第一章12 『いってきます』
「猫……?」
残念ながら動物の猫に関しての知識は皆無だ。ペットを飼ったこともない。
「そう。目的、根城、関わる人物、全てが不明。霧がかかったように不透明なその存在は、いつしか猫と呼ばれるようになった。実をいうと目的の部分は私も二割がたしか知らない。だから聞かれても答えられないわよ」
「なんで猫なん?」
「知るか」
「ちょおっと口悪くなってますよお姉さん……」
そこは特に重要ではないと思うし別に構わないけれど。それより、組織の一員であるガスマスクが目的を知らないことのほうが問題だ。ではなぜ彼女は組織に服従しているのか。多分彼女は答えないのだろう。
「不明ってところも教えてくんないんだろ、どうせ」
「そうね、もうあんたに話せるだけの情報は全部話したわ」
「渾名しか教えてもらってないんですけど!?」
半決定だから大丈夫、みたいなニュアンスを漂わせていたではないか。結局判明したのは霧がかかった存在の「霧」の部分だけだ。ドクターが可笑しそうに腹を抑えているのが無性に苛立ちを誘う。
「安心しなさい。他にも暇がつぶせそうなの持ってきてるから」
「なんかバスのレクリエーションみたいだな……」
暇だ暇だと騒ぎ立てる男子達に、学級委員の女子が半ば泣きそうになりながら遊びを提供していた。傍から見ていてもあれはきつかった。
「じゃーん」
薄っぺらい小学校時代を振り返る朔磨に、ガスマスクが懐から薄い円盤をかざす。どうやらDVDか何かのディスクのようだ。
「なんだ、それ?」
「見ればわかるわ」
ガスマスクは部屋の端にあるプレイヤーにディスクを読み込ませる。うぃぃん、という機械的な音を立て、上のディスプレイにノイズ交じりの映像が流れ始めた。小さな光がぽつりぽつりと点在している。段々映像は明瞭になっていき、やがてそれが夜の都市だと分かる。どうやら上空から撮影しているようだ。
高校、朔磨の家、ともに網羅しているところから、かなりの範囲だと推測できる。そしてその中には当然、あの、忌まわしき炎の舞台も。
「で、これが何だっていうんだ。そもそもこれ、何処から撮影してるんだ?」
「人工衛星からの映像を拝借してるだけよ」
「合法?」
「あんたそれ本気で聞いてる? そうだとしたら爆笑ものだわ」
「少しでもこの世の純麗を信じたかった俺の心中を察してほしかった」
首を傾げて惚けた姿勢のガスマスクに、「儂がやりました」 とでも言いたげに誇らしさに胸を張るドクター。こいつらを常識というカテゴリに当てはめようとしたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
文句を垂れるのも程々にして、朔磨は再度、痛む首を曲げて画面を見やる。
何の変哲もない日常が、夜を等速で過ぎていく。米粒が動くような人の流れは交差しあい、きっとそこにも、朔磨の知らない物語が溢れている。そんな目に見えない背景らの集合体を人々は表面だけ掬い取り、それを平和と呼ぶのだろう。そんな「平和」に一つ、色合いの違う光が現れる。もちろん都市に溢れる光は様々だが、その中でも不思議な異質さを持った光が、ぽう、と灯ったのだ。
そしてその直後。
その光を中心として歪な円を描くように、巨大な爆炎が夜の都市に顕現した。
「…………ぁ?」
間抜けな声が口の端から零れた。急に発せられた明かりに目を細めるも、その瞼はすぐに驚愕の二文字に持ち上げられる。朔磨はてっきり、少女のいる和菓子屋での一幕を見せられると思っていたし、自分なりにその覚悟も用意したつもりだった。しかし映像は、まったく違う方向から朔磨に息を呑ます。ボディブローを打ってくる相手に対し胴体をガードしていたら、いきなり背後から後頭部を殴られた気分だ。
惨劇は、あの和菓子屋だけでない、それよりも遥かに大きい規模で起こっていた。爆炎は絶え間なく連鎖し、煌々とした波紋を広げ夜の世界を蝕んでいく。そして一つ、炎に包まれた黒い鉄屑が、地を跳ねながら飛んでいくのが見えた。そのルート上に、見覚えのある建物がある。朔磨がどれほど穴があくほど見つめようと、眼力で物体の進行方向は変わらない。鉄屑はその体躯を着実に、終着点へ運んでいき、そして――
「はい、おしまーい」
「……! っは、ぁ」
ぷつりとガスマスクがリモコンを片手に映像を切る。そこで初めて朔磨は、自分が息を止めていたことを知る。冷や汗が額をべっとりと濡らしていた。
「肝が小せえの。男じゃろうて、もうちっとしっかりせい」
「……健全な男子高校生はこんな光景見ねえんだよ、普通」
「どう? 面白かったでしょ」
「最悪のレクリエーションを有難う。死ね」
気分悪し、頭痛し、息苦し。申し分有り余る三竦みにガスマスクを睨みつける。
「あんたが見入ってる間に、上の結論が出たわ」
「やけに早いな。もう少し考えててもいいんだぜ?」
「この天邪鬼。……で、肝心の答えは――イエス」
「ほう。嬉しい限りだけど、保証はどうなる?」
「……呆れたもんよ。そのまま伝えると、「久遠朔磨がこちらが呈する全ての要求を呑むのであれば、こちらも対等な立場で全面協力するとする。この取引の信用条件としては、その一切を既存の信頼に寄せるものとする」ってね」
