第一章17 『見たいもの』
話は戻る。現時点へ。
朔磨は廃墟の中、二人の少女に陰惨な過去を吐露している。そう。あの、激情の舞台となった廃墟の中で。なぜここを選んだのかは朔磨自身にもよく分からない。ただ強い引力に引かれた。ここであった出来事を決して忘れてはいけない、そんな感情がこの場所を選んだのかもしれない。死んだ数も、情動も、色々と忘れてきてしまった自分だから。頭に残るその『記憶』だけが、やけに尊く、手放してはならないもののように感じられていた。
だから朔磨は、彼女たちに語るのかもしれない。忘れることは許されないという戒めを、自身の肌へと縫い付けるように。そんな行為に、朔磨は最早痛みさえ感じない。そんな現状を嘆く感情も、ずっと前に落としたらしく。
だが、それでも前へ進もうとする。
目も見えない。
耳も聞こえない。
暗闇の中、ただただ明るいほうを目指して。
そして彼の語る過去もいよいよ、終わりを迎える。
朔磨はゆったりと微笑んだ。
今が始まる。
世界にかけがえない皆が存在している、今。
それを守ること。朔磨の内の強い決意は、それ以外に何もなかった。
***
「『バム』って宗教団体を知ってるか」
徐に朔磨が言った。
二人の少女は首を傾げる。当然だ。ホームページも、表立った活動も何もないうえ、たかが数十人で構成された少数カルト集団なのだから。
「今回のテロの首謀者、滝川恭介は、その『似非宗教団体』をつい先月立ち上げた」
滝川恭介。あの忌々しい、醜い男。
「それが、テロと何の関係が?」
ガスマスクが疑問の声を発する。
「簡単だ。滝川は、普通の犯罪行為を、より醜悪なものにすることで自分の欲求を満たしてる。結果もそうだけど、あいつは同時に、過程も楽しむ」
とんとん。朔磨は自分の頭を人差し指で叩いてみせた。
「洗脳だ」
途端、ガスマスクの目が曇り、ドクターの目が僅かながら光り輝く。相も変わらず気持ちが悪い。
「対象は、十代後半から二十代前半の奴を適当に選別。対談という形に持ち込み、洗脳。これで奴等は滝川の言うことが絶対になる」
滝川は人の思考を、ある一つの方向へと捻じ曲げるのが得意だ。まさかそれが、洗脳という形でテロ計画に組み込まれていようとは夢にも思わなかったが。
ずっと思うがままでなくてもいい。ただ一時だけ、滝川に心酔すればそれで十分。
「そいつらは、洗脳が効いている間は文字通り何でもする。裸で踊れって言われたら喜んで踊るし、爆弾になれって言われたら嬉々としてそれになる」
「……爆弾、の」
口元がにやついているところを見ると、ドクターはもう朔磨の言わんとすることをだいたい察したらしい。察しがいいのは結構だが、それだけ滝川と似たような思考回路ということなのではないだろうか。
軽く頭が痛くなってきたところで、それを掻き消そうとばかりに声のボリュームを上げ、結論を口に出す。
「滝川は『宗教団体』という名目で人を寄せ集め、そいつらを洗脳。『爆弾』にした」
「……どういうこと?」
信じたくないのか知らないが、ガスマスクが最後の確認とばかりに朔磨を睨みつけ、問うてくる。
彼女たちも想像はついているはずだ。読んで字の如く。
「数十名の『信者』たちは、その体に爆発物を取り付けられている。いわば、『生きる爆弾』だ」
「……そんなのが、街中に散らばってたら」
息を呑む音が聞こえる。朔磨のものか、ガスマスクのものか。恐らく両方だ。特に朔磨は、その先の出来事を、よく目に焼き付けてしまっているから。小さく、唇を噛んだ。
