七つの海に春来たる(後編)
「事情はどうあれ暴力は賛成できませんねえ」
「ちゃんと手加減しました!身長差のせいでこぶしに体重が乗らなかったから」
賢人が嘆息した。
「そういうのは、“手加減した”とは言わないんですよ。大丈夫ですか、ええと、加藤くんでしたか」
はい、と腫れ上がった頬を隠しもせずに、美術準備室の大机に向かう椅子に座った加藤が頷いた。
「お騒がせしてすみませんでした。白石先輩」
「これ使って」
言いながら、夏樹が濡らしてきたハンカチを差し出すと、恐縮しながら受け取った加藤はそれを頬に当てた。
それを見届けてから賢人は少し顔をしかめて七海を向き直った。
「どんな事情かは知りませんが、暴力はだめですよサキちゃん。とりあえず、ちゃんと加藤くんに謝ってください」
むっと唇を突き出しながら、七海はそっぽを向いた。
「嫌です!そんな奴!」
「サキちゃん!」
何時になく語気強く言った賢人に、、思わず涙ぐみそうになりながら俯いた七海は、ぱっと立ち上がると加藤を指差した。
「だって、そいつ・・そいつっ!私の胸が好きだとか抜かしたんですよっ!」
は?!
「いや本当に呆然としたわ、どれくらい立ち尽くしてたか記憶にないわ。あれが本当の頭の中が真っ白になるって奴?!」
「いや、まさかねえ、・・・ねえ、加藤くん?」
「いえ、事実です。確かに申しました」
「いや、申しましたって・・きみねえ」
「ね?こいつおかしいでしょ?明らかに変質者じゃないですか!」
ばっと音がしそうな勢いで立ち上がった加藤が七海を指差し返した。
「どこが変質者だ!それのどこが悪いんだ!」
いや・・・
「いや、ちょっと待って、待って。いや、いくらなんでも加藤くんそれは・・」
「俺は嘘偽りなく自分の正直な思いを伝えただけだ!それのどこが悪いんだ!」
いや、とさすがの賢人もどこか呆然としたように、睨み合う加藤と七海の顔を見比べた後、加藤に手を伸ばした。
「いや、そうかもしれないが・・・女の子に対していくらなんでもそれはないんじゃないですか、加藤くん?」
ばっと振り返り賢人に正対した加藤は、腰から丁寧に頭を下げた。
「白石先輩のお噂はかねがねうかがっております!自分も、かねてよりいつかこのような素晴らしい先輩と親しくお話ができればと楽しみに思っておりました!しかし、尊敬する白石先輩の言葉とて、これだけは譲れません!自分、彼女の見た目が美しいから好き、とか、性格が愛らしいから好き、とか、そんなことは全く、微塵も思っておりませんっ!」
「おい、お前。自分が今何言ってるのかわかって喋ってるか?」
「自分の思いはそんな軽薄なものではありません!自分はただ、純粋に、彼女の大きな胸が好きなだけであります!」
「お前、本当に軽薄って言葉の意味分かってるのか?」
ま、まあ、と賢人が困ったような薄笑いを浮かべて加藤に向かって手を振った。
「まあ、落ち着いて。とりあえず座って話をしようか」
「そんな必要ありませんよっ!こんな変質者とっとと追い出しちゃってくださいよ!」
「黙れ!今白石先輩と話しているのは俺だ!貴様こそ黙っていろ。このチビ!」
ちょっと、ちょっと、と二人の間に割って入った賢人が二人を交互に見比べた。
「そんな言い方ないでしょ、加藤くん。そもそも、きみはサキちゃんのことが好きなんでしょ?」
いいえ、と加藤は確信を持って首を振った後、ムッとした表情でサキの顔を睨んだ。
「自分、暴力的な女も、長幼の序もわきまえす先輩に生意気な口を利く女も嫌いです。故に、そいつのことも嫌いであります!しかし」
ふっと優しい表情になった加藤は七海のある“一点”に目を向けた。
「彼女の胸は愛しております」
ぞくっ、と七海の体が震えた。
いや、座ろ、とにかく座りましょ、とさすがの賢人もやりにくそうになんとか加藤を座らせた。
はっ、と一々恐縮しながら椅子に腰かけた加藤の顔を見ながら小さくため息をついた賢人は、しばらく考えた後、加藤の顔を覗き込んだ。
「ええと、ちょっと確認したいんですけど」
「はい!なんなりと!」
ええと、とやりにくそうに賢人が頷いた。
「サキちゃんのこと、どう思っていますか?」
「大嫌いであります!」
「サキちゃんの、胸は?」
「世界一愛しい存在かと!」
