第一章18 『Today he was alive』
少女が目を開けると、白い壁面が目に入った。彼女の網膜は、その白に反射した目映い光だけをキャッチする。まだぼやけていて全貌はよく見えない。数秒かかって、少女は自分が部屋の天井を見ているのだと分かった。それから視界が鮮明になるにつれて、自分が仰向けになって寝ていること、ふかふかと心地よいベッドの感触などが順々に彼女の中で明らかになる。
その中でも彼女が上体を起こす要因となったのは、鼻孔に届いた甘い匂いだった。
「おう、起きよったの」
すぐそこで、ココアを淹れる童女の姿があった。彼女は、もわりとのぼる湯気のように、温かく柔らかい目をしていた。普段の様子からは想像もできそうもない。瞳の色は血の赤であるが、不思議と不気味な感じはしない。
「ココア淹れたじゃき、飲みいね」
「……ありがとう、ございます」
差し出されたカップを受け取ろうとして、少女は右手に包帯が巻かれているのに気が付いた。確かに、少し痛む気がする。なぜか、首元も。疑問に思いながらも、彼女は小さく音を立てココアを啜る。甘ったるいぽかぽかとした熱気が身体に染みわたる。ぽぅ、と吐いた息は、白い湯気を纏っていた。
「おんしの顔を見んのは、いつぶりかの」
呟かれたその声に、少女ははっと片手で顔を覆う。ガスマスクが、ない。そういえばもう何年も、彼女の前でマスクを外していなかった。無意識にではない。意識的に、少女はそれを避けていた。目の前の童女だけではなく、少女に関わる人物の誰にも、素顔を見られるのは好きではなかった。
ということは、自分の顔は彼にもみられたのだろうか。
彼?
「っ! そういえば、あいつは!?」
「あやつなら何ややることがあるっちゅうて、くたびれたおんしを儂に押しつけてどっか行っちまったわい。困ったもんじゃ」
「……そう、ですか」
溜息を流し込むように童女はココアを啜る。
少女はというと、彼のことと同時に自分が気を失う前の出来事も矢継ぎ早に思い出された。そして、顔を覆いたくなるほどの恥ずかしさに襲われる。少女は思わずかけ布団に顔をうずめる。本来ならこんな情けない表情、マスクに遮られて見られないはずなのだが。見なくても、傍に立つ童女がにやにやとしているのがわかった。
あんなに易々と虚を突かれるとは、なんて失態だろう。しばらくぬるま湯に浸かりすぎていたようだ。街中だからと油断していた。
少女が悔やんでも悔やみきれない思いを悶々と巡らせていると、不意に童女が口を開いた。
「なんにせよ、これで一旦は終結じゃわい。幕引きは呆気ねえもんよ」
「ああ……」
少女はうずめていた顔を上げ、天井を見上げる。
そうだ。終わったのだ。彼が終わらせてくれたのだ。
ひどく簡素な終わりようだったけれど、彼にとってはきっと、一世一代の大勝負に匹敵しただろう。さらにこれからこの組織に身を置くというのだから、これからの彼の気苦労も計り知れない。
彼は、彼自身が何回もやり直した世界を自分たちに語って聞かせた。彼の目には、その中で一連の騒動が終わりを迎えた今日は、いったいどれほど価値のあるものに映っているのだろう。彼は今、どんなことを思っているのだろう?