「ただでさえ数十個ある爆弾が、絶えず移動してその姿をくらましてる。そりゃ全部処理しきるのは、骨が折れるなんて次元じゃねえよな」
「いずれにせよ、悪趣味極まりない計画じゃの」
笑みを隠そうともせず、ドクターがため息をついた。
「それあんたが言う?」
「失礼じゃな、確かに儂好みの思考じゃが今一つ面白さが足らんちゅうて。ただの意地悪いだけのけったいなもんじゃ」
「さいですか」
その面白さを求める心が、いつか何かやらかしそうで怖い。
「で、クドウサクマ。おんし、そんなどうしようもねえ愚痴だけ儂らに吐いて、それで終わりなわけないじゃろうな?」
「当たり前。ちょい乱暴だけど、打開策もちゃーんと用意してる」
本当に、ちょっとだけ乱暴な。
「その打開策っていうのは?」
答えを急ぐガスマスク。
「残念ながら、爆弾はもう既に街に撒かれた。これは俺が『戻れる』時間よりも大幅に前だから、根本を叩くのは不可能だ」
時間遡行のことを言葉に出すと、どうしても脳裏に、あの友人が浮かぶ。確かに宗太郎と協力すれば、滝川はもっと早い段階で叩けるし、こんなに面倒な事態になってから対処しなくてもいいかもしれない。
でも、違うだろう。
彼は、朔磨が救わなくてはいけない。朔磨が自分自身の力で、彼に手を差し伸べられる土台に辿り着かなければいけない。もう十分、朔磨は宗太郎に助けてもらった。これ以上彼に干渉を強いるなんて、そんな愚挙、醜態を、今更この身に晒せと言うのか。それは賢い選択であるかもしれないけれど、それと同時に、とても醜い選択であるとも朔磨は思う。今まで散々苦しんできた、友人への冒涜であると。
この惨劇は、『久遠朔磨』が解決しなければいけない。よってこの作戦は、爆弾たちが散りばめられる時点には、絶対に戻れない。
それだけは死んでも譲れないのだ。
「だから、力技でいく。お前らの組織の、物量を借りさせてもらう」
「物量って……まさか、街中隈なく捜して爆弾を見つけ出せなんて言わないでしょうね」
「安心しろ。お前らにさせるのはもう少し楽な無茶だから」
「無茶であることに変わりはないのね……」
当然。
「俺は爆弾の場所を、『座標』って呼んでる。今回に至るまで、俺は、お前ら『猫』に座標がどこかを探らせた。これを使ってな」
ばさり、と紙の束が机を叩く。これは、朔磨が宗教団体『バム』の根城から頂戴してきたものだ。爆弾一人一人の、簡単なプロフィールが記載されている。正直、滝川がこんな几帳面な性格とは思っていなかったから、これを発見したときは少し意外だった。
しかし中身は結構穴だらけで、記載されていない人物も多数いたためそれには頭を悩まされた思い出がある。一応その分の情報は朔磨が補填しておいた。
「もう教団の本拠地まで分かってるの?」
ガスマスクが目を見張る。
「つっても、ほとんど使ってない、名前だけの場所みたいなもんだったからな」
「ふーん……でも、爆弾の場所……座標がわかっても、あんたが戻れば記録はなくなっちゃうじゃない」
「そこは心配いらない」
ある意味、朔磨が一番頑張った部分だ。
「今日午後七時零分時点の座標は全部、俺の頭の中に入ってる」
もっと賢い方法も確かにあったと思う。けれどあれこれと考えるより、もう覚えてしまった方が結果的に一番早かった。
「俺がその座標を伝えるから、『猫』はそれに従って爆弾を確保してくれ」
それをすれば、街が吹き飛ぶのは阻止できる。
「……わかったわ。あんたを信用する。早速組織に戻って……」
「待ていよ」
立ち上がったガスマスクを、しばらく口を噤んでいたドクターが制止した。
「面を見る限りおんしには、まだやることが残ってるんじゃあねえんけ?」
