愚かな自分
背後に立つルシファーを見たとき、一瞬自分を迎えに来たのではないかと思った。
そんなことは絶対にないと思いつつも、私はそんな空想を何度もしていたから。
現実逃避で得るささやかな幸せ。
あなたかざわざ残酷な現実を知らせに来たから空想さえすることさえも出来なくなってしまったじゃないの。
リンカ…
よりによってリンカと。
リンカと!
それもリンカの悪い性質を把握した上で…
ああ、私はなんて馬鹿だったんだろう。
リンカの策略にまんまとハマり屋敷を出たりして。
自分の自己犠牲こそルシファーに幸せをもたらすものだと頑なに信じて。
カリイナは夏の日差しを浴びているにもかかわらず、体がどんどん冷えていくのを感じている。
それは屋敷を出てからこのリングヤードにたどり着くまでさすらった日々や、ミコ婆さんの下宿で一人で膝を抱えて過ごした冬の寒さの記憶が蘇ってきたからだ。
寒さに震えるカリイナの脳裏にはこの半年に出会った人々の顔が浮かんでくる。
危ないところを助けてくれたレイン、一緒に暮らそうと言ってくれたジュディ、今も温かく見守ってくれているヒース。
みんなのことを私は好きになった。
でも…ルシファー以上には…
この人以上には…
急に動かなくなったカリイナとルシファーの姿に、クミとアシャは冷や冷やした。
彼女たちのいるところまでピリピリとした空気が伝わってくる。
姐さん!早く戻ってきてと手を組み祈りながらクミとアシャは二人の様子を見守り続けていた。
ルシファーを正視するのが辛くなったカリイナは首を折り視線を地面に落とす。
勇気を出し、再び顔を上げ改めて彼を見る。
ルシファー、私が屋敷にいた頃より痩せている…
背も少し高くなったような気がする。
姿勢が良くなった。
上質な衣装に負けないくらいの品も出てきた。
この人はもう立派な貴族の子弟だ。結婚が出来る年齢の。
結婚が…出来る…年齢の…
それにしても愚かだ。
リンカを選ぶこの人も、その愚かな人にこんなに傷つけられている自分も…
うつろな視線を自分に向けているカリイナに対してルシファーはその心臓を握り潰すような話をし始める。
「僕は父に命令されて君の様子を見にきたんだ。
僕はリンカに気を取られてすっかり君のことを忘れてしまっていたけれど、父は気にかけて君の行方を探していた。
彼はリンカよりはずっと君のことを気にいっていたから君を連れ戻し、僕とリンカが結ばれるのを阻止したかったのだろう。
…そう言う意味では僕は親不孝をする。
けれど、大丈夫だ。リンカのことは気に入らなくても、いつか彼女が産む赤ん坊があの人の心を癒すだろうから」
カリイナの心は破裂しそうに激しく痛んだけれど、彼女は頑張って立っていた。泣きもせず。
すうっと息を吸った後、彼女はおもむろにしゃがみ込む。
そして足元に落ちていた石を右手で拾いそれを強く握りしめた。
今カリイナは以前姐さんに説教された時のことを思い出している。
いいかい、あんたら。
生きてりゃ必ずしなきゃいけない喧嘩ってものがある。負けることがわかっていても。それは自分の尊厳を守るための喧嘩だよ。
どんなに実力や身分の差があっても、自分のことを踏みつけにきたヤツを許してはいけないよ。
負けることを恐れるからみんなするべき喧嘩ができないんだ。
だから相手に舐められる。
舐められ続け延々と苦しめられる。
それを断ち切るためには命がけで喧嘩をするしかないんだよ。負けを覚悟で。
あとね、もしも男を殴りたくなったその時は何か硬いものを握りしめて殴りな。
こっちの本気が相手に伝わるように。
あの時の姐さんの言葉通りカリイナは本気でルシファーを殴ろうと思った。
空想の中でルシファーと寄り添う、そんなささやかな幸せを味わうことさえ取り上げに来た意地の悪い彼を。
彼女の愛情を不必要なのものだと言い切り、新たな恋人との将来を思い、うっとりとした顔で話す彼を。
結果を言うとルシファーの顎を狙ったカリイナの拳は簡単に避けられてしまう。
そのためカリイナの拳は宙を切り、拳に込めたエネルギーは自分の体を地面に叩きつけられる為に使われた。
カリイナは肋骨を強く打ち息が出来なくなりそのまま気を失った。
それは彼女にとって幸いなことであった。
焼き尽くされるような心の痛みから一時的に逃れられることが出来たのだから。
倒れたカリイナはまるで強風に弄ばれ高く宙を舞いその後地面に落ちて土にまみれた洗濯物のよう。
そんなカリイナを見下ろすルシファーは何かを成し遂げたような満足気な笑みを浮かべていた。
ところがしばらくすると彼は突然短く叫び、倒れているカリイナに覆いかぶさり慟哭し始める。
「…っう、なんで!なんでこんなことを?!
どうしてこんな嘘をっ」と。
クミとアシャはいきなりしゃがみ込んだカリイナを見て驚いた。一瞬、倒れたのかと思ったので。
けれど再びカリイナが立ち上がり男に殴りかかっていったことにはもっと驚く。
そしてその後転んで倒れ動かなくなった彼女の上に男が覆いかぶさったことにはさらに驚いた。
カリイナは何か鋭いもので刺されてしまったのではないだろうか?大変、助けに行かなきゃ!と思うもののカリイナと男が一塊になった姿が妙におどろおどろしくて、彼女らは一歩も動けずにいた。