今日は彼が死んだ日だ。死んで死んで、ようやく、生きた。
これからどれだけ多くの彼が死ぬとして、恐らくこの日を彼が忘れることは終ぞないだろう。自分の『死』から始まった『今日』を――彼が死んだ今日という、激動の物語を。
***
この静けさは、そういうことだろうか。僕は感傷に浸っていた。
夜はもうすっかり更けてしまった。ねっとりした湿気が頬に絡みつくのを、時折夜風が追い払ってくれる。僕はその心地よさに酔いしれながらも、どこか不安で不安でたまらなかった。
もうずっとここにいる。何をするわけでもなく、ただ空の色を眺めているだけ。鮮やかな青に段々と陰りが差して、一時燃えるような赤に染まったと思えば、黒が貪欲にすべてを塗りつぶす。そこでは月だけが孤高の存在であり、彼が夜の王として光り輝いていた。笑ったような形の三日月だ。今日は特別、月が大きかった。
たまに横切る雲が月光を遮るときがある。ひょっとしたらあの後ろで、三日月は隠れて泣いているのかもしれない。いつもは飄々と笑っている風でも、誰にも見えない場所でひっそりと。まるで――、
「……おいおい、いつから僕はこんなロマンチストになったんだ?」
我ながらとても詩的な考え方だ。それも月が隠れて泣いているなど、いかにも使い古されていそうな言い回しで。こんなことでは笑われてしまうな。喉で疲れた失笑がはじけた。
僕は事態を急いてはいなかった。というよりは、もう満たされていたと言っても過言じゃない。僕という人間を思ってくれる人がこの世界に、僕と同じ世界に存在しているだけで、僕がここにいる理由が説明できる気がした。彼は根が優しいから、きっと僕の苦悩は自分にも責任があるだとか、そんな下らないことを考えているのかもしれない。でもそんな埋め合わせなんて必要ないんだ。僕が何回言おうと彼は信じてくれなそうだけど。
結局のところ、僕はただ誰かに認知してほしかっただけなのだと思う。この世界を生きる僕じゃなく、今までのすべての世界を生きてきた僕として。
我ながら、ひどいエゴだと思う。だって今日を生きる全ての人は、それ以外の世界なんて知る由もないんだから。それを勝手に憎んで妬んで羨んで、僕は何度だって訪れる今日を生きてきた。彼らとともに足踏みすることを選んで、水の中に紛れ込むように溶け込んだ。
でも駄目だった。僕は、限りなく水に近い、油だった。一見水のように見え、何ら境界が無いように見えても、僕と他の間には確かに壁がある。それをなくそうとする努力はいつのまにやら、それが誰かに露見しないだろうかという怯えへと変わっていた。
振り返れば僕の生き様は、喜劇でなど決してなく、かといって惨劇というのも何か違う。一人で終わらない時を過ごしてきた。寂しかった。どんな人が隣に寄り添ってともに歩いてくれたとしても、僕はずっと孤独だった。それだけが唯一拭い去られることのない事実だった。
ひたすらに、純粋に、なんの満ち欠けもなく、ただただ悲しいだけの物語だったと思う。
ふと足音がして、僕は後ろを振り向いた。そしてそこにいる人の顔を見て、僕は図らずも泣きそうになる。けれどそれを堪えるように、精一杯彼に向かって微笑んだ。
それを見て、彼も同じように微笑む。
「やあ。――救いに来たぜ」
それは、僕が見てきた中でいちばんやさしい笑顔だった。
そう。
そんな僕の物語にもついに、終止符が打たれる。
「ありがとう」
僕は言った。それ以外の、どんな言葉も出てこなかった。
「その前に」
「え?」
彼は、僕の台詞を無視して、がさごそと荷物をまさぐり始めた。
出鼻をくじかれた僕は呆然とそれを眺めるしかない。やがて出てきた彼の手には、箱型の何かが握られていた。
「なんだい、それ……?」
「和菓子」
「え?」
短く言い捨てた彼はびりっと包装を破いて、蓋を開けた。
覗き込むと、色とりどりの饅頭らしき食べ物が行儀よく箱の中に並んでいる。確かにおいしそうだけれど、これはいったい。
「ほれ、食うぞ」