艶めかしい眼差しをこちらに向け、微笑む童女。朔磨はごくりと唾を呑む。
そう。それだけでは、足りない。
この惨劇を未来からも根絶するためには、まだやらなければいけないことがある。
それは同時に朔磨の、自分自身へのけじめの意味もあるのだが。
「そうだ。――まだ、鬼退治が残ってる」
***
この場所に訪れるのも、これまで重ねてきた回数を鑑みればとても久しい。しかしここまで辿り着いた現実を目の当たりにしてなお、朔磨の胸には何の万感なども浮かばない。
至って平静。ただ、一人の敵を殺めるためだけにここにいる。その男を手にかける理由など、朔磨の行こうとする道の上に土足で立ちふさがったということだけで十分だ。向ける殺意など何処にもない。ましてあの男にくれてやる人間じみた感情などひとかけらも持ち合わせていない。
朔磨は今、誰の為でもなく、ただ未来を得るためだけに立っている。
そこに至るまでの過程の取捨選択の余地なんて、どれだけ前に落っことしてきただろうか。
後ろについてくるガスマスクはえらく忍び足だけれど、朔磨は立てる足音は気にしていない。相手も恐らくもうわかっているだろうから。崩れ落ちそうな階段を上り終え奥を見ると、小さな灯りがチロチロと同じく崩れそうな煉瓦の壁に揺れている。
部屋の奥から、物音は聞こえない。
「来たな」
代わりに、朔磨たちを迎え入れる声がした。楽しそうだな、と感じた。どうでもいいけれど。
暗がりへと静かに銃を向け、撃鉄を起こす。ガスマスクもそれに倣う。
「お前かあ、オレのこしらえた爆弾ぜーんぶ処理しやがったガキは」
やはり、もう情報は伝わっているようだ。
朔磨は応える。
「なら、どうする? 首謀者さん」
灯りが、笑うように大きく揺れた。
「おもしれぇ」
答えになっていない。
朔磨は躊躇なく引き金を引いた。
灯りが、消える。
耳を裂く破裂音が響きわたり、同時にそれが壁とかち合う音が聞こえる。
外れたか。
小さく舌打ちをして、近寄ってくるかすかな気配に蹴りを入れる。どうやら勘は当たっていたようで、ぶおっ、とそれを避ける音が聞こえた。そしてようやく、彼はその醜悪な面を晒す。彼――滝川恭平は、にんまりと、黄ばんだ歯を見せ笑っていた。
「ところでお前、今何回目だぁ?」
「一回目だよ。戦うのはな」
「そいつあちょうどいい! できるだけ足掻いてやるから頑張れよ!」
突如、滝川はしゃがむ。足払いを仕掛けてきた。
「ッ!」
高速で迫りくる払い蹴り。
「けっ、『次』は引っ掛かんなよ!?」
「『今回』でも引っ掛かんねえよ」
ぴょんと軽い跳躍を一回。滝川の足払いは低く空を切る。
「ッ……てめえ、今回が初ってのは嘘か?」
「あ? 嘘なわけねえだろ。ただ――」
ここに至る過程で、朔磨の身には色々とありすぎた。度重なる痛みの応酬。それを経て朔磨が手にしたのは、瞬間的な危機への反応力。頭で考えずとも本能が、向けられた殺気に警鐘を鳴らす。要するに――、
「――潜ってきた修羅場の数がちげえんだよ、若造が」
要するに、場慣れしたのだ。喧嘩ではなく、殺し合いに。
朔磨はすかさず振りかぶり、バランスを崩した滝川の、肋骨の下あたり。それを思いきり蹴り上げた。彼の体の内側で、何かがぎしりと軋む音がした。喧嘩慣れはしているようだが、あまり体から鍛えているわけではないようだ。
「ぐっ……」
勢いよく後方に吹っ飛んでいく滝川。アバラの三、四本は折るつもりで蹴り上げたが、はてさてそう甘くはないようだ。
確かに手応えはあったが、肋骨の感触ではない。
