34◇夕暮れに浮かぶ
雨が上がるのを待ち、山岳へと踏み入る。
剥き出しの岩肌に、それでも逞しく生えた雑草の緑が見えた。今はまだ上り坂の途中だが、この高みからヴァラフ王国を眺められるのだそうだ。
ここではエミーリエも歩いて坂を登った。こんな運動は今までしたこともなく、簡単に息が上がってしまう。きっと、先を行くパヴェルたちは馬を歩かせても涼しい顔をして登っているのだろう。
しかし、ついていきたいと言ったのは自分だから弱音は吐けない。
「大丈夫ですか、エミーリエ様?」
輸送隊の手伝いをするジョフィエという女性が気づかわしげに声をかけてくれた。
三十歳ほどだろうか。茶髪をひっつめていて、淡い緑の目は思慮深い。従軍している兵の中に夫がいるという。
「ええ、お気遣い頂いてありがとうございます」
ジョフィエも夫と共にいたかったのだろう。夫婦とはそういうものなのか。
だとするのなら、エミーリエがパヴェルといたいと思うこの気持ちは――。
ジョフィエも、恋人と結婚の約束をしているルジェナも、同じように愛する人のそばにいたいと考えるのだろう。
けれど、エミーリエは結婚などできたものではない。相手が相手だからというのもある。
この想いはそのうちに実を結ばずに萎れていくだろう。
そう思うと、ジョフィエのことが羨ましかった。
そんなエミーリエの心を知らないジョフィエは落ち着いた笑みを浮かべた。
「開けたところへ着いたら、今日は早めにお休みするそうです。そこまで頑張りましょう」
「はい!」
エミーリエは額に浮いた汗を拭い、さらに山道を登った。慣れない山登りに足の裏の皮が擦り剥けていた。
そして、夕暮れ時――。
食事の支度を調え、振舞われる慌ただしい時間だった。
兵糧は味気ないパンとスープと干し肉と、贅沢なものではない。疲れたエミーリエはあまり食欲もなく、なんとかそれらを押し込む。パヴェルの天幕に挨拶に行って、それから休もうと思った。
ただ、足が痛くてひょこひょこと歩いていたら、ジョフィエに声をかけられた。
「まあ、エミーリエ様、おみ足が痛まれるのですか?」
「えっ、いえ、大したことは……」
ここで騒ぐとパヴェルに知られそうで困る。エミーリエは曖昧にごまかそうとした。
すると、ジョフィエはエミーリエの手を引く。
「お薬を塗りましょう。輸送車にありますから」
「あ、ありがとうございます」
明日もまた歩かなくてはならないのだから、その薬で痛みが引くのなら助かる。エミーリエはジョフィエの言葉に甘えることにした。
ジョフィエはエミーリエを気遣いながら休息を取る兵たちから離れる。輸送車に近づき、そこから薬を持ち出すと、さらにエミーリエの手を引いて進む。
「一度傷口を洗ってから薬を塗った方がいいでしょう。こちらに水場があります」
「は、はい」
足は痛むが、そのうちにもうどうでもいいような、痛みに慣れてきていた。これくらいなら明日も大丈夫かもしれないという気がしてくる。
ジョフィエの言う水場とはどこなのか。水場どころか、その先は崖だった。
「あの……」
崖の先端に来てようやく、エミーリエは何かがおかしいと思った。ジョフィエの表情が薄暗いのは、日が暮れたからというだけではない。
「ごめんなさいね。あなたに恨みはないけれど、私たちにはお金が要るの」
「えっ?」
エミーリエがギクリとすると、ジョフィエはポケットから折り畳んだナイフを取り出した。
その刃を立て、エミーリエに突きつける。暗い中でも刃がうっすらと光って見え、背筋が凍った。
「あなたを邪魔に思う人がいるの。その人はあなたを消せば大金をくれるって」
心当たりはなかったけれど、ラドミラの時だって何も気づいていなかった。またどこかで誰かの恨みを買っていたとしても、不思議ではないのかもしれない。
ただ、そんな人に命はやれない。
少なくとも、エミーリエがここで死んだら、連れてきたパヴェルが苦しむ。だから、絶対に死ねない。
「すみませんが、わたしはこんなところで死ねません」
淡々と返したせいか、ジョフィエは引き攣った笑い声を僅かに立てた。
「もっと怯えるかと思ったのに、変な子ね。まあいいわ。そこから飛び降りて」
「嫌です」
「それじゃあ、刺してから落とすだけよ」
優しかったジョフィエは変貌し、恐ろしいことを簡単に言う。
突きつけられたナイフ、背面の崖――。
ジョフィエを見据え、エミーリエは迫りくる刃をどうにか躱したが、脇腹に切っ先が掠った。服が避け、血が滲むけれど、刺さらなかっただけましだ。
この時、ヴァスィルの声がした。
「大丈夫。飛んで、エミーリエ」
崖に踵が乗りきらないところに立っていたエミーリエは、ヴァスィルの言葉を信じて体を後ろに投げ出した。再度エミーリエに突進してきたジョフィエは、もんどりうって崖から転落する。ジョフィエの悲鳴も、エミーリエにはどこか遠く感じられた。
エミーリエはただ、空を飛んでいた。この感覚は初めてではない。
川の流れに逆らいきれず、岩に叩きつけられる寸前だった舟から飛び出した時。
パヴェルの屋敷から飛び出して、遠くへ行きたいと願ったあの時も。
ヨラナの狭い部屋から逃げた時も。
エミーリエ自身は覚えていなかったが、確かに体は飛んでいた。
化身というから、強靭な翼を持った四つ足の竜になるのだと思っていたけれど、そうではない。体が溶けるように意識と混ざり合い、光そのものになったような感覚だった。
そして、それも束の間のことだった。エミーリエは岩場に手を突き、息を切らしてその場に横たわる。傷が痛むのではないが、疲労感が強かった。ぼんやりしていると、人の足音が聞こえた。
「お前は何者だ?」
ハッとして顔を上げる。
そこにいたのはカーライルの兵ではなく、多分、ヴァラフの斥候だった。




