第一章14 『死屍累々』
101011 四月十三日 四時五十一分
四角い枠から覗く青色の空と、無味乾燥な灰色の壁。朔磨は廃墟の中で一人、ぼうっと空を眺めていた。この動作をすることが、最近は極端に多くなった気がする。
「何ボケッとしてんのよ」
刺々しい言葉に細めていた目を開くと、もう見慣れたガスマスクが外からの光を黒く反射している。彼女の手には、一冊の小説ほどの厚みを持った書類の束がぶら下がっている。その厚みが、これからの疲労を冷淡に宣告しているようで、ついため息が漏れてしまう。
彼女が不機嫌そうに顔を歪めたのが分かったので、朔磨はがたりと音を立てて大げさに椅子から立ち上がる。
「うし、始めるか」
「一仕事ってほど軽いもんじゃないって分かってる?」
「分かってる分かってる」
心無い言葉に彼女は返事をせず、代わりに持っていた書類を投げて寄越した。朔磨はそれを慣れた手つきで受け取り、ばらりと乱雑に中身をめくってみせる。それと同時に頭を抱えたい衝動に駆られるが、それはもう既に前回やった。今回は面倒くさいからいい。
「……座標、十何個か増えたな。こっちの人数は足りるのか?」
「今のところは余裕。まだ見落としがあると思う?」
「予想ではまだ沢山ある。願望では無いと思いたい」
「じゃああるわね」
だろうな。朔磨は書類に視線を落としたまま歯痒さを奥歯で噛みしめる。紙の一枚一枚には、右上に小さな顔写真が貼ってあった。
よくもまあ、これだけの人数を。
苛立ちと倦怠感が喉の内をやたらめったに動き回るものだから、正直なところ一刻も早く書類という名の現実から目を背けてしまいたかった。
「……ゲロ吐きそ」
そういえば今日は何回目だっけ。……ま、どうでもいいか。
***
10010 同日 一時三十五分
「だから、連れて行くわけないでしょう。何をされるかわからない」
「予想はしてたけど、俺ものっすごい信用ないね! 泣きたい!」
朔磨は廃墟の中、ガスマスクと中身のない会話を繰り広げていた。「アジト連れてって?」という朔磨の問い。答えはもちろん、「ダメ」の一点張りだ。両手をこすり合わせる朔磨に、ガスマスクは依然として態度を崩さない。仁王立ちの姿勢から、揺るぎない意志が汲み取れた。
ならばと、朔磨は人差し指を立て提案のポーズをとる。
「よし、じゃあこうしよう。俺が目隠しと耳栓をする。そしてお前が俺を根城へ連れていく。どうだ、悪い話じゃないだろ」
「はあ……しょうがないわね。ちょっと目を瞑ってなさい」
「お、わかってくれたか。俺は信じてたぞ。はい」
何でも受け入れるという風に両手を広げて目を瞑る朔磨。まだかまだかと待っているも、朔磨の身には一向に何も降りかからない。そろそろ心配になって、薄めでも開けてみようかと思い始めた頃。
「おーい、ちゃんといるかーい? ……ごうへっ!!」
恐る恐るの呼びかけの後、返事とでも言うように首筋に鋭い痛みが走った。同時に、意識はすうっと何処かへ去っていってしまう。瞬間的なその痛みを、朔磨はよく覚えている。
――このやりとりが数回目なんて、とてもじゃないけど言えないな。
薄れている意識でも、それだけ思うには十分だった。
*
目が覚めると、朔磨は椅子に拘束されていた。この不自由さも、首筋の痛みもすべて予定通りだ。喉までせり上がってくる言い難い感情を唾とともに飲みこんで、辺りを見回す。予想はついていたけれど、ガスマスクが目の前で朔磨を見下すように立っている。目が覚めたばかりだからか、視界がいくらかぼやけていた。
「お目覚め?」
「お前、いきなりスタンガンとかな……」
最早お決まりと化した悪態をつく傍ら、以前連れてこられた場所と違わないかを再確認。似たようなモニターもある。隅に腕組みをしたドクターもいる。大丈夫だ。一致している。ひとまず安堵の息を漏らした。
「ま、とにかく無事に来れたことだし、早速だけどボスと会わせてくれないか」
あまりにも軽い口調で言われたのが疑問、というよりは不快だったのか、ガスマスクは怪訝な顔をする。
「はあ? 性急過ぎるでしょう。ほら、物事には――」
「物事には順序がある、だろ?」
食い気味の朔磨の言葉に、ガスマスクはピクリと体を揺らす。わかっている。彼女が言わんと欲することは、当人の口から何度も聞いてきた。それこそ、一言一句違わず言えてしまうくらい。朔磨は大きく息を吸い込む。