目を丸くしたままの僕を置き去りに、その場に胡坐をかいて座る彼。僕が何か言う前に、彼は早速一つ目の和菓子に手を出した。そして僕の目を見て当たり前のように言い放つ。
「食うぞって。……談笑、するんだろ? 死んでも後悔ないように一生分の話してやるから、座れよ。もたもたしてると和菓子全部食っちまうぞ」
ぶっきらぼうな物言いに、僕は思い出す。
――ああ、そうだ。
君は、そういう人だったよな。
「まいったな……こんなことされたら、死にたくなくなっちゃうよ…………」
なんだかとても、目の前の彼の顔が見づらいし。
「馬鹿言うな」
表情は見えないけれど、彼の声は若干震えていた。僕は和菓子に手を伸ばす。もちっとした生地の中には餡が入っていて、甘いはずなのに、何だかしょっぱい味がした。
でも。
「おいしい」
すごく。とても。口で言い表せないほど。
「そりゃそうだ」
ふふん、と彼が誇らしげに鼻を鳴らす。
僕は嗚咽を漏らしながら、それを抑え込むように和菓子を口に詰め込んでいった。この世のものとは思えないくらい、おいしい食べ物だった。
「そんながっつくなよっ、確かに全部食うぞとは言ったけどそんなことしないから! ちょ、俺の分なくなるから! これ結構高いやつだから! ねえ聞いてる!?」
「ひみあももふぁひえほふぁっふぁ」
「何て!?」
ごっくん。
「君が友達で、よかった」
一瞬、彼の表情が固まる。
それから、困ったように笑って言った。
「俺もだよ」
「――ありがとう」
さっきとはちがうありがとう。
君という友人を持てて、僕は本当に、本当に幸せものだ。
そして僕らはしばらく互いに笑い合って、これまでのこと、これからのことを和菓子片手に話していた。ほんの少しの間だったけれど、僕はその時間に一生分の幸福を味わった気さえした。
それは僕が今まで生きてきて、紛れもなくいちばん楽しいひと時だった。
死んで、死んで、生きた。
泣いて、泣いて、笑えた。
そんな有り触れた物語を紡いできた。
でもそれでいい。構わない。
どれだけ途中で涙を流してしまっても。
最後に笑って終われるなら、こんな幸せな幕引きはないだろう。
***
引っ越しの片づけが忙しい。初めてのことだらけで、わくわくもしているけれど、それ以上に不安も大きい。少女は、明日から本格的に和菓子屋で手伝いをする。もう高校生にもなったのだし、この引っ越しを機会にそろそろ親の仕事を手伝ってみるのもいいと思ったのだ。これまで働いたことなんてないし、和菓子作りは父にならってやったこともあるけれど、まだまだ経験不足。素人の域を出ない。
「でもだからこそ、これから頑張るのっ……!」
少女は意気込んで、抱えたごみ箱をどすんと店の脇に落とした。
そこで、そういえば、さっきの少年はどうなったのだろうと思い返す。突然店番中に現れた(お客だから当たり前だが)、少女と同じ高校生のような風体で、それほどお金を持っている風ではなかったのに商品の中でも結構高いものを頼んで買っていった。少女の店の看板商品がたくさん箱詰めにされたもの。確かにその饅頭を一個、試食という名目で内緒で彼にあげたけれど、無理して高い方を買わないでもよかったのに。
「もっと数が少ないものもありますよ」と少女が言っても、「いや、友達に食べさせてあげたいから」の一点張りで、頑なにそれを買おうとした。よくわからなかったけれど、なんとなく事情があるように思えた。
なんだろう。その友人を怒らせてしまって、許してもらうための貢物としてでも買っていったんだろうか。
そんなことを少女が考えていると、
「……あれ」
夜の街から、歩いてくる人影が見えた。目を擦ってもう一回見る。
やっぱりそうだ。さっき和菓子を買いに来てくれた少年だ。いったいどうしたのだろう。菓子に虫が入っていたとか、髪の毛が入っていたとか、クレームでもつけてきたらどうしようか。
ドキドキしながら近づいてくる彼を少女はじっと見る。特に何も言葉を交わさず、彼は少女の前に辿り着く。
そして彼は彼女に言った。
「さっきの和菓子、今度は小さいほうもらえないかな」
拍子抜けだった。弓の弦のようにぴんと張っていた気が、ふっと緩む。