「サキちゃんは嫌いだけど、その胸は好き、ですか。それ矛盾してませんか?」
「いえ、自分は、胸の大きな彼女が好き、なのではなく、彼女の大きな胸が好き、なのです。そこに矛盾はないかと」
「お前な、順番を変えただけでえらい違いだってわかって喋ってるか?」
ふ~む、とため息をついた後、賢人はふと顔を上げた。
「ええと、加藤くん。例えばですが、彼女」
と言いながら夏樹を指差す。
「あなたの目から見て、彼女はどう思いますか」
夏樹の“一点”に目をやった加藤は福々とした顔になって頷いた。
「素晴らしい先輩かと」
じゃあ、と賢人がその指を巡らして早希を指差す。
「彼女はどう思いますか?」
やあ、と早希がにこにこと手を振ると、加藤は不思議そうに首を傾けた。
「以前に、どこかで会ったか?」
「いや、会ってるだろが!毎日ゴリゴリに会ってるだろが!私あんたの前の席だぞ!」
そうか?と不思議そうに加藤が瞬きした。
「気づかなかった」
「おい!」
まあまあ、と薄笑いを浮かべた賢人が、気を取り直したかのように加藤を見た。
「彼女を見て、どう思いますか?」
は?と加藤が不思議そうに瞬きした。
「おっしゃる意味がわかりませんが」
「いや、彼女を見て、きみ、どう思いますかって聞いてるんですよ」
だから、と早希の“一点”を見つめた後、加藤は困惑したように賢人を見つめ返した。
「“ない”ものを見てどう思うかと聞かれましても」
「よ~し加藤!お前、あとから体育館の裏に来い!!」
ふ~む、少し考えた後、賢人が再び加藤を向いた。
「あなたにとってチイちゃん、ああ、彼女って、どう見えてるですかね?」
「どうと言われても・・・強いて答えるならば、男でないだけの何かの生物かと」
「よしわかった!今からわたしゃサキちゃんの味方であんた永遠の敵だよ!最初は面白かったけど、あんたの言葉は一々悪意あんだよ!同じ字でもセーブツとイキモノじゃ全然別物なんだよ!」
「もうっ、賢人さん、こんな奴と話するのなんてやめてくださいよっ!こいつ、ゴヤやムンクと一緒で頭が爽やかになりすぎちゃってるんですよ!」
「サキちゃん、その例えはどうかと思いますよ」
「ともかく、もうこんな変質者放っておきましょうよ!」
なにおうっ、と叫んだ加藤が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「俺に対する侮辱は耐えがたくも耐えよう。しかし俺の思いに対する侮辱は俺の愛するものに対する侮辱も同じ!」
「いつ私が自分の胸部を侮辱した?」
「ともかく謝れ!彼女に土下座して謝れ!」
「どうやったら自分の胸部に対して土下座できんだよっ!肉体の限界超えてるだろが!」
七海を無視して賢人を向き直った加藤は、再び賢人に向かって最敬礼した。
「自分は常に誠心誠意、自分の心に正直に生きることをモットーとしております。しかし、なかなか皆様には受け入れていただけない様子。どうか自分のどこが至らないのか御教導ください!」
ああ教えてやるよ!と叫びながら七海は加藤を指差した。
「お前は日本の情操教育の失敗作なんだよ!昔話で正直爺さんにばかりにいい目をみさせたから、お前みたいな極右の正直至上主義者ができあがったんだよっ!!」
あああっ、と絶叫しながら七海は髪をかきむしった。
「ああああっ、なんで私の周りに現れる“か”から始まる男はみんな変な奴ばっかりなんだあっ!!」
あ、と言った後、はい、と夏樹と早希が同時に小さく手を挙げる。
「私、他の“か”の人が誰かなんとなくわかっちゃった」
「私も」
「もうっ、二人とも黙っててよっ、これ以上私を追い詰めないでよっ!!」
まあまあ、とアハハハと困ったような薄笑いを浮かべた賢人が七海に向かって手を振った。
「サキちゃんもそう錯乱しないで落ち着いて。ちょっと、深呼吸でもして」
「絶・対・嫌・ですっ!!そいつと同じ空間で深呼吸なんてっ!!」」
まあまあ、とアハハハともう一度手を振った後、賢人は加藤を向き直った。
「まあ、あなたのその正直一筋という生き方には・・まあ、なんといいますか、尊重はできませんが、感心はします。けど、やっぱり今回のことはどうかと思いますねえ。サキちゃんの心情を思えば、気持ちを伝えるにも、なんというか、そう!もう少し手順というか、やり方があったのではないかと」
