何をか思ふ
扉が開く音と共に響いた、はっと息をのむ音に振り返った賢人は、わずかに首を傾けた。
「こんにちわ、サキちゃん。どうしましたか?」
これ、と賢人が見ていたスクリーンを凝視しながら、七海はゆっくりと美術準備室に歩みを進めた。
「これ、誰が描いた絵ですか」
ほう、という表情で賢人がわずかに目を細めて微笑んだ。
「久しぶりですね」
「あ、え、何がですか?」
「その顔」
と言いながら賢人の微笑む目が更に細くなる。
「絵を見た途端サキちゃんがそんな顔をするのを久しぶりに見た気がします。確か前回は『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』を見た時、それ以来じゃないですかね」
そう言った後、賢人はスクリーンを振り返った。
「これはハンガリーが生んだ天才画家、ムンカーチ・ミハーイの『死刑囚最後の日』という絵です」
死刑囚・・と口の中で呟いた七海は歩みを進めるとスクリーンの前に立ってじっとその絵を見つめた。
「死刑囚って、この座っている男の人ですか?」
そうです、と賢人が頷いた。
「中央の上あたり、斜めに光が差し込んでいるのは朝日の光なのでしょう。処刑の日を翌日に控え、彼はその椅子に座ってまんじりともせずに朝を迎えたのでしょうね」
「死刑って、何の罪なんですかね。やっぱ人殺しとかですかね?」
「さあ、どうでしょうか。ほら、彼の視線の先に破り叩きつけられた聖書が落ちています。少なくとも彼は聖書の文字が読めるほどの教育を受け、なおかつ、神に救いを求めるほどの敬虔さは持ち合わせた人物なのでしょう。そこから連想されるのは凶悪犯ではなく政治犯という姿ですね、あくまでもぼくの想像ですけど」
ほら、と賢人は続けた。
「無残に破り捨てられた聖書が志半ばでこの日を迎えた彼の深い絶望を感じさせます。おそらく彼は信心深い人だったのでしょう。しかし、この神との契約の書は結局彼になんの救いももたらさなかった。信じていたものに裏切られた、という絶望感がこの聖書に現れていますね」
座りましょうか、という賢人の声に、七海は鞄を置いて椅子に腰掛けた。
そしてじっと大画面一杯に映し出された絵を見つめる。
そんな七海の横顔をどこか愛おしそうに微笑んで見つめた賢人は、そこで、そういえば、と瞬きした。
「ベアトリーチェの肖像画も、元々は死刑の前日に描かれたと言われていましたね。そういう絵に何か心惹かれるところがあるんですかね、サキちゃんは」
どうですかねえ、と七海はわずかに首を傾げた。
「自分では特段そういうつもりはなかったんですけど。けど、言われてみれば、一つだけ思い当たることが」
ほう、と賢人が頷いた。
「差し支えなければ」
賢人を向いた七海は、一瞬躊躇するかのように口を閉ざしたが、俯きながら口を開いた。
「父のことなんですが」
「お父さんですか?あの病気で亡くなられたという?」
はい、と俯いたまま小さく頷いた七海は、再び数舜逡巡するかのように口を閉ざした後、語り始めた。
「ずっと病院で寝たきりで、亡くなる数日前はほとんで意識はなかったんですけど、ある日突然目を開いてじっと天井を見つめたんです。意識が戻った、少しよくなったのかと思って声をかけても反応はなく、ただじっと天井を見上げたまま動かないんです。その翌日、父は亡くなりました」
あの時、とその口が小さくつぶやく。
「あの時、じっと天井を見上げながら父は何を考えてたんだろう、って、ずっとずっと思ってたんです。おそらく父は自分がもう間もなく死ぬとわかっていたんでしょうね。だから、確実な死を間近に控えた人は何を思うのか、と投げかけるような絵をみると思ってしまうのかもしれませんね。この人は今何を考えてるんだろうな、って。そして」
俯いたまま、七海は小さく鼻をすすりあげた。
「その最後の時に父は何を思っていたのかって・・ずっと・・・」
「サキちゃん・・・」
その時、開いたままになっていた扉がわずかに音を立てた。
「悪いとは思ったけど」
戸口に現れた早紀が静かな声で言った。
「話は全部聞いちゃったよ、サキちゃん」
静かに七海に歩み寄った早紀は、そっとその肩に手を置いた。
「私、サキちゃんのお父さんが何を思っていたか、なんとなくわかるよ」
え?
