では、静寂などというものが存在しなかった。どこかから常に音が来ていた。電車の音、車の音、誰かの話し声、エアコンの音。静かだと思っても、耳をすませば何かがあった。


 ここは、本当に静かだ。


 いや、静かじゃない。音は豊かにある。でも、騒音がない。耳に刺さる音がない。全部が自然の音だから、全部が心地いい。


(……前世の俺は、静かな場所を一度も持ったことがなかったな)


 少し、そのことが浮かんだ。すぐに消えた。過去を嘆くより、今をどう生きるかの方が重要だ。この体には魔力があって、この世界には謎があって、この森には出会うべき誰かがいる気がして——「楽しめ」という声は、そういうことを言っていたのかもしれない。


## 最初の人


「セラ!」


 声がした。


 振り返ると、金髪の少女が小道を急ぎ足でやってくるところだった。白いワンピース。尖った耳。アンバー色の瞳が、心配そうにこちらを見ている。息を切らしていた。かなり探し回っていたらしい。


「もう、探したんだよ。朝から見当たらないから」


(……この人が、アリアだ)


 不思議と確信があった。名前を聞く前から、わかった。この体の記憶の中に、この子のことが刻まれているんだろう。金髪のエルフで、名前はアリアで、幼馴染で——幼馴染、か。


「……アリア」


「そう。よかった、名前は覚えてる」


 ほっとした顔をした。でも——その目に、ちらりと不安の色が過った。ただ安心したわけではない。何か、もっと複雑なものを感じているような目だった。


「セラ、大丈夫? なんか……さっきから、ずっと様子がおかしい気がして」


「……大丈夫。多分」


 嘘ではなかった。大丈夫かどうか、まだ自分でもわからない。でも今は、それで精一杯だった。前世の記憶と今世の現実の間で、頭がまだ整理しきれていない。


(この子は……心配してくれてる。俺のことを。前世の俺を、心配して探してくれる人間なんて、職場にも近所にもいなかったが)


「……帰ろっか。朝ごはん、まだ食べてないでしょ」


 アリアが隣に並んで、歩き始めた。森の中の細い道を、二人で。


(幼馴染、か。エルフの幼馴染。前世では三十年生きて、「幼馴染」などというロマンチックな関係を持ったことが一度もなかった。近所に住んでいた子供はいたが、引っ越しでバラバラになった。この子は——ちゃんとここにいる。心配して探してくれる。それだけで、今日の転生は悪くない、と感じた)


 歩きながら、アリアは何度か横目でセラを見た。何かを確認しているような目。心配しているような目。ただ、その表情には「怖がっている」ではなく「心配している」という違いがあって、その違いが、なぜか少し温かかった。


「朝ごはん、何が食べたい?」


「……なんでもいい。アリアが作るなら」


 アリアが少し止まった。それからにっこりした。


「じゃあ、好きなもの作るね」


 アリアが笑った笑顔が、木漏れ日の中で輝いた。


(この子は——前世の俺の周囲にいたどんな人間とも違う。笑顔が透明で、言葉が真っ直ぐで、気遣いが自然だ。「当たり前のこと」を当たり前にやる人間だと、すでに感じる。そういう人間が隣にいることが——俺には、少し前世でも欲しかったものだったかもしれない)


 転生初日。名前の看板だけが立つ西の道で——セラは、この世界で最初の人間関係を手に入れた。


## ◆初日の朝食


 アリアが作った朝食は、素朴だけど驚くほど美味しかった。


 雑穀を煮込んだお粥のようなもの、森のベリーをハチミツで和えたもの、薄切りにした芋を焼いたもの。前世のコンビニ飯とは比較にならない。何が違うのかうまく言語化できないが、「食材に命がある」という感覚があった。


「おいしい?」


 アリアが向かいに座りながら、期待顔でこちらを見ている。


「……うん。本当に」


「よかった! 実は昨日から何を作ろうか考えてたんだよ」


(昨日から。つまり、俺のために朝食を考えていた)


 前世の俺に、朝食を誰かが考えてくれたことがあっただろうか。コンビニのホットケースは俺のために並んでいたわけじゃないし、会社の自販機コーヒーも俺のためではない。「俺のために」何かを考えた人間の存在が、久しぶりすぎて処理が追いつかない。


「そんなに考えてくれたのか」


「当たり前でしょ。セラが何が好きか、ちゃんと確認したかったんだけど——覚えてる? 好きな食べ物」


 セラは少し考えた。この体の持ち主の記憶を探ると、薄ぼんやりとした映像が出てきた。幼い頃、森の果実を食べながら笑っている場面。


「……甘いものが、好きだった気がする」


「正解! ハチミツのベリー、ちょっと多めに作ったよ」


 アリアが笑顔でベリーの器をこちらに向けた。


(この子は、ちゃんと俺のことを見ている。記憶が曖昧になっている俺を、置いていかない)


 食事しながら、セラはアリアをひそかに観察した。きびきびと動く手。よく笑う口。食事中に鼻歌のような音が漏れていたが、本人は気づいていないらしい。前世の職場の昼食会は、全員が各自スマートフォンを見ながら食べていた。誰も誰かを見ていなかった。この子は違う。食事中も、ちゃんとこちらを見ている。


「セラ、今日どうする? 外に出てみる? それとも休む?」


「外に出てみたい」


「じゃあ案内するよ。エルフの集落、まだよく知らないでしょ?」


(そうだった。この世界のことは、まだほとんど何も知らない。魔力のことも、エルフの社会のことも、この集落のことも。やることが山ほどある)


「ありがとう、アリア」


「また言ってる」


「何が?」


「ありがとうって、朝から三回言った。カウントしてたよ」


 セラは少し黙った。それから、少し笑った。


「……じゃあ、ありがとうを貯蓄しておく。一気に使えるように」


 アリアが吹き出した。こぼれるような笑顔になった。


「何それ、変な人」


(変な人、か。——前世の俺は「普通の人」だった。普通すぎて影が薄かった。それが今、「変な人」と笑われている。嬉しいのか、どうなのか。でも——なんか悪くない)


## 初日の終わり


 集落を少し歩いた後、二人は家に戻った。


 夕方になると、アリアのお母さんが戻ってきた。アリアに似た穏やかな雰囲気の女性で、セラを見ると少し目を細めた。


「大丈夫だった? 初日は色々と大変でしょう」


「……おかげさまで」


「アリアが世話を焼いてたでしょ」


「世話焼きって言わないで」


「事実でしょ」


(親子の掛け合いだ。アリアの家は、こういう空気がある。前世の実家は、もう少し静かだった。父は無口で、母は忙しそうだった。会話が少なかった)


 夕食を三人で食べた。アリアのお母さんが話す内容は、集落の日常的な出来事だった。誰それが果実を採りすぎた、誰それの子供が転んで泣いていた、次の集会はどこでやる——そういう、小さくて温かい話。


 前世の俺の夕食は、コンビニのレジ横で買ったサンドイッチだった。テレビをつけながら一人で食べた。声がなかった。


(ここには声がある。温かい声が。当たり前のように)


 夕食後、アリアは皿を片付けながら何かを言いかけた。口を開いて——やめた。少し考えるような表情をして、また片付けの手を動かした。


(何を言おうとしたのか、その時の俺には知る由もなかった)


 森の鳥たちが、朝の歌を歌い始めている。新しい一日が始まっていた。


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