慈雨に融ける
以前載せた作品、慈雨に融けるの再掲と、またそれからなる連作短編連載です。世界観は似ててもストーリーと登場人物は違います。個々は短い短編で読みやすくしているので、どうぞお楽しみください。
なんとも柔らかく暖かい雨だ
私は柔らかなしっとりと濡れた草花の上でゆっくりと腕を開いては閉じ開いては閉じと回っていた。
そこで踊っていた。
この雨は、光のよう。
傷ついた心をそっと温かく癒してくれる。
慈雨ーー
窓際で編み物をする。
外には雨が降っていた。
出窓を開けると、冷たい雨が少し入ってきた。
今、ここには私一人。
仕方がない、私は、ずっと独りなのだから……
私は精霊というか、なんというか、とにかく普通の人間ではないから。
負うべき役目がある。異界と現世の境界。そこに私はいる。
そこを取り仕切り、私は見守る。
でも、いつだろうか。もう思い出せないほど前から、ここには光が無くなった。
晴れない。いつも曇り静かに雨が降っていた。
一人で寂しかった。泣いたけど、誰もいなかった。
昔いたはずの友達も、いなかった。
晴れたこの空の下で踊りたい。
私の世界は灰色だ
誰か、いないのだろうか。
曇っていたから庭に出た。
そのまま塔へ向かった。
硝子のように透き通った美しい塔。
そこから青空が見えたら、どんなに美しい景色だろうか。
この世界から出たい。
空を飛びたい。
この厚く暗い雲の先へ、その上へ
塔の頂上で手を伸ばし、すぐに引いた。
あの頃は晴れていたのに
いつから雨は降り出したのだろうか。
もし、過去へ行けたのならば……
今を変えられるのだろうか。
塔を降りて家に戻り依代とする鈴を持つ。
向かった先は、神社。
現世と異界を結ぶ場所。
試したことはない。でも、もしかしたら……
どちらに転んで、永遠にここに戻って来れないとしても構わない。
この灰色の冷たく寒い世界以外に行けるのだとしたら
鈴を握りしめ神社の社の中へ入る。
力を込めて、過去へ行きたいと強く願う。
すると身体が光り私はどこかへ消えた。
「うっ……」
夕方だった。
そこには水が満ちていた。
「ここは……」
神社だった。でも私の知ってる神社ではなかった。
晴れていた。それだけで違かった。
晴れていて、水が満ちていて、石畳があり何重にも朱い鳥居が続いていた。
一歩踏み出し歩く度、ぴちゃぴちゃと水音がする。
「はぁ……!」
鳥居の先、そこには巨大な満開の桜の木があった。
こんな場所、知らない。
なんて、美しい場所なの。
私の知ってる世界じゃない。
そして、その桜の木の下には、一匹の狼がいた。
眠っていた。でも、その顔は寂しげだった。
灰色ではなく、青と藍が混じったような、とても美しい毛並みの大きな狼だった。
おくりおおかみーー
伝承の送り狼の姿のようだと思った。
昔、お祖母様から聞いた。
とても美しい毛並みの大きな狼が守護獣となり、まもって、送ってくれるという。それを、送り狼という。
お祖母様は、もうずっとずっと前に……
あの時はまだ晴れていたのだろうか。
すると、狼が目を覚ました。
「貴方、」
貴方、その先の言葉は何故か続かなかった。
「グルゥ……」
その狼は、そう少しだけ唸ると起き上がり、まるで驚いたかのような表情で私を見つめてきた。
「貴方……ここはどこかしら」
狼は答えなかった。そりゃ、そうか。
代わりに狼は歩み出した。
神社に向かって。
水音をちゃぷん、ちゃぷんと鳴らしながらゆっくりと。
思えば、ここはとても美しい世界だが、人は誰もいない。
水面に反射する夕陽は、眩しく、美しく、綺麗で、私の世界では決して見ないような光景だった。
狼が神社の境内に足を踏み入れた時、突然狼は目の前で消えた。
驚き私が追って境内に急いで行くと、私もまた境内に足を踏み入れた瞬間消えた。
「あれ……ここは……」
また知らない場所だった。しかしそこは晴れていなかった。
灰色の世界。何も無かった。水面にただ只管雨が打ち付けられており、空と水面は鏡面のようだった。
無の境界
そう思った。
「あの狼さんは……」
先程の送り狼らしき狼はいなかった。
やはり、あの世界を結ぶ神社は不思議な力がある。
あそこへ行くことを禁じられていたわけだ。
もう、誰もいないから止める人もいないけれど。
前へ進むと、そこには透明な壁があった。
よく見ると、そこに透明な壁があり、窓のようになっていて、左右には白い壁があるのだった。
だから、この中は冷たくも寒くもなく雨も降っていないのか。
でも奥に、白い光があった。
その光の方へ進むと、そこには先程の狼がいた。
「あら、貴方、そこにいたのですか。」
狼はやはり何も答えない。
白い光の場所には、やはり何も無かった。空も壁もなかった。でも明るかった。
狼は雨の方へ歩いて行った。
そして窓の前で止まりピクリともしなかった。