「はあ、恐れ入ります」
「褒めてねえよっ!」
「そこでちょっとお伺いしますが、あなた、ストレスとか、欲求不満とか、溜まっていませんか?」
はあ、と少し考えた後、加藤は力強く頷いた。
「その可能性は否定できません」
「そんなことまで正直に答えなくていいんだよ!ここまでくるとなんか可哀そうになってきたよ、お前」
「その同情がいつの日か愛に変わるんだよ、サキちゃん」
「チイちゃんは黙ってろ!」
「その欲求不満が爆発して今回の行動につながった?」
「さあ、自分ではそうは思えませんが、完全に否定する材料までは持ち合わせておりません」
ふうむ、と賢人は少し考えた。
「最近はネットで少し検索すれば様々な画像が見れますが、そういうのを使って欲求不満を昇華するということはできませんかねえ」
「賢人さん、学校!学校の教室!女子率高い空間で何言い出すんですか!」
「あ、私は気にしないから。続けていいわよ、賢人」
「わたしもー」
はあ、と加藤は頷いた。
「四人兄弟で弟と相部屋なもので。試みたことはありますが、やはり難しかったです」
「なんか生々しいなあ、それに試みたのかよ」
ふむふむと頷いた賢人は、にっこりと加藤に笑いかけた。そして『絵画鑑賞部』の扉を軽く顎で指す。
「ちょっと、あっちで話をしませんか、加藤くん」
はあ、と当惑したように加藤が立ち会った。
「もちろん構いませんが?」
「賢人さん。何するつもりですか?もうやめましょうよぉ」
「はっはっはっ、まあまあ、サキちゃん。いわゆる“男の会話”という奴ですよ」
ささっ、行きましょ、行きましょ、とタブレットパソコンを手に取った賢人と加藤の姿が扉の向こうに消えた。
それを見届けてから、一つため息をついた七海は夏樹と早希を順に見た。
「この間に、逃げ・・もう帰っちゃいます?」
いやいや、と何時になくニヤニヤと笑いながら夏樹が首を振った。
「私としては、最後まで見届けたい気分ね」
はいっ、と早希も元気よく手を挙げる。
「私も~~っ」
はあ、と深いため息が七海の口からこぼれた。
三十分後。
待ちくたびれ、適当に美術書を引っ張り出してきて眺めていた美術準備室の面々がドアノブの音に顔を上げ振り向いた。
はっはっはっ、笑いながら先に出てきた賢人が振り返ると、その右手を両手で取って伏し拝んだ加藤が瞑目しながら力強く言った。
「兄貴と呼ばせてください」
「はっはっはっ、まあ、頑張ってみてください」
はい、と最敬礼した後、加藤は廊下に通じる扉に歩きかけて夏樹の傍で立ち止まり、お騒がせしました、と丁寧に頭を下げ、早希の方を不思議そうに見、七海と目があうとそっぽを向き、そのまま美術準備室から出ると、廊下で振り返って賢人に向かってもう一度、ありがとうございました!と叫ぶように言った後扉の向こうに消えた。
「あれ、セーブツを見る目つきだったな」
「やっぱあいつムカつく!」
それで、と言いながら夏樹が賢人を向き直った。
「なんの話をしてたの。ここでは言いにくい話?」
いやいや、と言いながら賢人が楽しそうに手を振った。
「とんでもない。極めて健全な、単なる我々の本分の話ですよ」
我々の本分?
「胸の大きな女性の、できるだけ写実的で美しい絵を何枚か見てもらって、美術鑑賞にかこつければ、こういう絵を人前でも堂々と見れますよ、と教えてあげたんです」
こ、この人は・・・
「でも、そんな絵ばかり見ていては目的がばれてしまいますから、他のジャンルの絵10枚見る間に1枚くらいがいいと思いますよとか」
なんか慣れてね?
「他にも、誰でも一度は見たり聞いたりして知ってそうでいて詳しくは知らないような画家二三人と、絵も何枚かについて深堀りした知識を持っておいて、普段からそういうものに対するウンチクをさりげなく語るようにしておけば、お、こいつ絵が好きなんだな、と思わせることもできますよ、とか」
いいんだよ!そんな高等テクニックまで教えてやらなくても!
ふう、と加藤の去った扉を見た夏樹が小さくため息をついた。
「これで彼、少しは落ち着いてくれるかしら」
すすっ、夏樹に近づいた賢人が囁くように言った。
「部長と同じでブレーキ利かなそうなタイプだから無理だよ。気休めだね。サキちゃんには悪いけど、この後も楽しめそうだね、彼」
聞こえてるぞ、おいっ!