エピローグ
瓦礫の上で、アンジュはしばらく息もできずにいた。
胸が痛くて、腕も脚も、どこがどう痛いのか分からないくらい、全身がじんじんと痺れている。
口の中に広がる鉄の味を、何度か唾と一緒に飲み込んで、ようやく少しだけ呼吸が整った。
顔を上げる。
空は、もう明るみかけていた。
その薄明の中を、黒い影が四つ、遠ざかっていく。
ヘルキャット。
マスタング。
ドーントレス。
サンダーボルト。
未練を引きずるように、こちらを警戒しながら、海の向こうへ引き上げていく。
「……たす、かった……?」
声に出してみても、現実味がなかった。
「アンジュちゃん!!」
たどたと軽い足音が駆け寄ってくる。
アンジュが声の方向に顔を向けるより早く、千早が瓦礫を飛び越えてきて、その場に膝をついた。
「だだだだ、大丈夫!?
どこや、どこ痛い!?いや全部痛そうやけど!!」
あわあわとした手が、アンジュの肩や頬のあたりをうろうろして、どこに触っていいのか分からないまま空を切る。
アンジュは、そんな千早の慌てぶりを見て、少しだけ笑った。
「……千早さん……生きてる……?」
「生きとるわ!うちを誰やと思てんねん」
言い返してから、千早はすぐに眉を寄せた。
「ちゃう、今はアンジュちゃんの方や!立てるか? 無理やったら担ぐで!」
「……担げるんですか」
「あたりまえや。まかしとき」
胸を張った、その調子が、ひどくいつも通りで。
アンジュはそこでようやく、本当に終わったのだと、少しだけ実感した。
裂けた外板に、めくれ上がった鋼材。むき出しの格納庫脇の区画。
そこかしこに散乱する機材とひしゃげた構造物。
「…………どうするんだろ、これ」
アンジュは、ぽつりと呟いた。
――――
信濃は、しばらく自分がまだ海の上に立っていることすら、よく理解できていなかった。
目の前の景色が、妙に遠い。体中が痛くて、もう指一本動かせそうにない。
海は黒く、空は白み始め、焼けた鉄と火薬の匂いだけが、やけにはっきりと分かる。
生き残ったのか、自分は――実感がない。
「お姉さま……」
かすれた声。
次の瞬間、細い腕が、信濃の身体を強く抱きしめていた。
「……っ、よかった……よかった……!」
グローウォームだった。
あれほど気を張っていた彼女が、いまはもう堪えきれなくなったように、信濃の肩へ顔を埋めて泣いていた。
震えている。
信濃はしばらく、その重みを受け止めることしかできなかった。
それから、おそるおそる、片方だけなんとか自由の効く腕を上げて、グローウォームの背へ回す。
「……どうしたの、あなた、こんなに泣き虫だったかしら」
「お姉さまが死にかけたのですわよ……!」
「そうね……」
その時、不意に、あの女の言葉が蘇る。
最後の最後まで、生き延びることを諦めてはいけない。
それは仲間への信頼を捨てることと同義だから――。
「……まったく」
信濃は、力なく苦笑した。
「いけすかない女ね」
「え?」
「いいえ、こちらの話よ……」
仲間は必ず助けようとする。
たとえ間に合わなくても、来られなくても、それを信じることをやめてはならない。
信濃は目を閉じる。胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……帰りましょう。
実は、全身痛くて、もう一歩たりともここから動けそうにないの。
肩をかしてくれるかしら?」
「はい、ぜひ!」
涙声のまま、グローウォームが力強く頷いた。
信濃は思わず小さく笑った。
その時だった、通信回線が、割れんばかりの勢いで開いた。
≪はーーっはっはっはっは!!!≫
場違いなほど豪快な笑い声が、夜明けの海に響き渡る。
≪お前ら、よく持ちこたえたなぁ!!
敵はこの私の圧倒的な存在感に怖れをなして逃げ去った!!!!
