9 十三歳
「なので、内緒話は夜以外にしませんか?」
本日の習い事は全部終わって、家庭教師の先生は既にお帰りになられた。今日はナツはお休みなので、傍にいるのはファルサだけ。この後は出かける予定もないし、お客様を招く予定もない。
とても平和な昼下がり。
考えなければいけないことは山のようにあるけれど、だからといって根を詰めればいいというものではない。人には休息が必要だ。
「リゼッタ様のお考えは理解しましたが、それは少々難しいのではないかと思います」
「何故?」
「貴方の時間を独占するのは、貴方が考えているよりも難しいことなのです」
どういう意味だろう?
確かに私は侯爵令嬢という身分を持っているので、子どもとはいえ相応の働きをしなければならない立場にある。なのでそこそこ忙しい。勉強を疎かにしたことはないつもりだし、お茶会や舞踏会という社交の場にも出来るだけ出席するよう心掛けている。常に淑女として礼儀を忘れず、ダンスの練習も手を抜いたことはない。
ついうっかり昔の世界と比較してしまって面倒だなと感じることもあるけれど、逃げたところで意味はないのだ。この世界の常識に反発したとして、だからどうなるというのか。
我儘を言ったとしても多少は叶えてもらえる環境にあるけれど、それは私の力や功績ではなく、全て父のものだ。もしくは、代々受け継がれてきた家に付随するもの。つまり、家名が失ければ私はただの無知で無力な子どもということだ。例えば家から放り出されてしまえば即日野垂れ死ぬ自信しかない。
郷に入っては郷に従え、なのだ。それに、子どもが無知なのは当たり前だという常識はこちらでも変わらない。なら、今のうちにいろんなことを知っておきたい。
だからこそ、やるべきことはちゃんとやる。
おかげで嫌なものを見ることもあるし、嫌な目で見られることもある。
知りたくないことを知る機会も以前より余程増えた。
可能なら逃げ出したい場面なんていくらでもある。悪しざまに罵って殴り飛ばしてやりたい相手だって何人いることか。両の指では全然足りない。
けれど私は侯爵令嬢なのだ。
シオル侯爵令嬢のプライドにかけて、絶対に微笑みは崩さない。
そんな張りつめた時間ばかりではどう考えても身体に悪いので、私はそれなりに休みを取るようにしている。
それは、一人で本を読んでいる時間だったり、こうしてお茶をいただく時間だったり、気を許せる友人との穏やかな語らいの時間だったりと、様々だ。中にはファルサとこうしてふたりでいる時間も含まれているのだが。
確かに昼間は人の動きが活発なので発言には気を付けなければならないが、でもそれはそう難しいことでもないだろう。
そんな突然厄介事が舞い込むような立場にはないのだし。来客だって突然訪れることは稀だ。
だから、なにもない日はなにもないに決まってるではないか。
そこに、まるでタイミングを見計らったかのようにふたりの間を割って響くコンコンとノックの音。
「はい」
応えつつファルサを見ると、ほらみろ、と言わんばかりの目をしていてちょっといらっとした。
「リゼッタ、今少し話をしてもいいか?」
「あらお兄様。勿論構いませんよ、どうぞお入りになってください」
「ああ。―――ファルサもいるな、ちょうどよかった」
ソファから立ち上がろうとしたリゼッタを手で制して、傍に控えるファルサに視線を向ける。
彼女は静かに一礼し、兄の分のお茶を用意するため一度退室した。とはいっても、扉は少しあけたまま。兄妹とはいえ未婚の男女がひとつの部屋にふたりきりになってはならないからだ。
「お座りになってくださいな。彼女に用事ですか?」
「彼女、というよりは、彼、だな」
おや珍しい。
この場合の彼とは、男の方のファルサのことだ
兄は兄に仕える従者がいるのでいつも外出する時はその方を連れているのだが、どうやらそれでは対応しきれないような何かあったらしい。
というか、暇な時間がないのってむしろ私ではなくてファルサの方ではないかしら。
ふとそんな疑惑が脳裏をちらついた。
「どちらかにお出になられるのですか?」
「叔父上の領地に行くことになった。移動と合わせて二週間を見込んでいる」
それはまた随分と急な話だ。
「彼を連れていくということは、なにか心配事があるということですか?」
「少しな」
ファルサは、あの人はとても強い。剣も術も人並み以上に使いこなす。そして博識だ。
本人はただ長生きしているだけと言っていたけれど、それだって本人の実力の内。結果があるということは努力したということだ。
そのため、どんな場面でも非常に上手く立ち回る。
貴族の茶会でも、街の喧騒にも、賊にも、涼しい顔で当然のように対応してみせる。
侍女としてはとても有能だ。
しかし、彼女は普通の人間ではないので、警戒も忘れてはいけない。絶対的な味方であるという保証はどこにもないのだから。
「失礼いたします」
隙のない美しさはでファルサが微笑んだ。
「四日後から二週間、ですか」
兄は四日後から二週間の日程で叔父の領地へ向かうらしい。目的は、領地へ向かう途中に出没するという賊の確認。可能なら捕縛すること。相手の出方によっては命のやりとりに発展する可能性もあるそうだ。
本来なら騎士団や兵士の仕事なのだが、どうやら他國から入ってきた集団らしいということで兄に白羽の矢が立った。最近兄は外交部の長である父の仕事を習いはじめたので、その一環ということなのだろう。
「何か気になることでもあるのか?」
「リゼッタ様は十日後にマーゴット公爵夫人主催のお茶会に招かれております」
あーあ。
