35◇幸福
闇に紛れる黒を着た男たちは、エミーリエに近づくと手首をつかんで吊るし上げた。腕が抜けそうなほど乱暴に。
「っ……」
苦痛に顔を歪めると、その男たちの一人が言った。
「この制服はカーライル騎士のもの。この娘は騎士なのでしょう」
「それにしてはただの娘にしか見えん」
「負傷しているようですね」
「さっき、人が落ちたような悲鳴がありましたよね。この娘のものでしょうか?」
「上から落ちていたらこんな程度の怪我で済むか。先行した偵察の一人というところか。こんな小娘ならば、痛めつければ情報を漏らすだろう」
血が出ている脇腹よりも手首がちぎれそうに痛かった。
さっきのように飛ぶことができるだろうか。こんなにも強くつかまれていなければ飛べるかもしれない。この手をなんとか外さなくては。
けれど、足が浮いてしまってまったく力が入らない。
「ヴァスィルっ」
助けを求めるように呼んだ。
そうしたら、男たちはニヤニヤと笑った。
「なんだ、お前の男の名前か?」
「さあ、答えてもらおう。兵の規模は――」
その後が続かなかった。男のこめかみに矢が突き刺さって事切れていた。驚くほど静かに、正確に、急所を射貫いていた。
エミーリエが見上げると、崖の上には下を覗き込むパヴェルと、弓を握るマクシムの姿が見えた。薄闇の中、それでもはっきりと見えたのは、ヴァスィルのおかげなのか無意識にエミーリエが何かしているせいなのか。
マクシムは素早く矢を番え直し、ヒュッ、ヒュッと矢を降らせる。恐れをなした斥候たちはエミーリエを放り出して逃げたが、上から放たれることによって射程が広く飛距離のある矢から逃れるのは容易ではなかった。
致命傷とまではいかずとも、背や足に矢を受けて倒れる。エミーリエは戸惑いながらも、下手に動いて矢に当たらないように崖下の方へ引き、そこでただ震えていた。
それからさほど時間は経っていないはずだが、パヴェルが肩で息をしながら下りてきた。
「エミーリエ!」
悲痛な声に、エミーリエの方まで泣きたくなった。
「パヴェル様、ここです!」
パヴェルは一度、エミーリエの無事を確かめるように腕に強く掻き抱くと、それから斥候を捕らえに向かった。
遅れてシャールカや他の兵たちも到着する。斥候のうち二人は生きており、捕縛するに至った。
エミーリエを脅して情報を得るつもりだった斥候たちは、自分たちが捕虜になった。
カーライルの国境を侵したのだから、言い逃れはできないだろう。
ジョフィエは――。
多分助からなかった。
一度にいろんなことが起こりすぎて、エミーリエは頭の整理がつかない。その場にへたり込むと、パヴェルとシャールカが近づいてきた。
「エミーリエ様、一体何があったのですか?」
いつもは冷静なシャールカの声が昂っている。
「あ、あの、それが……」
ジョフィエに殺されそうになって、崖から飛んだ。その先に斥候が来て捕まった。
崖から落ちて無事だった理由をどう説明したらいいのだろう。
この時、パヴェルの視線がエミーリエの脇腹に留まっていた。
「立てるか?」
手を差し伸べられ、エミーリエはその手につかまり、うなずく。
力強く引き上げられた後もパヴェルはエミーリエ手を放さなかった。そこへマクシムも合流する。
「ああ、よかった。エミーリエ様、ご無事で……!」
「あ、ありがとうございました、マクシムさん」
マクシムはかぶりを振る。
「いえ。自分でも日が落ちた後にあんなところがよく見えたと思います。変なことを言いますが、エミーリエ様のいた辺りが明るく感じたんですよ」
やはり、本来ならあり得ない力が働いていたのだろう。
ヴァスィルがやったのだとしたらありがとう、と心の中で感謝した。
「パヴェル様、後処理はしておきますから、エミーリエ様を休ませて差し上げてください」
「ああ、助かる」
パヴェルは短く答えると、エミーリエを連れて山道を戻った。こうして歩いてみると、野営地からそれほど下まで落ちてはいなかったようだ。
戻るなり、パヴェルは衛生兵から薬箱を受け取り、エミーリエを自分の天幕へ連れていった。
中には小さな灯りがあるだけだった。敷物の上にエミーリエを座らせると、パヴェルは薬箱を横に置いた。
その表情はひどく不機嫌に見えた。