涙ににじんだ七海の目と、驚いたような賢人の視線が早紀を向く。
「そ、え・・それは何?」
「サキちゃんのお父さんは人生最後の時に」
早紀は七海に優しく微笑みかけた。
「どうやったら女子部員が絵画鑑賞部に入ってくれるか考えていたんだよ」
いや、と賢人が慌てたように叫んだ。
「いや、チイちゃん、いくらなんでもそれはないでしょ?冗談は言っていい時と悪い時がありますよ」
両手でがっちりと早紀の肩を掴んだ七海は早紀に向かって俯いた。その手にぐっと力が入り早紀の肩を握りしめる。
「さすが・・チイちゃんはわかってらっしゃる」
は?
顔を上げた七海は天井を見上げると目に浮いていた涙を拭った。
「ああ、悲しい気分いっぺんに吹き飛んだわ。確かに私の父ちゃんてそんな奴だったわ」
「だろ?」
ちょっと、と言いかけた賢人に向かって、何も言うなとでもいうかのように広げた掌を突き付けた七海は確信をもって頷いた。
「自分の高校時代のトラウマのために娘を人身御供に捧げるような奴なのですよ、私の父ちゃんは」
そーだ、そーだ、早紀も囃子を入れた。
「そしてサキちゃんはそんな父の娘なのだ」
「今のは怒ってもいい奴だよな?」
「怒ってもいいが、現実は変わらんぞ?」
閑話休題。
「この絵を描いた画家の名前ですけど」
じっとスクリーンを見つめた後、七海は物問いた気に賢人を見た。
「ムンカーチ・ミハーイですか?それがどうかしましたか?」
「なんか変な感じの名前ですよね、それ」
変な感じ?と不思議そうに言った後、賢人はすぐに、ああ、と頷いた。
「ハンガリーでは日本と同じでファミリーネームが先にくるんですよ。だから違和感があるんじゃないですか?」
ファミリーネーム?とわずかに眉をしかめて賢人の顔を見た七海は、すぐに、おおっ、と手を打った。
「ファミリーネームと言えば、コルリオーネ、とかですかね?」
「それもファミリーの名前ですが、それとは違うファミリーの名前です」
「じゃあ、モレロとかダキーラとか?」
「そういう意味の“違う”ではありません」
ため息をつきながら賢人はスクリーンを見た。
「一般的な西洋のファーストネームからの読み順にしてミハイル・ムンカーチだったらもう少ししっくりくるんじゃないですかね?」
「あ、そうですね、その方が自然な感じですね」
ところで、と早紀がスクリーンの前に立った。
「これはあれですか、やっぱりこの人死刑ですか?」
「そのようですね。既に刑執行の日の朝を迎え、間もなく執行される運命なのでしょう」
「ここ牢屋なんですかね、それにしては賑やかですが?」
「死刑の前数日間は、最後の面会ができる制度だったらしいですよ。この人々は男の家族や友人、近隣の人々なのでしょう」
この絵の、と賢人が続ける。
「この絵の描かれる四十年くらい前に書かれたビクトル・ユーゴーの『死刑囚最後の日』という短編小説があります。もしかしたらムンカーチはそこからイメージを得たのかもしれませんね」
「へえ、どんな小説なんですか?」
「死刑を控えた男の死刑に処されるまでの心情を一人称で書いた小説です。その中でも、男は最後に自分の3歳になる娘と面会しています」
「それって、この絵で右端の方に立って俯いている女の子のことですか?」
「どうでしょうか。ユーゴーの小説からこの絵が描かれるまで大分間が空いていますし関係ないだろう、という説を取る方も少ないないですからね。でも年齢的にはそれくらいの感じですね」
「泣いてるんですかね?」
「いえ、何かを食べているようにも見えますね。もしかしたら食事も喉を通らない男の余りものをもらって食べているのかもしれません。一家の働き手を失って彼女は常に空腹と共にあるのでしょう。父親の処刑という状況を理解することもできない年齢の彼女は、久しぶりの食べ物を必死に食べているのかもしれませんね」
「顔は見えませんが、うれしそうに食べている彼女の姿を想像すると余計に哀れを誘いますね」
「ユーゴーの小説の中でも、娘は髭だらけになった父を父親と認識できず、自分の父は死んだと彼に告げるシーンがあったと思います」
登場人物を見てみましょうか、と賢人がタブレット手に取り拡大した。
「まず、さっきの彼の娘ですね。こうして拡大してもやっぱり何かを食べているようですね」
「名前はミワさんですかね?」
「また怒られますよ。その背後で泣いているのはおそらく彼の妻でしょうね」
「そんな感じですね」
そして左側、と絵をスライドする。
「左から、籠を下げた少女は彼の家の近所で下働きでもしてるのでしょうか、その隣は」
「なんかヤバそうな感じですね。今にも服を脱ぎ捨てて彼を助けるためになんかやらかしそうな感じで」
「身なりは決して良くはありませんが、なにかいかにも頼りになりそうな男性ですよね。彼の友人か、同士ででもあるのでしょうか。彼からは激しい怒りが感じられ、サキちゃんの言うとおり今にも何か行動をおこしそうな雰囲気ですね」
そして、とその手がタブレットを撫でスクリーンの画面がわずかに動く。
「この高齢の女性は彼の母親でしょうか。どこか立っているのがやっとに見えます」
「抱き締めて支えているのが彼の弟かなんかですかね」
早紀の言葉に、おそらくそうでしょうね、と賢人も頷いた。
「壁際の兵士も彼に同情を禁じ得ないのでしょうか、帽子を目深にかぶって、見ないようにしているようですね。牢の警備などエリート兵士のする仕事ではありませんから、おそらく彼も貧しい生まれで、死刑囚の彼やここを訪れている人々に近しい生い立ちかもしれませんね」
そこで賢人は突然、さて、と口調を変えた。
「一とおり見終わったところで、お二人に質問です。この絵、何か変ではありませんか?」
は?