出来ればぎりぎりまで忘れていたかったのに。ファルサはいつも容赦なく現実を突きつけてくるのだ。
それを聞いて、しまった、と珍しくもあからさまに顔色を変えた兄。
私がマーゴット公爵夫人に目の仇にされていることを知っているからこその反応だ。タイミングの悪さにこちらの方が申し訳なくなってしまう。
兄も姉も、というか家族は皆私とマーゴット公爵夫人との関係の悪さを知っている。どころか、社交界でも周知の事実となっているほど、あからさまに対立……というか嫌われている。
そもそもの始まりは、彼の公爵夫人が第一皇子と対立関係にあることだろう。そしてそれとは別に、侯爵令嬢の身分にありながら騎士の道を歩く姉のことも恥知らずと嫌悪している。女は着飾らなければ女ではなく、美しさを保ってこそ価値がある。という考えを持たれている方なので、もうなにもかもが噛み合わない。
そんな、嫌いと嫌いの相乗効果のようなカップルではあるが、腐っても第一皇子とその婚約者。変なことを言えば不敬罪に問われるのは自分だと理解している夫人は、嫌がらせの標的を私に絞ってくれたのだ。女ってどこの世界でも変わらないなと逆に安心してしまうほど、周到に的確な仕込みをしてくれる御方がマーゴット公爵夫人だ。高貴なる身分のくせに無駄に手が込んでいるのが逆に凄い。
現皇の姉であり公爵夫人という身分にあるバーバラは、その経歴も褒め称えたくなるほど素晴らしいものだったりする(噂だけど)。
当時公爵子息だったアレクシス様(現在は公爵の地位につかれています)に一目惚れしたバーバラ様は、皇女という権力を駆使して彼の婚約を破棄に追い込んだそうだ。そうして強制的に空位に舌婚約者の席に当然のように座ったらしい。
そんなバーバラ様をアレクシス様は大変嫌悪したらしいが(そりゃそうだろう)、しかしそれを破棄する程の力は当時のアレクシス様にはなく、受け入れる以外の選択肢がなかった。
だが。
バーバラ様の我儘につきあっているうちに、なんとアレクシス様はバーバラ様つきの女官(男爵令嬢)と恋仲に!
それを知ったバーバラ様は、すぐにでも自分を第一夫人にし、最低ふたりは子どもを設けること、公の場では必ず自分を優先すること、自分の要望は最優先で叶えること、等々の条件をアレクシス様につきつけた。しかし、その全てを約束できるなら男爵令嬢を第二夫人にすることを認めるとあっさりと己の懐の広さを見せつけた。ただし、拒絶するならその男爵令嬢を他國の好色爺に売り飛ばすとも仰ったそうなので選択肢はあってないようなものだ。
結果、アレクシス様も男爵令嬢もそれを受け入れて、今でもその関係が維持されている。
最大の利益を追求しつつ、多少の不利な状況は飲み込んでみせる度胸。
初めて聞いたときはある意味凄いなと心の中で絶賛したのだが、夫人の人となりを知った今となっては公爵の恐ろしさの方が際立って見える。
さも当人が優位にあるように錯覚させて男爵令嬢の安全とその身を手に入れた公爵の手腕! 本気ですごいと思う。
だって、あの、我儘で、尊大で、他人を虫けらにしか思っていないような御方に、なのだ。公爵がいかに恐ろしい人なのか、とてもよくわかるエピソードだ。
と、これが社交界で実しやかに囁かれている話だ。
まあまあ嘘くさい。そういうどろどろした物語だと思うとなかなか面白そうではあるけれど、色々と出来すぎていて胡散臭い。この手の噂は絶対に隠さなければならない真実を隠す為にあえて大げさに作られるものだから、なにかはあったのだろうけれどほぼ嘘だと捉えておいた方が安全だ。
が、なかには私でもわかる真実がある。少なくとも、バーバラにふたりの子どもがいることは紛れもない事実だ。ただし、第二夫人にもお一人いらっしゃるけれど。
個人的にうわぁと思ったのは、第一夫人であるバーバラの二人目のお子さまと、第二夫人のお子さまが同い年というところだ。しかもどちらも女の子。母親違いの姉妹だなんて、母親同士の確執がなくとも大変だろうにと、この話を聞いた時は心底同情した。勿論、第二夫人のご令嬢に、だ。
ちなみに同い年の子どもが産まれるという事実に、さぞやバーバラはお怒りだろうなと思ったのだけれども。意外や意外。その事に関して彼女はこれといって何も言わなかったそうだ。
約束を守っている以上反論の権利はないと引いたのか、とそのプライドの高さに驚いてみたが、そんなことは全然無かった。
だって彼女にとって、そんなことは心底些末なことでしかなかったのだ。
そもそも彼女が公爵に求める価値は、自分を着飾らせるための最上で最高で美しい道具であること。それだけだったのだから。彼女にしてみれば公爵ご本人も引き立て役でしかないということ。
まあ、これは私が直接バーバラに聞いたことではないので真相の程は不明だが、少なくとも私は彼女をそういう人間だと思っている。
美しい物が好きで。
美しい自分が好き。
自らの定義する美しい者の枠に嵌る人も好き。
それ以外は羽虫も同然。いや、石ころに等しいというべきかもしれない。そこにあっても誰も気にしない、ただそこに転がっているだけの石ころ。そういう感じ。
あの人はそういう目で他人を見ている。
その中でどちらにも分類されない例外が、あの人の定義する醜いものの定義に入る人間だ。
姉とか、私とか。他にも何人か、バーバラに目を付けられてしまった同類がいる。
そんな面倒で高貴な方が主催するお茶会が、十日後にあるのだ。そして何故か私も招待されている。
どう考えても和やかになるとは思えないそれが、今の私にとって一番逃げ出したい現実だった。出来ればなかったことにしてしまいたいくらいだ。