「なぜ久遠朔磨はお前らに会った? お前らと協力関係を結びたいからだ。なぜ協力関係を結びたいのか? これから起こる大規模テロを止めるためだ。大規模テロとは? この街或いはそれ以上の範囲に及ぶ爆発だ。協力するうえでのそちら側のメリットは? 久遠朔磨、つまりはお前らが『バグ』と呼んでいる存在と友好的な関係を築けることだ。ボスと話す必要は? 組織全体を巻き込んでの騒動になる可能性があるからだ。久遠朔磨が知っていることは? お前らが俺に開示するであろう情報の恐らく、全てだ」
吸い込んだ息を吐き切るように、朔磨は言い澱みなく『要素』を羅列する。申し訳ないが、ガスマスクと、中身のない質問ごっこをしている暇はない。周回してプレイしたゲームでも、覚えてしまったチュートリアル説明はボタン連打で飛ばすのが常だろう。
「台詞減らしちまって悪いな。……さ、ボスを寄越せ?」
朔磨に疲れ切ったような優しく鋭い笑みを向けられ、ガスマスクは何も言わずに準備を始めた。最早言わずともすべて伝わると思っているのかもしれない。実際その通りだ。恐らく、モニター越しに会話させる気だろう。その間、一人の人物が朔磨へ向かってつかつかと歩み寄る。顔を上げると、意地の悪さを前面に押し出したような笑みを浮かべる白衣の童女が、その小さな両手を叩いていた。
「ぶぅらぼぅ、面白いもん見せてもらったぞね」
「相変わらず気持ち悪い表情してるなあ。もっとふわっとした可愛い笑顔出来ないの?」
「おんしも似たようなもんじゃろうて。ようそんなことが言えるもんじゃ」
「うーんナンセンス。ドクターと俺は本質的に平行線だ。形は似てても交わることなんて永遠にない」
「人が何かを断言するんは、そやつがそれを信じようと必死ちゅうことじゃ。覚えとけい糞餓鬼」
血の色に光る隻眼が、またも面白そうに細められる。ドクターと話すのは、なんだか精神を直接舐られ侵されているような錯覚に陥るので、嫌いだ。この童女の言葉の一つ一つは否応なく吐き気を増幅させる。勿論、まず彼女が朔磨にいちいち絡んでこないのであればそんな嫌悪感も感じずに済むのだが。
ドクターから目を逸らすと、ちょうどガスマスクのほうの準備は終わったようだった。モニターがノイズとともに画面を映し出す。
「……やあ。初めましてだね、久遠朔磨くん」
「あんたにとってはな」
映し出されたのは、薄暗い部屋とその中央で椅子に座る、ガスマスクをしたスーツ姿の男だった。朔磨はそれを見て、あからさまにげんなりした顔をする。
「どいつもこいつも流行りのファッションみたいにガスマスクつけやがって。俺はこいつをガスマスクって呼んでたんだけど。お前はどう呼べばいいんだよ、ガスマスクその二?」
「威勢がいいな。私の度量でも量るつもりか?」
「どうだろうな。とりあえず二人を部屋の外に出してくれないか?」
「とのことだ。二人とも、少し席を外してもらおうか」
男、ボスは特に嫌がる様子もなく二人を外へと追い払う。ドクターは欠伸をしながら、ガスマスクは不承不承といった感じで扉をくぐった。扉の閉まる音が響き、部屋は束の間の静謐に満たされる。先に口を開いたのはボスのほうだった。
「話は聞いていたよ。君が『バグ』か」
ボスは興味深そうに顎に手を当て朔磨を見やる。
自分が『バグ』という存在だということを朔磨が知ったのは、数日……数回前だ。ガスマスクが会話で漏らしたのを聞いたのだ。その『バグ』という言葉が彼らにとってどのような意味合いを持つのかは朔磨のあずかり知るところではないが、良い意味でないことだけは確かである。
「そうだ。知ったなら、それ相応の対応をそっち側にもして貰いたいところだな」
「私もそれは山々だがね、如何せん立場上、人をそう簡単に信じれないんだ。どうにか私に君を信じさせてくれないか」
頬杖をついて試すようにふんぞり返るボス。こうしてみると確かに元締めとしての風格、そして余裕がその態度に満ち満ちているように思えた。しかし朔磨は、それを内心鼻で笑い飛ばす。いいだろう、その余裕がお門違いだということを教えてやろう。
「悪いが、違うね。ボス、あんたに『俺を信じるか信じないか選ぶ』ことはできない。あんたは、『俺を信じるしかない』んだよ」
