明智の煙
六月二日早朝――山城・鳥羽。
東の空は、白み始めていた。
朝焼けが綺麗な朝だった。
男は馬上から北の方角を見続けていた。
明智光秀の本隊八千は、鳥羽に待機していた。
(まだか…)
焦燥だけが胸の内で膨らんでいく。
そんな時――
兵から「おっ……!煙にござる!」という声が上がる。
本能寺の方角に白煙が立ちのぼり、やがて灰色へと変わっていく。
「早馬を出せ!」
「はっ!」
光秀の近習が鎧の音を立て近づく。
「左馬之助に伝えよ。――御館様、ご無事にあられるかと!」
近習は馬上の光秀を見上げ、大きく頷くと、駆け去っていった。
***
六月二日早朝――山城・唐櫃越。
斎藤利三、明智左馬之助の先鋒二千は遅れていた。
山間の唐櫃越は、長雨のせいで道がぬかるみ、倒木も多く、進軍は思うようにいかなかった。
ようやく京に到着したのは、夜が明ける頃だった。
利三と左馬之助は、本能寺から立ちのぼる煙を見つめ、太い道を駆け抜けていく。
「急げ!」
騒ぎを聞きつけた町人たちが沿道に溢れ、明智勢を奇異の目で見送っていた。
左馬之助は、その空気の変化を敏感に感じ取っていた。
「……なんということだ」
左前方に見える寺を見据え、手綱を強く握りしめた。
紅蓮の炎が本能寺の本堂を包み、崩れ落ちる音が響いていた。
左馬之助は堪えきれず馬を降りた。
「お止めくだされ!」
馬引きが必死に腕を掴み、止めようとする。
「どけ!」
左馬之助は振り払うと、本能寺の正門――
東門へ駆け寄った。
門前の水堀には橋が架かり、その両脇には織田家の小姓と思しき若者たちの亡骸が浮いていた。
左馬之助は瞼を強く閉じた。
(すまぬ!)
中に入ると、烈火が轟々と燃え盛っていた。
遺体を踏まぬよう、一歩ずつ進んだ。
倒れ伏した者たちの旗指物を見て、左馬之助は息を呑んだ。
(……桔梗紋だ)
左馬之助は、異様な大きさの旗指物に気付いた。
(……違う!こんな大旗では動けぬ。それに新しすぎる……)
左馬之助は、倒れている遺体を検分する。
鎧も新しく、その下から覗くのは武士の服ではなく、僧衣だった。
「くっ……!」
背筋が冷たくなる。
(……我らの軍勢ではない)
左馬之助は立ち上がり、周囲を見渡した。
動く者は一人もいなかった――。
縁側へ続く石廊下には、遺体が折り重なるように倒れていた。
明智の旗指物を付けた者、
軽装で刀槍を握った織田の小姓たち。
左馬之助は力が抜け、呟いた。
「……間に合わなんだか」
ガタガタと大きな音が響き、本堂の屋根が中央に吸い込まれるように崩れ落ちた。
背後に気配がし、肩を叩かれた。
斎藤利三であった。
「この燃えようでは……御館様は……」
利三は、言葉を失った。
左馬之助も深く息を吐いた。
そこへ馬を飛ばし、一人の兵が駆け込んできた。
物見(偵察)だった。
「……申し上げます!二条御所が襲われております!」
利三と左馬之助は、互いに視線を交わした。
「……信忠様か」
左馬之助が呟き、
「……今度こそ、逃がしはせぬ」
利三の目が鋭く光った。
***
利三・左馬之助の先鋒隊は、兵二百を本能寺の護衛に残し、残る千八百が二条御所へ駆けた。馬に乗る者は一人もいなかった。誰もが鎧を鳴らし、駆けていた。
本能寺から二条御所まで、その距離、約一キロ。男たちは通りいっぱいに広がり、鎧の音を大きく立て進んでいた。もう隠密など求められぬ勢いだった。
ドンッ!ドンッ!
火縄銃の音が近づき、低く立ち込める煙が見えた。
――もうすぐだ。
視界が開けた瞬間、利三と左馬之助の足が止まった。
二条御所の正門が開いていた。
明智正規軍とは違い、異様なほど大きな旗指物が視界に飛び込んでくる。
攻め手の偽明智軍は正門に群がり、織田勢と激しい接近戦を繰り広げていた。
守り手は水堀にかかる橋を死守しようと、必死だった。
利三と左馬之助は、通りの左右に鉄砲隊を配置させた。
同時に、竹筒を束ねた弾除けの盾を前に立て、その背後に鉄砲隊を構えさせた。
「よいか!奴らは我らにあらず!撃て!」
利三の檄が飛んだ。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
「放て!」
左馬之助も鉄砲隊に命じ、火花が走った。
バンッ!バンッ!バンッ!