「ひゅうー、死ぬかと思った」
立ち上がった滝川は、腹から鉄板のような板状のものを取り出す。真ん中あたりが少し凹んでいた。
彼は朔磨の方を向いて、にやりと笑う。
「惜しかったな」
「次は仕留める」
そう言って銃を構えた瞬間、
「甘い。『次』じゃなくて、『今』仕留めんのよ」
滝川の頭上から、物凄い勢いで何かの物体が飛び込んできた。暗闇も相まってその姿は捉えられないが、滝川への殺気に満ちているという事実だけは明白である。
がっ、と鈍い音を響かせて、滝川がその攻撃を間一髪で止める。
「チッ……何だ、行儀のわりい野良猫だな」
「この整った毛並みが見えないの? 高貴な出に決まってるでしょ」
ガスマスクだ。闇に紛れる彼女の姿は、ここからだとほとんど見えない。ただ暗がりがその動きに合わせ不自然に歪むだけだ。
「高貴でも血統書付きでも、愛想のない猫は嫌いだね、っと!」
「そりゃあんたなんかに好かれたくもないし」
互いに悪態をつきあって、そこから二人は拳を交える。いつの間にか滝川は、包丁ほどの刃渡りのナイフを手にしていた。
ガスマスクの強さは朔磨も知っている。少なくとも滝川を圧倒できるくらいは強い。構えていた銃をいったん腰の位置まで下ろした。
形勢はガスマスクのほうが目に見えて上。戦い慣れしているのがよく分かる。身のこなしが、感覚に染み付いているのだろう。戦うために生まれてきたような少女だ。滝川ごときに負けはしない。朔磨でも、やり直さなければ勝てないだろう。
が、心配な点が一つある。それが現実にならないといいが――。
「そこ。がら空き」
激しい攻防の中、突如冷淡な声が響き、滝川の握っていた刃物がガスマスクの蹴りではたき落される。
「チッ……」
「動くな」
ガスマスクは、その片手に握られた銃を滝川へと向け動きを牽制する。
勝った。そう思った。
「あんたには、聞きたいことが山ほどあるの。痛い思いしたくなかったら――」
「ガスマスクッ!」
朔磨は冷や汗を流し声を張り上げる。まずい。心配していた事態が起こった。やはり、傍観しているべきではなかった。
勝った――。そう。
少女は、そう思っていたのだ。
遠くで叫びをあげる少年のその視線の先に、含み笑いを隠した悪魔がいることに気づけずに。
彼女は、最後の最後で詰めが甘い。
「そいつを殺せえッ!」
「おせえんだよ」
呟いた滝川の双眸は、爛々と殺意に輝いていた。
直後、彼の手元から得体のしれないガスが噴出する。二人がいた周辺は、白い煙で塗りつぶされた。
発砲音が何回か響く。しかし、滝川の悲鳴は聞こえない。代わりに、
「ぐあっ!」
悲痛に歪んだ、ガスマスクの声が上がった。同時、彼女の銃が床に落ちる音も。
「クソッ……!」
彼の言う通り、遅かった。
しくじった。状況が掴めない。あの白煙の中に身を投じるのは明らかに愚策。けれど彼女を、ガスマスクを見殺しにできるのかと言えば、それも否だ。
どうする。考えろ。リトライの存在なんかに頼るな。ギリギリまで頭を絞れ。でなければ、次もまた同じ失態を犯すことになる。
さあ、打開してみせろ。そんな声が聞こえる気がする。自分の中の時計がカチコチと秒を刻む音も。冷や汗がつうと伝わる感触。何とも気持ちの悪い焦燥が、一層思考に邪魔なノイズを与えてくる。
そこでふと、何かの音が朔磨の鼓膜を震わせた。
「……ぅ、ぁ」
鼠が鳴いているかのようなか細い声だったけれど、辛うじてそれがガスマスクの声だと分かる。同時に思い出す。この声の苦しみの種類は――、
「――窒息?」
彼女は今、滝川に首を絞められているということか?