一瞬、マスクの奥、ボスの瞳が細められるのが見えた。
「……何が言いたい?」
声色は変わっていない。しかし何らかの感情は伴った。朔磨はそれを敏感に感じ取る。いつからかその繊細な動きを読みとる感覚が鋭敏になってしまったらしい。まあしかし、感情が揺れているのはボスだけではない。朔磨は煩く響く鼓動を抑えるように口を歪め、仮初めの余裕をつくりだす。
「では俺が断言する根拠を示してやろう。俺が『バグ』だとわかっているうえでのこの待遇は、正直異常だ。まだ俺を始末せず洗脳なんかにも手を出していないところを見ると、あんたらは俺を『合意の上で』利用するつもりなんだろうと推測できる。或いはそうせざるを得ない状況だ。だから敢えて、拘束っていう中途半端な手段を貫いてる。あとは簡単な話だよな。もし俺がここで『協力しなければ今後必ず組織の敵に回る』とでも言ったらどうなるかな」
「……続けてくれ」
ボスは両膝に腕をかけ、前屈みになって朔磨の口上に耳を傾けていた。その言葉に純粋な好奇心が乗っていることがわかり、反射的に少し眉をひそめてしまう。脅しとしての効果が薄くなるのだ。最初から脅せると期待してなどいないが、ある程度の凄味はあった方がいい。
けれど話の内容は変わらないのも事実。朔磨は表情を戻し話を続ける。
「絶好のチャンスだとは思わないか? あんたらが欲している『バグ』という手駒が、手を貸せというこれ以上なく安い条件と引き換えに組織のものとなると言ってるんだ。あんたら猫が唯一俺に差し出さなければいけないもの、それが『信頼』だ。あんたらに今足りないものは、俺を信じる勇気なんだよ」
再び流れる沈黙。もう朔磨に言うことはない。あとどれだけ朔磨がまくし立てようと、目の前の彼次第で状況はいくらでもひっくり返る。言いたいことを言い切った朔磨に、少し間を置いてから、ボスは偉そうにスローな拍手を送った。その仮面の奥の表情には、どうやら少し驚きが混じっているようだった。
「……これはすごい。まるで君にだけ見える台本でもあるかのようだな」
「ひょっとして皮肉で言ってんのか?」
図星だから居心地が悪い。朔磨が苦虫を噛み潰したような顔をすると、ボスは含み笑いでそれを小馬鹿にする態度だ。ボスは立ち上がる。
「まさか。君の勇気を称賛しているだけさ」
「勇気、ねえ……」
朔磨のそれを、果たして勇気と呼んでいいのだろうか。朔磨が本当の意味で勇気を持っていたならば、物語はもっと早く進んでいたかもしれない。いずれにしろ、そんなものは後になってつくものではない。村人は急には勇者になれない。しかし強力な鎧と武器があれば、或いは。今朔磨の置かれている状況は、そういうことだ。
「で? 結局協力すんのかしねえのか。どっちだ……早く『決断』しろよ、ボス」
「……決断か」
「そうだ。俺を信じるか、信じないのか。『バグ』を味方につけるのか、敵に回すのか。二者択一答えは一つだ。因みにあんたに選択権はない」
「随分と意地の悪い言いようだ。……そうだな」
仮面の黒い双眸を瞬きせず見据える朔磨を、ボスはじっと、舐め回すように見ていた。その目は、値踏みをする冷血漢のようでもあったし、商品を買うかどうか迷う客のようにも見えた。三度もの沈黙は流石に神経を擦り減らすものがある。乾いた空気は静けさに呼応して徐々にぴりぴりとした張り詰めたものとなっていく。息を呑む音を出すことさえ憚られるような時間の後、ボスはゆっくりと立ち上がった。
「……いいだろう、合格だ。君の目的に、できる限り尽力させてもらおう」
朔磨をまっすぐ見据え、ボスは紳士の一礼をした。朔磨は滝のようにどっと溢れる汗を無表情の裏に隠して、毅然とした態度を崩さぬよう心掛けていた。
モニターに映るその礼ひとつにどれだけの時間と思考を要したのか。それはあまり考えたくないことだ。
しかし言うなればこれは第一関門のドアノブに手をかけたところ。マラソンで言うならスタートラインだ。朔磨は息を切らしながら、それでも辛うじて舞台の入口へ辿り着いた。
「……じゃあ、早速だけど調べてほしいことがある」
始まりを告げるピストルの音は、まだ聞こえない。
***
10101 同日 二時八分
その場所には音がなかった。代わりに、謎の重苦しい圧迫感が、建物の中を満たしていた。