喜べ!!我々の勝利だぁあーっはっはっはっはっはーーー!!≫
信濃とグローウォームの身体に、瞬時に疲労感が押し寄せ、表情が止まった。
≪アホか!!おっそいねん!!
もうちょっとで逝ってまうとこやったやないか!!ボケ!!≫
一泊も置かず、千早の通信が重なる。
≪はァ!?アホとはなんだ、アホとは!!≫
「……はぁ…」
「………帰りましょうか」
朝焼けの海に、疲れた二人のつぶやきだけが残された。
――――
海の向こうでは、三隻と四機がなお離脱を続けていた。
空は白み、夜は薄れていく。
緊張がほどけたせいか、エセックスは大きく息を吐いて、そのまま海面すれすれにだらしなく姿勢を落とした。
「もー、最悪。あとちょっとだったのにぃ……」
「……本当よ」
ドーントレスが低く応じる。
「でもまあ、生きて帰れたんだからよしとしようぜ」
サンダーボルトはそう言ったが、声の奥には悔しさが滲んでいた。
「シャワー浴びたいにゃ……煤と汗でべっとべとにゃ……」
ヘルキャットが耳をぺたんと倒してぼやく。
「わかるー……あたしも早くお風呂。ていうか服も変えたい。全部くさいし」
エセックスは心底うんざりした顔で、自分の袖を引っ張った。
そして、その傍ら、レキシントンが控えめにほほ笑む。
「大丈夫?」
妹の気遣う
「……ええ、なんとか」
レキシントンの顔色は良いとは言い難いが、自力航行が不可能なほどではなかった。
だが、そんなレキシントンよりも深刻な症状の人物がその場にはいた。
ニューポート=ニューズである。
額に浮かぶ玉の汗、微かに乱れた呼吸、青ざめた頬。腕を押さえて必死に自制しようとしているかのような、不自然な態度。
「ニューズ?」
それに気づいたエセックスが怪訝そうに声をかける。
返事がない。
ニューポート=ニューズは、自分の右手を見ていた。
指先が、わずかに震えている。
肩から腕にかけて、何かが這い回るような嫌な痺れ。
艤装を通して繋がっているシステムが、妙なノイズを吐き続けていた。
「……エセックス…」
低く漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
ニューポート=ニューズは、ゆっくりと息を吸い、艤装の停止手順に入った。
「どうしたの?」
「……ごめん…システム、ダウンさせるわ」
「え、なに?システムダウンって、今!?」
≪どうしたの?≫
マスタングが異変に気付き、上空から旋回してくる。
≪ごめん、誰か…後をお願い≫
なんとか絞り出して、意識をつなぎとめる。
このまま艤装を繋いでいるのが、どうしようもなく気味が悪い。
砲門が閉じ、装甲がほどけ、海の上を走る力が消えていく。
最後に残ったのは、ただの華奢な少女の身体だった。
海の上には、もう立てない。
ふらついたその身体を、反射的にエセックスが慌てて支える。
「ちょっ、危ないってば!ああ、ちょ、重い」
「失礼ね…」
「なに、急になによ!?あんた、ちょっと、変だってば大丈夫なの!?ねぇ」
そう言いながらも、エセックスはしっかりとニューポート=ニューズの身体を抱き寄せた。
ニューポート=ニューズは、そのまま苦しそうに身体を預ける。
意識は辛うじて失っていない。
視線の先には、遠ざかる西の海。
薄明の向こうに、まだあの立ち上った光の残滓が焼きついている気がした。
最後の力を振り絞り、ニューポート=ニューズは、震える唇で、上空のサンダーボルトへ向けて呟いた。
≪……ごめん、サンダーボルト≫
≪え、あたしか?≫
≪わたしのCICが……あなたを、敵だと認識してる……≫
そう言い終わると、ニューポートニューズはエセックスの腕の中でついに意識を手放した。
その一言を最後に、誰もすぐには言葉を返せなかった。
「な、なんだってのよ…もう…」
エセックスの不吉なつぶやきだけが残された。
一章完結しました。
読んでくださった方、ありがとうございました。