文言を聞き終えた朔磨は、小さく息を吸い、片目を瞑る。そしてその上の判断とやらに敬意を表し、
「……馬鹿じゃねえの?」
精一杯の罵声を浴びせた。ガスマスクとドクターは怒るどころか朔磨と同じく呆れたように溜息を吐いた。今の文言を分かりやすく言うならば、「協力を仰ぐのであれば、こちらの要求も呑めよ? お前は裏切らないって信じてるから!」ということだ。まるで友人のような親しさである。これには流石に呆れざるを得ない。
「いや、俺にとっては万々歳だけどさ。けどな……」
「うるさいわね。もう諦めて黙って呑み込みなさい。上だって、これまでのあんたとあたし達との応対を見て、信用に足ると判断したの。……それに、これは、ある一つの賭け」
「賭け、だと?」
こんな危険な因子との取引を賭けと言い切ってしまう、その心境が謀れない。ガスマスクは腕を組む。
「あたし達には、時間がない。だから仕掛けた。最後の大博打をね」
「……最後って、何が」
「盛り上がってるとこ悪いんじゃがのう」
ドクターがけらけらと笑い、朔磨の質問を遮り、立ち上がる。そして徐に、床に擦っている白衣の内側から、黒光りする飛び道具を取り出した。歴とした、本物の銃である。銃口を額の中心に向けられるとともに、冷や汗が背中に流れ落ちる。レプリカしか見たことがない朔磨を委縮させるには十分だ。
「わぁお。お子様が持ってるのは感心できないね」
「人生経験は儂んほうが豊富じゃぞ、若造?」
にこりと笑うその顔には、隠しきれない狂気が滲み出ている。いざ「死」という現象と目が合うと、勝手に足が震えだす。その感情を抱いた朔磨は、心のどこかで安堵する。きっとこの震えがなくなったときが、朔磨が狂人と相成ったときだ。
「で、ガスマスク。その要求ってのは?」
「……こちらからの要求は一つ。さっきビデオを見たでしょう。――あの爆発を、阻止すること」
「ふ、そうかあ。阻止、かあ」
存外平凡な言い方に朔磨が天を仰ぐと、ガスマスクは首を傾げる。どうやら男の子の扱い方をよく知らないようだ。まだまだである。
「そういうのはな。――「阻止しろ」って言われるより、「救え」って言われた方がやる気出るんだぜ?」
「……くだんな」
吐き捨てるように言うガスマスク。朔磨は笑う。
「酷いな。まあ、いいや。呑んでやるよ、その要求。……最後におまじない言っていい?」
好きにすれば、と言うようにガスマスクが顎を動かす。朔磨はすうっと息を吸い込み、目を瞑って口を開いた。
「――久遠朔磨は、一人の人間だ」
満足げな朔磨に、ガスマスクは再度首を傾げる。それでいい。これは、朔磨にしかわからない、わからなくていい魔法の呪文だ。この言葉が久遠朔磨を、壊さないでいてくれる。
「……さ、もういいかいの」
「ちゃんと殺させてやるからそんな恍惚そうな顔で見ないでくんない? 怖いんだけど」
今のドクターの表情は、それはもう本能的な恐怖を掻き立てられる猟奇的な笑みだ。軽口を叩けただけ褒めてもらいたい。
「ふむ、失礼。じゅるり。社交辞令として聞くが、最後に言い残すことは?」
言い残すこと。そう、朔磨は死ぬ。脳天を鉛玉でぶち抜かれ、殺される。僅かながら走馬燈が走り、その中には救おうとした少女の笑顔が。それでも言葉が浮かんでこないのは、恐らくそういうことなのだろう。朔磨の大好物のはずである屁理屈でさえ、今は欠片も浮かばない。
朔磨は向けられている銃口と、恐らくはそれ以上の様々なものに、にっこりと笑いかけた。
歩もう。両目を覆って蹲るのには、もう飽きた。
「――逝ってきます」
高らかな笑い声とともに、鮮血が舞った。
這い蹲ってでも、明日を追え。これまでの失敗は、きっとそのためにある。
***
「逝っちまったのう」
「逝っちゃいましたねえ」
白と赤が混ざった部屋で、二人の少女と童女が腰かけている。幼いほうは何やら、グラスにどろりとした液体を注いでいる。薄いピンク色だ。グラスはすぐになみなみとなる。
「どう転ぶと思う? おんしは」
「さあ。なるようになるんじゃないんですかね」
「冷たいのお、おっとっと、零れる零れる」
もう一方の少女は童女の方の光景を見て小さく嗚咽を漏らす。ゆっくりと彼女は顔を背けた。
「儂は楽しみじゃぞお? きっと面白いことになる。勘が言っとるよ」
「どうでもいいです」
少女は瞑目する。彼がいったい、何を為していくのか。それを見届けることは、自分たちにはできない。世界が再構築されるのならば、理論上では次の世界の自分は今の世界の自分と同じなのかもしれない。しかし、理論とかそんなものを抜きにして、もっと根本的なところから、今の自分と次の自分は違えていると感じるのだ。
童女はこくりとグラスを傾ける。彼女の年不相応な艶やかな唇に、液体がぬらりと吸い込まれていく。その様は、さながら命、或いは魂を食しているようだ。グラスが空になり、童女は液体と同じ薄いピンク色に染まった唇を舐め、至福の表情でほう、と生温かい息を吐いた。
恐らくは今、彼女らがいるこの世界も、早々に息を引き取るのだろう。