朔磨はそれに逆らい、一歩ずつ、コンクリートの階段を登っていく。まるで彼だけがこの場の理から外れているかのように、目的地へと進める歩を緩めない。
今の彼にはまったくといっていいほど躊躇という要素が抜け落ちているらしい。それを欠如の享受というか、洗練された姿というかは自由だが。きっとその二つは、どちらも事実で、どちらも嘘なのだから。
しかし朔磨がそんな呵責に苛まれることなど当然あるわけもない。彼の足は止まらない。
しばらくして、朔磨は最上階の、開けた部屋へたどり着く。ごくわずかに差し込む光が、辛うじて今が昼ということを教えてくれる。薄暗い部屋の奥から、かちゃり、かちゃりと機械めいたもの音が聞こえてきた。それは次第に大きくなっていく。どうやら何かが、近づいてきているようだ。薄い闇の中、徐々にその形が明確になっていく。
「……よお。こいつは、変わった客だな、オイ」
『彼』は、暗闇の中から手を挙げた。それは降参のポーズにも、綽綽とした静かな威圧にも見えた。
「……で、何の用だ? ガキ」
「あなたと、話をしに来た」
*
滝川恭介。五年前に日本都市部でビル爆破事件を起こす。尋常ではない死傷者を出し、逃亡するも捕まり服役する。しかしおよそ一か月前、謎の脱獄を果たし、刑務所から逃亡。現在も行方は知れない。
「そうか……そこまでわかったか。詳しいことは言わねえだろうし聞かねえが、ここに来たってことはお前、ただのガキじゃねえってこったろ?」
大当たりだ。そして馴れ合う気もさらさらない。朔磨のだんまりを滝川は肯定と捉えたらしく、言葉通りそれ以上追及もしてこなかった。
「じゃ、お望み通り、少し話でもするか。オレもお前に、少なからず興味はあるんだ」
どっこいせと近くの椅子に腰かける滝川。朔磨もそれに倣い、近くにあった脚の錆びた椅子へ腰を下ろした。
向かい合ってみると、暗いとはいえその表情が細部までわかる。彼の顔は焼けただれ、見るも無惨な悲劇の怪物のような顔面をしていた。普通なら声を出して反射的に目を逸らしてしまうところだろう。もっとも、もうそんなことで憶する朔磨ではない。
「俺は、久遠朔磨。早速ですが、あなたたちがやろうとしてることを、俺はもう既に知ってる」
朔磨がこの場所に来た理由。『猫』が録画していたビデオに映っていた最初の爆破の発生地点、そこに、この男が立っていたのだ。目をつけて調べてみれば、あの事件との関連性がぼろぼろと面白いように出てくる。大当たり、というわけだ。
「ふうん、そうかい。……ところで、お前は誰なんだ?」
「は?」
既に名乗っただろう。人の話を聞いていないのか、おちょくっているのか。朔磨は顔を顰める。
「ああ、気にしないでくれよ。オレはちいっと独り言が癖でな。自問自答なんてしょっちゅうさ。関係ねえと思ったら聞き流してくれりゃあいい」
「……そうですか」
これはまた、距離が掴めない野郎が現れたものだ。というかまず、突然来た敵にこうも飄々と接せるところからもう底が知れないのだ。ふつう狼狽えるとかするだろうと高をくくっていただけに、朔磨は内心の動揺を抑えるのに精いっぱいだった。この男の考えが、全く読めない。
だがしかし、朔磨とて無駄に日々を繰り返してきたわけではない。ドクターという人間というカテゴリに分類するのが憚られるほどの狂気と欠かさず顔を合わせてきたのだ、それなりに耐性はついているはずである。よくよく考えてみればあれだけのテロを起こそうとする者だ、常識的な人物なわけがない。
「お前がどういうヤツかによって、オレの対応が変わってくるもんでね」
「どういう意味です?」
「つまらない人間なら、それまでさ。取るに足らねえ、面白みもねえ奴なんて話してて楽しくないからな」
「俺はどっちか聞いても?」
「お前は、そこそこ、面白そうだ。なんか、ちげえからな」
随分抽象的な言い様だが、そのように言うからには話はしてくれるということだろう。ひとまず安心だ。この調子だと、脅して情報を引き出すのも難しそうであるし、まず意識的な会話の承諾を得ないことには情報もクソもない。
「お眼鏡にかなったようで何より、かな」
「けどなあ、なんか、足りねえな、お前」
「……足りない?」