そうだとすれば、戦い慣れしたガスマスクを滝川が完全に無力化する術は、この状況では上から押さえつけるのが一番確実だ。
白煙の範囲はもくもくと広がり、暗さで人影なんて見えるわけもない。闇雲にその中を掻きまわったとして、ガスマスクが事切れるまでに見つからないかもしれない。彼女が放置されていたとしても、朔磨が白煙の中を動き回ればこちらが気付く前に向こうが勘づく。
決めるなら、一点に絞ってから、一発でぶちかますしかない。
ガスマスクが滝川に拘束されているとして、身長から考えるに、滝川の頭は恐らく床から九十センチメートル以下の高さにある。ただ、肝心の場所がわからない。それがわからないことには、どうにも――いや。
「すぅっ……」
朔磨は大きく息を吸い込み――そして、白煙の中に飛び込んでいった。
もう時間がない。彼女を信じろ。自分を、信じろ。
「ガスマスク! 何でもいいから音出せえッ!!」
感覚を研ぎ澄ませろ。お前ならきっとできるはずだ。
今度こそ失敗するな、久遠朔磨!
朔磨が叫び、場は、凍りついたように静かになった。自らの呼吸も止めて、白塗りの世界で目を瞑る。どんな小さな声も音も、聞き漏らさないように。
「――――ッ!」
一瞬、そこらの環境音とは一線を画した確かな人間の悲鳴が、ほんの微かに大気を震わせる。
朔磨はそれを聞き逃さなかった。
目を見開いて、その声へ向かって全速力で駆けていく。
彼女の声は届いた。なら自分も、それを繋いで、この一撃を届けなければ。
足が地面を蹴る時間がやたら重たく、スローに感じる。あとどれだけ走ればいい。数秒だけで、一生分の重圧を経験している気さえする。速く。もっと速く。加速のリミットを外せ。
そして段々、白煙が薄く晴れてくる。そこには、二人分の人影がゆらゆらと煙に浮かんでいた。片方は、じっとこちらを見ているかのようにもとれた。
見えた、そこだ!
朔磨はその男の影の方に、銃を構える。引き金を引くことに、逡巡など微塵もない。しかしその直前、ある光景が目に飛び込んでくる。
滝川が、今まさにその手で殺めようとしていた少女の華奢な肉体を、自分と朔磨との間に盾のように翳したのだ。彼女の手足はだらりと垂れ、力が入っていない。その奥に、いつにも増して厭らしい、ねっとりとした笑みを浮かべる滝川が見えた。
ぷちんと、理性の糸が切れる音がした。
「舐めてんじゃ、っねええぇえ!」
引き金を引いた銃を寸前で別方向へずらす。弾は見当違いの場所へ勢いよく飛んでいった。
そして朔磨は、走ってきた勢いそのまま、床を思い切り蹴った。そうして自分の体を斜め左の方向へ飛ばす。その先には、ヒビの目立つ煉瓦の壁。身をかがめ、地面より直角の足場へと着地を試みる。だんっ、と音を立てて、朔磨の両足はしっかりと壁面をとらえた。
この体もじきに、重力に従い地面へと下る。壁に張りついていられるのは、もって一、二秒が限界だろう。
だがそれで十分だ。朔磨は今一度、自分を見て驚いた表情の不細工へと笑いかける。黒く光る銃口は当然、その醜い顔に照準が定まっている。
「これで、届くな」
「…………クソガキが」
瞬間響く乾いた発砲音は、容赦を交えず滝川の肢体を貫いた。なんの皮肉か、それは以前、朔磨が彼を殺したときと同じ場所だった。
「ごぷっ」
彼の口から、赤黒い血塊が吐き出された。同時にガスマスクもその手から解放され、べしゃりと床に倒れ込む。
駆け寄ってみると、どうやら気は失っているが、息はある。まだ少し荒いが、じきに安定するだろう。刺し傷も見当たらない。代わりに右手の甲が少し赤くなっている。どうやら最初の悲鳴は、銃を落とされる際にはたかれた手の痛みだったようだ。大事に至らなくてよかった。