門前で鎧を着た兵が次々と倒れていた。
その時――
シュッと鋭い音が、左馬之助の耳をかすめていった。
反射的に弾が飛んできた方角に視線を向けた。
「……あれは」
左馬之助は、言葉を失った。
二条御所の四方は、幅5メートルほどの水堀と、高い塀で覆われていた。防御が高いため、攻め手は隣接する屋敷の屋根に登り、そこから御所内を射撃していた。その数だけで十数名いた。そのうちの何人かが、正規明智軍の存在に気づき、撃ってきたのだ。
(……違う!あの距離で正確に撃つのは、残党などではない!)
左馬之助は自隊に叫んだ。
「屋敷の上を狙え!」
ドンッ!ドンッ!
「続けよ!」
その時、門口から「引け!」という声が響いた。
利三と左馬之助がそちらを見る。
門を守っていた織田勢が下がり、その奥に現れたのは――信忠隊の鉄砲隊。
「……なに……!」
二人は同時に息を呑む。
銃口の向きは、明智の鉄砲隊へ向けられていた。
「放て!」
バンッ!バンッ!バンッ!
信忠勢の弾が、正規明智軍の弾除けに乾いた音を響かせた。
正確無比な射撃だった。
「待て!!我らは味方だ!!」
左馬之助は、そう叫び、両手を大きく振っていた。
だが、ほぼ同時に――
利三の鉄砲隊も発砲した。
正門へ向けて撃ち返していた。
「やめよ!利三殿!!」
左馬之助は再び叫んだ。
左馬之助は耐えきれず、鋭い眼光で利三へ詰め寄った。
「やめよ!味方だ、利三殿!」
左馬之助は背後を振り返り、一瞬ためらった。
(どうすればよい……どうすれば我らと気づいてくれよう……)
「よいか!側にいる者の旗指物を抜け!今すぐじゃ!」
正規明智軍の兵たちは、互いに顔を見合わせた。
そのような命を受けたことは、誰一人としてなかった。
「急げ!」
その号令で兵たちは次々と旗指物を引き抜いた。
もう左馬之助は迷わなかった。
刀を抜き、高く掲げた。
「ついて参れ!」
左馬之助は勢いよく駆け出した。
兵たちも左馬之助に遅れまいと走り出す。
利三も刀を抜いた。
「行くぞ!」
男たちは正門へ雪崩れ込んだ。
正規明智軍の勢いは凄まじく、旗指物を付けたままの兵たちは行き場を失い、立ち尽くしていた。
「我は、明智左馬之助秀満じゃ!」
利三も刀を掲げ、声を張った。
「斎藤内蔵助利三!信忠様を御救いに参った!」
二人の叫びは、信忠守備隊にはっきりと届いた。
守備隊の銃撃は止み、「おおっ!」と鬨の声が返ってくる。
時を同じくして、御所内から火縄とは異なる破裂音が、バンッ!バンッ!と響き渡った。
次の瞬間――
炎が一気に広がり、板や襖を包んでいった。
それが至るところで起き、御殿の正面戸口は、瞬く間に火の海となった。
左馬之助と利三は、残党と刀を交えながら、その光景を見ているしかなかった。
(……あれは、雑賀衆のやり口よ)
十年に及んだ石山本願寺との戦いが、二人の脳裏に甦る。
(我らは……いったい誰と戦っておるのだ!)
左馬之助は一人、また一人と敵を斬り伏せ、御殿の方へ向かった。
だが、正面は火の壁と化しており、もう奥へは進めない。ならばと右へ回ろうとするが、夥しい遺体が折り重なり、道を塞いでいた。
ふと視線を感じ、顔を上げた。
隣の公家屋敷の屋根に登った男と、目が合った。
次の瞬間――
左馬之助は、ふわりと舞う煙を見た。
カンッ――。
乾いた音が鎧の胴を叩き、左馬之助は後ろへ倒れ込んだ。
「左馬之助!」
利三が駆け寄り、左馬之助の体を門外へ引きずり出そうとした。
「大事ない!利三殿……南蛮鎧よ!」
利三は胸を撫で下ろし、怒鳴るように言った。
「心配させるな!」
だが、その時――
左馬之助の視界の先に、門番らしき男の亡骸があった。
首には刃物のようなものが深々と刺さっていた。
左馬之助は立ち上がり、その刃をそっと抜き取った。
手のひらに収まる、棒状の鋭利な刃物だった。
(……忍びの者か……!)
利三と左馬之助は、御殿に入りたかったが、火勢が強く、近づくことすら叶わなかった。
奥からは人の悲鳴のような、柱や天井が崩れ落ちる音が響いていた。
利三が左馬之助の肩にそっと触れた。
「もはや信忠様も……」
それ以上、言葉が続かなかった。
「左馬之助……」
利三が声を掛けるが、左馬之助は、その場から動かなかった。視線の先には、一人の男の亡骸があった。鎧も着けず、軽装のまま倒れていた。
首に銃弾を受け、顔に血しぶきが散っていた。
「……貞勝殿よ」
そう言うと、左馬之助はその場に崩れ落ち、膝をつき、涙をこぼした。
「……申し訳ございませぬ!」
貞勝の手から刀を外し、両手をしっかりと握りしめた。