がたり、と滝川が椅子から腰を上げ、朔磨に詰め寄ってくる。くんくんと匂いをかいだり、じろじろと見つめたりしてから彼は、勢いよく人差し指を朔磨に向けそう言い放った。足りないとは、何が。いや、まずどういう意味だ。意味不明な文言を前にたじろぐ朔磨を見て、滝川は再び腰を椅子へと落ち着ける。
「お前は、完成された偽物だ。つまりは偽物が、仮初めの作り物が独り歩きしてる。そんな気がするなぁ。いけないぜ、いけない。お前を、本物を、箱に入れて蓋をしちゃあそりゃもったいねえってもんだ」
滝川は両手を広げ、本当に心から憐れむような様子で嘆き悲しむ仕草を見せる。なぜだかわからないが、とても不快感を煽られる仕草だ。ドクターが相手の精神に直接恐怖、畏怖、狂気を植え付けるような人物だとすれば、この男は相手の精神を自己の価値観で勝手に見透かし、それを彼の色に染めようとしてくるような人物だ。そのせいか、彼の言葉にはどこか妄信めいたものが感じられる。
「……何のことか、さっぱり」
「本当に、わかんねえのか? いやそんな筈はねえよなあ。そうさ、お前は気づいてないだけだ。偽物の生活が長すぎて、自分を見失ってるだけだ。普段から嘘をつきすぎて現実と虚構の区別がつかなくなった虚言癖のヤツみたいになあ」
「……ッ」
まずい。何か、背筋を這い上る嫌な感覚がある。こいつのペースに乗ってはいけないと、本能に訴えかけられていた。朔磨が信じてはいけないこと、それを『前提』として信じ込んでしまっている者の言葉だ。理解できない、いや、理解してはいけないと直感でわかった。このまま滝川の言葉に耳を傾けていたら、彼の思うように支配されてしまうのが目に見えている。
舌を噛み、朔磨は無意識に、話を別の方向へとずらそうとする。
「心理テストとかしようとでも? 俺が聞きたいのは、これからのテロに関してのことです。そんな時間は――」
「あるんじゃねえか? 少なくとも、お前には」
呆れたポーズを取ろうとしたところで言葉を遮られ、朔磨は目を剥く。
彼の顔は、元々の醜さとは別にとても卑屈に歪んでいた。滝川は目を閉じて、訥々と語りだす。
「昔なあ。知ってると思うが、オレ、捕まったんだよ。ある男にな。そいつは刑事じゃあねえ。けど、オレを捕まえた。オレのやることなすこと、全部そいつに先回りされるんだ。殺そうとしてもそいつは、苦痛を思い出すみたいな顔して軽々オレの攻撃を避けるんだ。マジで焦ったよ。こいつ、未来でも見えてんのかよって本気で思った。そいつの目が、オレは未だに忘れられないのさ」
朔磨は言葉を発せない。本を読み聞かせるみたいに流暢に喋る滝川を見て、固まっていた。話は逸れた。しかし、逸れた話の内容は朔磨が決して無視できないものだ。
だって、そんなの、まるで。
滝川は片目を薄く開いて、鋭い眼光を朔磨に浴びせる。
「……お前、そいつと同じ目えしてるぜ?」
覗く彼の瞳の内側には、どこまでも陰鬱な懐古が宿っていた。それは憎悪であって、でも、別の何かも混ざっている。一体その感情とは何なのだろう。冷や汗がとめどなく背中を走っていくのを怖気とともに感じた。
話に出てきたその男は恐らく、朔磨と同じだ。朔磨と同じ、世界と『同調』した人間だ。滝川の話が嘘かどうかは知らないが、朔磨がいるこの状況でこんな法螺話をわざわざ引き合いに出すわけもないだろう。しかし滝川は、『同調』のことについては詳しくは知らないようだ。単に、同じ匂いがするというだけだろう。そうだとしても、勘がいいなんてものじゃないが。
「図星かぁ。オレの勘も捨てたもんじゃねえな」
けけけ、と嘲るように笑う滝川。朔磨は動揺を心の奥へ追いやって、汗を拭って顔を目の前の男へと向ける。
「……もしそうだとしたら、一刻も早く俺を殺した方があなたにとって都合がいいんじゃ?」
「いや? そうでもねえさ。たとえお前が『そういう存在』だったとしても、お前はあいつには敵わねえしな」
「……あいつ?」
朔磨の見知らぬ誰かの登場に、思わず首を傾げる。滝川の代わりが、いるというのか。こいつが黒幕ではなかったのか? 言われてみれば、朔磨は滝川がテロの首謀者と思い込んで情報を聞き出しに来たが、他の人物が首謀者の可能性などは考えていなかった。いや、或いはそんなこと考えたくもなかったのかもしれない。どうかこの男で、滝川で終わってくれと、そう密かに心の内で願っていたのだろう。肝心なところでいつも期待に応えてくれない。現実とは往々にしてそういう意地の悪いものだったことを忘れていた。