「何があった?」
「それが、その……」
ジョフィエのことを庇ってあげる義理はないのかもしれない。裏に誰かいるようだったから、その相手のことも気になる。
エミーリエが頭を整理しようとすると、パヴェルの手がエミーリエの肩に載った。かと思うと、そのまま後ろに倒された。
床に転がるエミーリエの顔を覗き込みながら、パヴェルは感情を抑えた声で言った。
「勝手な行動は取るなと言ったはずだ」
「ごめんなさい、わたし、そういうつもりでは……」
癖でとりあえず謝ったのがよくなかったのかもしれない。
パヴェルの手がエミーリエの制服の裾を押し上げるように動いた。
えっ、と戸惑ったのも束の間、パヴェルの顔が痛ましく歪んだ。
「こんな怪我までして。いや、怪我だけでは済まないところだったんだ……っ」
よく見ると、エミーリエ以上にパヴェルの方が震えている。
こんなにも心配をかけたのだと、今になって思った。
「連れてくるんじゃなかった。どこかに閉じ込めておけばよかった」
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
エミーリエが落ち着いて返すと、パヴェルの方が気まずくなったのか、ため息をついた。
無言のまま水差しの水と清潔な布で傷口を拭う。王子がすることではないし、エミーリエも気恥ずかしかった。
それでも、パヴェルは誰かに代わってもらうつもりもなく、エミーリエ自身にさせるつもりもなかったようだ。
パヴェルの手が時折肌に触れると、傷口よりもそちらの方が疼く気がした。
「輸送隊のジョフィエさんが人から頼まれたからと言ってわたしを崖から落とそうとしました。これはその時についた傷です。ジョフィエさん自身が崖から落ちてしまいましたが……」
ポツリ、と真相を伝えると、パヴェルは目を見開いた後にエミーリエの頬を撫でた。
「誰がお前を狙ったのか、名前は聞いたか?」
「いえ。心当たりはありませんし」
「俺にはある。その者の身辺を洗い出そう」
パヴェルには思い当たる人物がいるらしい。それが誰なのか気にならないわけではないけれど、パヴェルはそれ以上言わなかった。エミーリエの体を起こし、包帯を巻き終えると、傷を労わりながら抱き締めた。
「とにかく、お前が無事でよかった」
心底安堵したといったふうに聞こえた。
今になって、心から愛しい娘にするような心配の仕方だと思えて恥ずかしくなる。エミーリエが赤らんでいるのに気づいたのか、パヴェルは小さく笑うとエミーリエの耳元でささやく。
「いつか、お前の故郷のタロン公国へ行きたい」
「えっ?」
「本当は先に挨拶すべきなんだろうが、状況が許さない。だからどうしても事後報告になってしまう」
「それは……」
「王都に戻ったら、父上に結婚のお許しを頂きたい。その時にはお前の出自も話さなくてはならなくなるが」
結婚、と。
婚約者すら用意してもらえなかった自分が、それも大国の王子と。エミーリエには到底釣り合わないような相手と。
「あ、あの、そんなの無理だと思います」
パヴェルの腕の中でつぶやくと、顔を上げさせられた。
「それは俺が相手では嫌だという意味か?」
「まさか! わたしの方が釣り合わなくてお許しなんて、とても……」
慌てて言うと、パヴェルがエミーリエの唇を塞いだ。口づけは優しく、エミーリエを気遣う想いが伝わってくる。頭の芯が痺れて、何故だか泣きたいような気分になった。
自分が好きになった人と想いを通わせる。
これが幸せというものなのかもしれないのに。
パヴェルが、エミーリエに言いようのない幸福感をくれる。
それなのに、ただ嬉しいのではなくて、同時に恐ろしくもあった。
「お前は何も心配しなくていい。ただ俺のそばにいてくれ」
目を見つめ、そう言ってくれた。
けれど、エミーリエはあとどれくらいパヴェルといられるのかわからない。
ずっとというわけには行かないのだ。
そのうちにパヴェルもエミーリエを気味悪く思うようになるだろうか。
それとも、ならないだろうか。
何も伝えず、黙って人のふりをしていれば、この幸福は続くのだろうか。
ハラハラと泣き出したエミーリエを、パヴェルはまた優しく抱き締めた。
ただし、その涙のわけを理解してはいなかった。