例えばですが、と賢人は件の男を指差した。
「普通は、死刑になる者は最後の別れに牢を訪れた者と握手をしたり抱き合ったりして、精一杯強がった姿を見せるものだったそうです。しかし彼はどうでしょうか、じっと俯いてまんじりともしない。泣きじゃくる妻を背後から労わることもしない。彼はもう牢を訪れた人の前で気勢を張る気力さえ失ってしまったのでしょうか?いえ、そうではありません、粗末なテーブルの上に置いた手は彼の内心の怒りを表すかのように強く握りしめられ、その表情も険しい。彼から感じられるのは憤怒と言ってもいい怒りです。理不尽に自分に訪れようとしている死へのそれは激しい怒り。それほどの気力を感じさせながら、彼は何故誰も居ないがごとく独り俯いているのでしょうか?」
あ、と七海が小さく声をあげながら、小さく手を挙げた。
「もしかしてこれ・・・本当に彼以外誰もいないんじゃないんですか?」
は?と眉根をしかめながら早紀が七海を振り向いた。
「何言ってるんだ?いるだろが?」
実は、と賢人が嬉しそうに小さく拍手した。
「ここはサキちゃんが正解です。実はこの絵、実際にここにいるのは死刑囚の彼だけではないか、という説があるんですよ」
早紀は、まだ意味がわからないという顔で賢人を見る。
「ほらよく見てくださいよチイちゃん。この部屋って、独房にしては広すぎると思いませんか?ここにいる人々は彼の思い出の光景なんですよ。少年は親方のところで修行していた徒弟時代の自分、籠を下げた少女は初めてあったころの妻、老女とその息子は父が死んだ時に母を抱き締めて慰めていた自分、赤ん坊を抱いた女性は子供が生まれた頃の妻、そして信頼しあった友人達。彼は独房の中で一人俯いて激しい怒りに身を焼きながらも走馬灯のように自分の人生を振り返っているのではないでしょうか。そして、妻は今頃泣いているのではないか、娘はひもじい思いをしていないか、と」
あ、と早紀も頷いた。
「なるほど、そう言われると、なんで彼が誰もいないかのように独りで俯いているのかわかりますね」
それで、と早紀は頷いた。
「それでもやっぱり彼はもう助からないんですよね」
さあ、と賢人は首を振った。
「この絵からはなんとも言えませんね。ただ、逆転一発で、処刑のその日に恩赦、とは多分ならないでしょうね。ユーゴーの小説の結末もはっきり覚えていませんが、確か刑場まで引き出され、執行の時間が訪れる、みたいな終わり方ではなかったでしょうか。刑が執行されたかどうかは書かれていなかったような」
さて、と言わんばかりに賢人が再び口調を変えた。
「この絵はサロンで金賞を取り、彼は一躍人気画家になります。これだけ反骨的な絵を描いていた彼ですが、上流階級の人間との交際が増えるにつれ、彼の作風は金持ち好みのものに変わっていきます」
あらら。
「こんな荒々しい絵で成り上がった彼ですが、実は繊細な人間だったようですね。自分の絵はこれでいいのかと悩んだかどうかは定かではないですが、徐々に精神を病んでいき、最後は五十代半ばで病死しています」
「病死ですか」
言いながら、七海は再び絵の中の睨みつけるような目で沈思する男を見つめた。
「ムンカーチは、死期を悟った病室のベッドの上で、人生最後の時に何を思ったんでしょうね?」
「ぼくも今、同じことを考えていました」