「オレも本当の名前は知らねえよ。だから勝手に三人称で呼んでるんだ」
「それが、この事件の黒幕……?」
言って、『この』ではなく『これからの』だったことを思い出す。滝川は特に気にすることなく質問の答えをゆっくりと口にする。
「そうだなあ……それはわからねえし、何とも言えねえ。ただ一つ、オレの口から言えるとするなら……あいつは、本当の『バケモノ』だよ」
彼が言ったその『バケモノ』という言葉には、色々な感情が込められていた。
嫌悪? 畏怖? 尊敬? 恐怖? その感情を、正確に推し量れるものは誰にもいない。恐らくは、言葉を口にした当人の滝川でさえそれができない。一体何を以って彼がその人物を『バケモノ』と評したのかはわからないが、言葉に宿った重みが、その人物が滝川にとってただならぬ存在であるということを如実に表している。
朔磨は唾を飲み込む。すると、滝川は徐に息を吐いて天井を見上げ、
「……狂気って、なんだと思う?」
わけもわからぬ問いを吐き捨てるみたいに投げかけてきた。
「……?」
「オレは、昔から不思議に思ってたんだよ。何で悪役は、悪役なんだろうってな。一体何が、悪を悪たらしめてるんだ? で、一つ思いついたんだ。人っていうのは、自分たちと違う人間を、『悪』っていう言葉に当てはめて排斥したがってるんじゃねえかって。簡単に言えば、異常者。そいつらが存在していることが、人類はどうしようもなく許せねえんだよ、なぜか。……けど、忘れちゃあいけないよな? 皆がそいつを異常者って思ったなら、そいつも同じように、皆を異常者だって思ってんだ。相手が数と大義を盾に我を通そうとするっつってんなら、こっちも意地張ってそれに抵抗したくなるもんだ」
「……何が言いたいんです」
話が見えない。これでは滝川が一人でボールの壁当てをしているのをただ見ているだけだ。朔磨は別に、滝川の感傷に付き合うためにここへ赴いたわけではない。一方的に語るばかりで、一体何をしようと。朔磨の疑念をよそに、滝川はますます興が乗ってきたように雄弁に喋りつづける。
「つまり、狂気だ。異常なものが持つ思想を、人は狂気って呼ぶ。そこで俺は考えた。狂気を信念と言い換えられるとするなら、そっから出る行為は『悪』かもしれねえけど、『間違い』じゃねえんじゃねえか? って。オレがこれからやろうとしてることも、な。くくっ……面白いよなあ? ――お前もそう思わねえか?」
「…………………………ぁ?」
話を理解するのが、遅れた。処理速度がどうとかの話じゃない。単純に、信じたくなかった。三回ほど彼の言葉を頭の中で反芻し、ようやく彼が言わんと欲することを薄っすらと理解できた瞬間。
――頭の奥で、何かがぷつりと切れる音がし、気づけば、目の前の男の胸ぐらを掴みかかっていた。
「……あれが、あれが間違いじゃないだと……? 狂気は、信念って言い換えられるだと……? 何が面白いんだクソが……おい、なあ、教えてくれよ。一体お前、何がおかしくて笑ってるんだよ。 答えろよ何笑ってんだよ!! ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ……殺されてえのか……!? ああ!?」
淡々と語られる理不尽に、さも面白そうな嘲弄に、朔磨の内側から、怒り、憎悪、そういった感情が思い出される。溜めこんでいたものが、激情として一気に爆発した。
冗談じゃない。あの、多くの人が炎に殺される殺戮さえも、正しい一つの答え。そんなことが、許されるはずがない。久遠朔磨が許さない。その身勝手な狂気の被害者は、死ぬべくして死んだというのか。誰かが手にしようとしている未来を突然にして奪い暗闇に突き落とす権利など、誰にもない。そんなクソみたいな話が、あってたまるか。
あの和菓子屋の少女は、家族は、未来を持っていた。未来を見ていた。それに向かって、手を繋いで歩いていた。その明るい道が、突如として業火に焼き尽くされる痛みを、絶望を、この男は踏みつけにして嘲笑って。