ただ、真っ直ぐな目でそこを見つめていてーー
「あっ……」
もしかしたら
「これは、貴方の心?」
狼は、初めて首を僅かに縦に動かし反応を見せた。
窓に触れ、目を閉じてそっと手を押し当て力を入れると、その窓を手はすうっと通った。
狼は何の問題もないようにその窓を通り抜けた。
雨の降る水面を歩く。
でも足は濡れない。裏側の世界に水飛沫が飛んでいるようで……
冷たい雨だ。
狼は私に擦り寄って来た。
狼に触れると、また身体が光り消えた。
また知らない……訳ではなかった。
懐かしい場所だった。
でもどの場所かは思い出せなかった。
でも妙に懐かしさのある場所だった。
晴れていた。
しかし雨は降っていた。
草花に柔らかな雨が降り淋、
暖かい日の光が差していた。
恵の、雨。
素敵な場所だった。私の、理想の場所だった。
思わず草履を脱ぎ裸足でその草花の上を歩いた。
柔らかく、しっとりと濡れていて、心地よかった。
狼はこちらを見ていた。ずっと見ていた。
その心地良さに私はその上で軽く回り始めた。
自由に動いて踊りたかった。
久しぶりに、心から笑った。
狼に抱きつき、また狼もしっとりと濡れていて心地よく、懐かしかった。
懐かしい。知っている。私は知っている。この花と雨を。
繊細な雨に身を包まれ、昔の記憶が蘇る。
友達がいた。少し年上くらいの少年で、どんな子だったかは思い出せない。
でも、彼は私の友達だった。
かけがえのない友人だった。
でも彼は、ある日いなくなってしまった。
神隠しのように消えてしまった。
祖母が居なくなったあと、彼しかいなかった私は、また一人になった。
この現世と異界の境界を見守る役目を負い、独りで過ごした。
彼がいなくなりこの世界にただ一人残された私は、ただただ寂しく過ごし、時々泣いてしまい、
やがてそこには雨しか降らなくなった。
涙を流すだけ、空は暗く灰色に覆われ、冷たく寒々しい雨が降った。
ここの景色は、それ以前の、彼がいた時の、その時の景色。
彼は雨だった。
優しく柔らかく、包んでくれた雨だった。
光の雨
狼を抱きしめていると、懐かしさと安心感がやってきた。
「貴方は、彼なの?」
狼は、今度はしっかり頷いた。
「貴方は、神社に行って、帰って来れなくなったの?」
狼は頷いた。
「貴方の本当の姿は、その狼なの?」
首を縦に振った。
「私は、君の守護獣、おくりおおかみ」
狼が初めて口を開いた。落ち着いた、低い声。その声を聞くだけで自然と安心する。
「貴方は、私のために神社へ行ったの?」
狼は二度は口を開かなかった。静かに肯定した。
「私をあの場所へ連れていこうとしてくれたのね。とても美しい、あの場所へ。しかし帰れなくなってしまった」
「だから貴方の心は一人で、寂しくて、暗くて、あの雨となってしまった」
狼はその通り、と首を振った。
「もう……そんな事しなくても……私は貴方がいてくれるだけで良かったというのに……お人好しなんだから……」
「君を喜ばし君を幸せにし君を護るのが私の役目だ。君が来てくれたから私は再び元の世界へ帰ることができる」
「元の世界へ帰る?」
「君は異界と現世の境界の役目を負った者だ。帰らなければならない。大丈夫だ。きっと、雨は晴れている」
「どうやって帰ると言うの?」
「依代の鈴。君が持ってきた鈴。あれは君があの世界に留まるために残した依代。それがあるなら帰れる。」
あの鈴。全く、帰る方法がわかるのなら、先に貴方に帰ってきて欲しかった。
「ええ、わかったわ」
狼、彼に触れ瞼を閉じてそっと祈る。
そして私たちの身体は消えた。
「うっ……」
瞼を開くと見慣れた場所が現れた。そしてころんと鈴が落ちていた。戻ってきたのか。
彼はいた。狼の姿で。
「漸く帰ってこれたか。なんとも久しぶりだ」
社から出ると、雨は降っていた。
しかしその勢いは弱く、東の方は明るみがあった。
まさか、と思い東へ走った。
雨は降っていた。けれど、晴れていた。
厚い灰色の雲が割れ、その間から柔らかな日の光が差していた。
冷たく痛い雨に打ち付けられていた草花には、柔らかく細かく温かい霧雨が降り注いでいた。
「わぁ……!」
すぐに草履を脱いで裸足で、先程のように軽く柔らかく草花の上を駆け回り踊った。
手を開いて閉じて、くるくると回って、全身にその雨を受けて、草花を癒すその恵の、癒しの雨に包まれて。
望んだ、憧れた、理想の、光の、癒しの、
それは、表すなら、
慈雨
冷たく寒かった寂しい心は
その暖かい雨に癒され、
閉ざして凍っていた、暗く重いその心が
解けて、融けてゆく。
閉ざされていた冷たい世界が融けてゆく。
「慈雨」
「ねえ、これからも私と一緒にいてくれる?」
彼は人の姿となり優しく微笑み答えた。
あの時と変わらぬ笑顔で。
「ああ、勿論だ。送り狼だからな。
「ありがとう!」
寂しい世界は慈雨に融けて行く。