安堵の息を漏らして彼女の顔を見やる。ガスマスクが倒れた拍子に外れ、その下の素顔が露わになっていた。
ただの、年相応の少女の顔だった。
あんな趣味の悪いマスクをつけない方が、よっぽどいいのにな。
そんなことを考えて、彼女を呼吸のしやすい姿勢にそっと寝かせる。ほっそりとした白い首に、痣のような絞首の痕が入っているのがわかった。さっき朔磨が「音を出せ」と叫んだ時、恐らくその一言を聞いて、滝川はより力をかけてガスマスクの体を押さえつけ、その首を一層強く絞めつけただろう。そんな中、この華奢な少女は、諦めることなく叫ぼうとした。朔磨に声を届けてくれた。彼女は、強い子だ。
「無理させてごめんな。あとは、俺がやっとくから」
朔磨は振り返り、腹辺りをおさえて仰向けに倒れる滝川へと歩み寄った。ぜえひゅうぜえひゅうと、遠くからでも聞こえるくらい息が荒い。そんな顔を、上からひょこっと覗き込んだ。
「よう。気分どうだい」
「ああ……最悪だ」
うむ。朔磨は満足そうに頷く。
「まさか、一回目でやられるとはなあ……はァ、ショック、でかいぜ……」
「俺はもうちょっと早く殺せると思ってたよ。努力賞ってとこかな」
一応、本音だ。
「……いいのかよ」
急に真面目なトーンになって、滝川が言う。
「何が?」
「俺を殺して、げほ……いったんは、この街は平和を取り戻した。……でも代わりに、お前の日常はもう、永遠に帰ってこない。……あー、えっと」
「久遠朔磨」
「……久遠朔磨。お前はもう、血溜まりから戻れない」
「……そうだな、確かに」
この峠を越えてしまえば、朔磨は組織の計画にあれやこれやと協力させられる手筈になっている。多分その世界では当然のように血が舞っている。そこに一歩でも足を踏み入れれば、朔磨はもうそこから抜け出せない。血で血を洗うような抗争にも一枚噛まされるかもしれないし、正直そんなのは御免だ。もうこんな面倒な惨劇、二度と関わりたくないし見たくもない。
「でも、いいんだ」
「ッ……何で」
まるで何かを恨むみたいに、戸惑った声を彼は口にする。
理由。明確にそう言い切れるものはないかもしれない。
ただ……燃え盛る炎の中、その身を硝子に切られ火に焼かれ、それでも自身の親の名を呼び続けた少女がいる。その日その日を平和に生きているだけなのに、突如として、地獄と見紛うような劫火にくべられる運命を背負った幸せな人々がいる。色褪せた世界でたった一人、居場所なんて与えられないまま、それでも世界に抗い続けた少年がいる。そしてそんな彼らが、血反吐を吐きながらも虫の息になりながらも、その足で向かおうとする未来がある。
それらを目の当たりにして、どうして自分一人だけ、辛いだの苦しいだの疲れただの、そんな戯れ言が吐けるだろうか? もう十分立ち止まったし、後悔に過去を振り向いたし、後ろめたさに蹲った。泣き喚き醜態を晒すことを、彼らは許してくれた。今度は自分が彼らに、泣いていいよと言う番だ。
それに――、
「――俺がいないと、みんなを救えないんだよ」
朔磨はそう言って、泣き笑いのような困った顔を浮かべた。
英雄思想とか、そういうものじゃない。けれど、今まで見てきた表情が、思い返せば何だか悲しいものばかりだったから。
いい加減に、みんなの笑顔が見たくなったのだ。
「……はッ」
滝川が、血が混じった笑い声を吐く。
「馬鹿にしてるだろ?」
「そうだな……はァ……馬鹿に、してる」
その表情は、血塗れなのにどこか晴れやかで。
「お前……つまんねえな」
「誉め言葉として受け取っとく」
「ああ。……じゃあ」
朔磨は銃口を静かに滝川へと向ける。
彼はそれを見て、ゆっくり瞼を落とした。
「「また、地獄で」」
――こうして惨劇は、人知れずひっそりと終局を迎えたのだった。