朔磨が怒るのも当然、この男は朔磨が憎んでやまないあの惨劇を引き起こした張本人の一人だ。分かり合えるわけがない。ましてや共感などできるはずもない。最初から、無理矢理にでも情報を吐かせたのち有無を言わさずぶち殺しておくべきだったのだ。今、朔磨は拳銃を持っている。これまで何回か、引かざるを得ない機会があった。しかし今回は、少し違う。引かざるを得ないとか、そういうのじゃなしに、この憎らしい悪漢を今すぐこの手で葬りたい。どんな手段でもい。絞殺か? 刺殺か? 銃殺か? どうでもいいから、早く自分にこの人畜生を殺させろ。はやく、はやく――。
「まあ、落ち着けよ」
声にハッとしてみると、滝川は自分の首に掴みかかる朔磨を見て笑っていた。それも、嘲笑の類だ。朔磨は怒りよりも先に、困惑を覚えた。滝川は人差し指を朔磨の額にぐりっと押し付ける。
「落ち着けって、これが落ち着いて……」
「よおーく考えてみろ、久遠朔磨。お前、怒ってんだろ? どうしようもなく怒ってんだろ? オレに対して」
「なに当たり前のこと言ってんだ、そんなの――」
「だったらどうして、オレと最初に会ったときにこうしなかった?」
「…………は?」
「だあかあら。怒りっていうのはどうしようもねえほどの激情なんだよ。それを抑えられるヤツはいても、隠しきれるヤツはまあいねえ。オレはさっきお前と会ったとき、お前にその激情を感じなかった。よおーく考えて、思い出せ。自分が何を思い、その結果どう行動したのか」
滝川は、力の抜けた朔磨の手を振りほどこうとしない。ただ、朔磨が答えを出すのを待っている。いや、観察している。
こんな男の戯言など気にするな。こんな男に自分の何がわかる。そうだ、もっと憎悪を。怒りを呼び起こせ。こんなちっぽけな疑念など埋め尽くしてしまうくらいの――。
――待て。
待て、久遠朔磨。何かがおかしい。
朔磨は、胸の内でゆっくりと、自分の心を反芻する。
『朔磨の中から、怒り、憎悪、そういった感情が思い出され――』
『そうだ、もっと憎悪を。怒りを呼び起こせ。』
そう、怒りとは、憎悪とは、忘れた頃に思い出すものだっただろうか……意図して呼び起こすものだっただろうか?
根本の疑問だ。しかしそこから派生する疑念に、朔磨は言いようもない恐ろしさを覚える。
久遠朔磨は、この男を、あの惨劇を、憎んではいなかった? 恨んではいなかった? 恨みつらみを、自分さえ騙してその手に握っていただけだった?
「…………あ……?」
いや、違う。そんな筈はない。確かに朔磨はあの炎を憎んで恨んで、今、それをなかったことにしようと足掻いているのだ。でも、でも自分は、この男と会ったとき、この男の存在を知ったとき、どうだった? その憎しみを抱いたか? ある種の、手掛かりを掴んだ嬉しささえ感じていたのではないか? そんなものまるで、推理ゲームのプレイヤーではないか。着脱式の憎悪など存在しない。明確な悪を止めようと行動しているのを、『憎んでいる』と錯覚していただけだったとしたら。
そこまで考えたところで、朔磨はあることに気づく。滝川が言っていた『偽物』とは、朔磨の憎悪のことだったのだ。偽物は決して、本物にはかなわない。内に潜む本物は纏った蓑をジクジクと侵蝕しいずれ喰らいつくしてしまうだろう。朔磨の纏っていた蓑もたった今、侵蝕されようととしている。滝川が入れた裂け目から、溢れんばかりに黒くて気持ちの悪い、しかし親近感を感じずにはいられない何かが這い上がってくる。そのことに本能が恐怖しているということは、つまり。つまりだ。
音がした。朔磨の信じていたものが、崩れ去った音だ。あの叫びは偽善だった。自分の憎しみは、偽物だった。戦っているつもりだった。皆の憎しみを一身に背負って、抱えて、その重さに潰れそうになりながらも苦し紛れに歩みを続けているのが自分だと思い込んでいた。違ったのだ。朔磨は暗闇の中倒れこんで、皆と一緒に悪へ立ち向かう悲劇の英雄になった夢を見ながら惨めに這い蹲っていただけだったのだ。
息が荒い。耳鳴りがする。吐き気が止まらない。滝川を掴む手は先程とは一変、力が入らないばかりか、恐怖に小さく震えてさえいた。
「お前がオレたちみてえなのを憎むのは、そうしないと存在を認めてもらえないからだ」
「……違う」
知っている。この男が言っていることは正しい。間違っているのは朔磨のほうだ。