「え、さっき大きい方買っていかれましたよね? まさかもう全部食べちゃったんですか!?」
勢いで食べきれる量ではなかったと思うが。少女が知る限り、饅頭というのは結構腹に溜まるものだし。
「そゆこと。そう……友達が食い意地張りすぎで俺全然食えなくて。だからもう一箱自分用に」
人差し指を立て彼は笑う。どこか疲れたような笑みだった。
「はあ、いいですけども。ちょっと待っててくださいねー」
それからさっきと同じように、ショーケースから小さいほうの箱を取り出し、会計を済ませる。レジの打ち方は、一応できるがまだ勉強中だ。ぱちぱちと操作する少女の手元はまだ覚束ない。
「はいどうぞ!」
「ありがとー。あ、ここで食ってくね」
店の前には、大きめのベンチが設置されている。きっとそこで食べると言いたいのだろう。
少女は再び引っ越しの整理に体を動かす。店の中と外を行ったり来たりをしているとふと、少年の持っている箱の中身が半分ほどになっていることに気が付く。
そして、顔を上げたとき、不覚にも彼と目が合ってしまった。
彼は気まずそうに笑って目を逸らし、少女に言った。
「よかったら、食べる? もうちょっとしかないけど」
「いっ、いえいえ! 私は別にそんな――」
そこまで言ったとき、タイミングがいいのか悪いのか、不意に少女のお腹が大きい音を立てて鳴った。場は一斉に静まり返る。少年は相変わらずにこにこしている。少女の顔はみるみる真っ赤になっていった。
「あ……これはその……ちがくて……」
やらかした。弁解不可能。もう何を言っても手遅れだ。
少女は嘆く。彼女に残された選択は、
「……いただきます」
「遠慮なく」
少女は泣きそうな声で少年の隣に座った。顔から火が出そうだった。
もうやけくそとばかりに、彼女はもぐもぐと己が店の商品を口いっぱいに頬張る。ハムスターのように頬袋を膨らませて、満足そうな自分のお腹を睨んだ。こいつさえいなければ。
恥ずかしさを紛らわすように、少女は隣の少年に話しかけた。彼も頬が膨れている。
「どうですか?」
「ほみひい。ももふぁひももみひいむふぇ」
「何て!?」
ごっくん。隣から音が聞こえる。
「おいしい。友達もおいしいって言ってた」
「ほんとですか!?」
少女は嬉しくなって、つい声を大きくしてしまう。
「うん。美味しすぎてわんわん泣いてた」
それは流石に言い過ぎだろう。少女は苦笑する。
「ほんとに」
突然、少年が真面目なトーンで呟いた。
見ると彼は、夜に浮かぶ三日月を見上げている。少女の方もそれに倣う。こうしたシチュエーションで見てみると、食べかけの饅頭に見えなくもない。
そんなことを考えていた彼女は、少年を見た時、思わず口の中の饅頭を飲み込んでしまった。ごほっ、ごほっとむせながら、彼女は彼を二度見する。
彼は月を見上げながら、泣いていたのだ。
「ほんとに、おいしい……。ホント…………」
繰り返される台詞に心はない。ただかわいそうなほどの寂しさが切実に伝わってくる。その言葉を呟くには、今の彼には切なさが溢れすぎていたのだ。きっと彼には何かがあった。でも自分はそれを知れない。だからこうして涙に気づかないふりをして、並んで一緒に月を見ることしかできない。
でも、自分でもよくわからないけれど、彼の涙がやむまでは、ここに座っていることにしよう。
誰しもつらいことがある。目を背けたいことがある。彼は今それに直面している。そんな時、隣に誰かいるのといないのとで、どれだけ辛さが違うだろうか。不十分だとは自覚しているけれど、今は、彼の隣を自分が務めよう。
自分にだって、心から寄り添うことは出来なくても、伝う涙を拭うことはできるから。彼が見てほしくないものを、見ないふりくらいはできるから。
少女は彼から目を逸らし、手に持っていた饅頭を口の中へ放り込む。
きっと美味しすぎて泣いているのだろう。
そう思うことにして、笑っている月を見た。
これでいったんの幕切れです。
ここまで読んでくださった皆さんに、今一度心から感謝。