1◇ウィルドの娘
手から滑り落ちた縫い針が絨毯の上に落ちた。
薄暗い部屋の中、微かに光る針を拾いピンクッションに戻す。
そこで裁縫は終わりにした。あまり根を詰めると目が疲れる。
エミーリエは天窓しかない部屋の中、鏡に手を添えた。
ベルベットのワンピースに身を包んだ妙齢の少女がそこにいる。
薄紫色をしたまっすぐな長い髪。藍色の瞳には覇気がなく、顔色も白いというよりは青白い。
タロン公の末娘、エミーリエ・バベッジは十七歳になった。
本来であれば夜会へ出て婚約者を選び、頃合いを見て嫁ぐべきところだ。
しかし、エミーリエは夜会はおろか、この十二年間家族以外の人前に出たことがほとんどなかった。
エミーリエの他に兄が三人、姉が二人いるが、家族の中でさえ、エミーリエはいないものとして扱われているに等しかった。
特別な日以外は皆と食事も共にしない。この部屋の中にいるだけの娘である。
姉たちは優雅なドレスを着ているが、エミーリエはいつもワンピースでいる。ドレスは着ない。
ワンピースならば一人で着られるからだ。エミーリエは自分でできる限りのことは自分でする。極力人と関わらないために。
――誰も恨んだことがないと言えば嘘になる。
どうして、自分だけが皆と違うのだろうと。
姿見の鏡に幕を下ろし、エミーリエはソファーに座り直した。
すると、侍女のラドミラが紅茶を運んできてくれた。
「エミーリエお嬢様、紅茶をお持ちしました。あと、お菓子も」
にっこりと優しく微笑んでくれる。ラドミラはエミーリエよりも四つほど年上で、侍女にしておくには勿体ないような金髪の美人だ。
「ありがとう」
エミーリエは手を合わせ、笑って返した。
この寂しい部屋に来てくれる人は本当に少ない。ラドミラは仕事をしに来ているに過ぎないのだが、それでもエミーリエは彼女の存在に癒されていた。
「お熱いので、火傷をなさいませんように」
白磁のティーポットから琥珀色の紅茶をコポコポと注いで差し出してくれる。ティーカップはソーサーごとローズウッド材のテーブルの上に置かれた。
「今日はエミーリエお嬢様のお好きなベリータルトですよ」
宝石のようなベリーがタルトの器の上で輝いている。バベッジ家のシェフはお菓子作りも上手いのだ。
「とっても美味しそうね」
喜ぶエミーリエを眺め、ラドミラは笑顔だけれどほんの少し寂しそうな目をした。
「お嬢様に喜んで頂けて嬉しいです。こんなことしかできなくて申し訳ありませんが……」
エミーリエのためにわざわざ用意されたものではなく、余りものをエミーリエのために取り分けて持ってきてくれたのだろうなと思えた。贅沢を言うつもりはない。ラドミラの気遣いが嬉しかった。
「いつもありがとう、ラドミラ。あなたがいてくれて、わたしは救われているわ」
それは本心だけれど、ラドミラは顔を背け、スン、と鼻を鳴らした。
「いえ……、ではまた後程」
ラドミラには他にも仕事がある。エミーリエにばかり構ってはいられないのだ。この屋敷で暇なのはエミーリエだけなのだろう。
エミーリエは部屋で本を読み、裁縫をする。それくらいしかすることがなかった。
家族は、エミーリエに会いに来ない。ただ一人を除いて。
「エミー?」
扉を叩く音がする。ただし、扉の鍵をエミーリエが開けることはできないのだ。鍵は世話係のラドミラが持っている。
「ヴィレーム兄様?」
エミーリエは扉に駆け寄り、話しかける。
向こうから聞こえる声は、三人いる兄のうちで最も年の近い兄、ヴィレームのものだ。
「うん。今日は馬で出かけたよ。野に咲く花が綺麗で花の絨毯みたいだった。エミーにも見せてあげたかったな」
明るい、優しい声だ。姿は見えないけれど、エミーリエはヴィレームの姿を思い浮かべる。
細身だが背の高い兄はいつでも穏やかに微笑んでくれているから、今もきっとそんな表情で語りかけている。
「ええ、いつかは見に行きたいわ。ありがとう、兄様」
それが可能かどうかは別として、ヴィレームがそう思ってくれることが嬉しかった。他の家族は顧みないエミーリエを、ヴィレームだけが家族として扱ってくれる。
ヴィレームは洗礼の儀で〈エオロー〉の守護を持つとされた義に厚い人だ。
「……きっと、そのうちに何かいい方法があるはずだ。絶対に諦めるな。希望を持ち続けるんだ」
いつもこれを言う。
けれど、エミーリエはとうの昔に諦めていた。
ただそれを言わないのは、ヴィレームに感謝しているからだ。
「ええ、兄様。大丈夫よ。わたし、信じているから」
――無理だ。
どうしようもない。一生このままだろう。
母もあの占いの日には嘆いていたけれど、どうにもならないと悟った時、エミーリエの存在を頭の中から追い出してしまったようだ。
これでもう嘆かなくて済むとばかりに。
負の感情を呑み込み、エミーリエはヴィレームが遠ざかる足音を聞いていた。