「怖かったんだろ? 皆から否定されるのが。皆が憎むものを同じように憎めば、自分も皆と同じところにいられるって、そう思ってたんだろ?」
「違う……ちがうッ!!」
それでも、今の朔磨は、声高に闇雲に、『自分』を吠えることしかできない。滝川が言っていることを肯定した瞬間、朔磨は壊れてしまうだろうから。抗えない真実から、息の根も止まるまで逃げ惑うしかない。
「お前の覚悟なんて、決意なんて、信念なんて、そんなもんなんだ。こうして簡単に壊しちまえるくらいにな」
「お前に、お前なんかに俺の何がわかる!?」
わかっていなかったのは、自分だろう。わかっていないのは、自分だろう。わかろうとしないのは、自分だろう。悪戯に感情を押し隠したまま、それでも何とかなるだろうとかふざけたことを心の隅で唱えていたのは他でもない自分自身だ。そんな偽物など所詮、砂上の楼閣どころか砂の楼閣だったのだ。少しの突風で砂粒はすべて風に舞ってしまう。そんな簡単なことに気づけなかったのも、自分以外の何者でもない。
「わかるさ、なんでもな。じゃあ逆に聞くが、なんでオレが、こうもお前のことを理解できると思う?」
「やめろ……もう、聞きたくない、やめて、やめて、お願いだから、やめてくれ……」
耳を塞いでも、心に蓋をしても、その言葉はぬるりと朔磨の内側に入り込む。まるで、元からそこにあったものがようやく目を覚ましたように。
「オレとお前は、同じ――」
「やめろおおおおおああああああああぁぁぁああぁッ!!!!!」
ばち、ど、ぱ。
一瞬。空気を切る乾いた音が響いた。朔磨が手元を見ると、何やら黒く光る物体が握られている。そのフォルムに、見覚えがあった。見上げれば、吹っ飛んだ滝川の腹辺りに、赤黒い染みが出来ている。そして彼の口から、ごぽっと大量の血が吐き出された。
「……え……?」
朔磨は、無意識のうちに持っていた銃の撃鉄を起こし、滝川に向かって引き金を引いていた。そこで始まる、一瞬にも一生にも思えた思考停止。実際は数秒。そしてその停止と重なるように再び滝川の言葉が滑り込んでくる。
「かっ……は……予想通りだぜえッ……! そうじゃなきゃあ面白くないもんなあ! やっぱりお前はおもしれえよ!」
滝川は絶えず溺れてしまいそうなほどの血を吐きながらも、してやったりといった感じで朔磨を下から見下している。なぜかは誰も知る由もないが、もしこの二人の間に決する雌雄が存在するとすれば、どちらに軍配が上がったかはもうどうしようもないほどに明らかで。
「……あ、ぅ」
「今のお前にゃ、どこにも、行く場所なんて……ねえ、よ」
彼はその台詞だけ吐き捨てて、がくりと首を落とした。今まで散々喋りたい放題だった憎たらしい男の最後の言葉にしては、それは余りにも短く、そしてより痛烈に朔磨の心臓を傷つけた。感情というのは一度溢れ出せばもう止まらない。傷口が大きければ大きいほど、醜く汚く煩くどす黒い『本物』がごぽりごぽりと絶えることなく、寧ろ勢いを増して流れだすのだ。今まで溜めこんでいた膨大なエゴが、八つ当たりが、後悔が、弱音が、苦しみが、痛みが、恐怖が、妄信が、過信が、嘘が、本当が、彼の言葉と死を皮切りに心身諸共罅ぜる勢いでぶち撒けられる。
――怖い。こわい。コワイ。血が、血が、こわ、い、流れる、むね、ここ……痛い。いたいいたいこわいいたいたすけて、だれかおれのなかからなになになななにかでてく、だれ、だれ? だれだれだれだれ、しぬしぬしんだしんだあははああああああたすけこわいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああう、ぁ、うっげおえぇぶふ。
……ひ。
…………ぁ。
……………………ゆるして。
これ以上なく醜悪な吐露の後、朔磨は叫び、駆けだした。心の中では未だ、内に在る闇が姦しく耳元で歌を歌っている。悲しく愉快な呪いの歌だ。今更、どこへ向かおうとしているのか。それは彼自身もわかっていない。とにかく、ここから離れたかった。自分の憎悪を殺す悪魔がいるこの場所を、一刻も早く立ち去ってしまいたかった。それが本当は自身の中に在るとも知らず、一心に。
どこへも行けない彼は、涙を流して、絶叫しながら、ありもしないどこかへ向かって走っていく。




