耳鳴り
じゃがいもを頬張っていた姐さんは突然目の前に男が現れたことに驚く。
それはこの桃園にはおよそ不似合いな上流社会の若者。
彼の細かい地模様の入ったブルーグレイの上着の下のブラウスにはフリルがついていて、その襟元には黄土色のブローチが飾られている。
こんなに大ぶりで綺麗な宝石を姐さんは生まれて初めて見た。
けれどその若い男は宝石に負けないくらい強い輝きを放っていた。
姐さんに続いてカリイナより大人しい女アシャや、若い農家の嫁クミもカリイナの背後に立っている男に気づいた。
皆の様子を不審に思ったカリイナは振り返る。
そして自分の背後にいた男の姿を見て息を飲んだ。
それはルシファーだった。
彼女の驚き方は他の女たちとはまるで違う。
口を開け、なにかを言おうとしているのだが震える唇からは言葉が出てこない。
さっきまで手に持っていたじゃがいもは土に転がっていた。
その様子を見て姐さんやクミたちは察した。
これはカリイナの男だ、と。
この男は彼女を迎えに来たのだと。
姐さんはクミやアシャに目配せをする。
二人はうんと、うなづき、姐さんが目で指し示した少し離れた木の根本に移動した。
じゃがいもの入った籠と水筒を持って。
皆が移動した場所は二人の様子は窺えるがなにを話しているかは聞こえない距離。
クミは二人がどんな会話をするのかを知りたかった。
だから、なにもこんなに離れなくてもいいじゃないと、移動場所を選んだ姐さんに少し腹を立てた。
立ちつくす若い紳士と美しいが貧しい身なりの娘の姿はまるで恋愛を主題にした芝居の登場人物のよう。
これからどんなことかが起こるのかと、ミコ婆さんの下宿屋の女たちはワクワクしながら二人を見守った。
なぜここにルシファーが?とカリイナはひどく混乱していた。
驚いて血圧が上がったせいか耳の奥でクワァんと妙な音がする。
気がつけばいつのまにか下宿屋の仲間がいなくなっている。
「カリイナ…」と声をかけられてハッとする。
そうだ、私はもしルシファーと再び会うことができたらこうしようと思っていたことがあったと。
ぎこちなく立ち上がったあと、カリイナはそれを実行しようと試みた。
静かに微笑んで、私はここで幸せに暮らしているわ、私のことは心配しなくて大丈夫よ。だからルシファーもセシルと幸せになって、と言おうとした。
けれどうまくいかない。
顔の筋肉は硬直して微笑むことなんかできなかったし、突然カラカラになった喉からはなんの言葉も出てこない。
そんな彼女に前置き無くルシファーは告げる。
「カリイナ、僕はリンカと結婚することにしたよ」
さっきよりずっと大きい耳鳴りがカリイナを襲った。




