一話 薬屋Ocean
夜も更けた、午前0時。
終電が走り去った駅からは、疲れ切った顔をした大人に混ざり、何とも言えない都会の匂いが帰路へと流れ行く。
「コホッ……ゴホンッ、ゴホンッ」
街灯の少ない暗い路地、誰かの咳と共に聞こえるのは、ローヒールがアスファルトを不規則に打ち鳴らす音。
ふらつく彼女に、酒と香水が脇を掠め、追い越していった。
「ああっ……!」
体勢を崩した彼女は、前方へと倒れ込む。
転んだ拍子に硬い地面で膝を擦りむき、肩に掛けていた鞄は歩道に投げ出された。
俯いた彼女は、鞄から飛び出た資料ファイルと通勤定期を拾い抱えると、震えるように息を吐く。
資料ファイルに貼られたインデックスには赤々と記された〆切の文字。
縦に並ぶ、片付きそうもないto doの数。
彼女の視界はたちまち、込み上げた涙で滲んだ。
朝が来れば仕事、仕事。夜が来れば残業、また残業──
労働の中にしか生きていない、毎日。
これが限界というものなのか。それすらも、私には分からない。
資料、会議、報連相、営業スマイル、とりあえずの謝罪。
社会人としてのマナーも、体裁も。もう、どうでもいい。
何でもいいから、温かい布団でぐっすりと、時間を気にすることなく深く深く、眠りたい。
何も分からない、夢の中に沈んでしまいたい──
「ゴホッ、ゴホッ……私、何してるんだろう。早く帰らなきゃ」
立ち上がろうにも、擦りむいた膝はまるで心境を物語るかのようにヒリヒリと痛む。
ゆっくりと膝を立てると、穴の空いたスラックスからは血の滲んだ傷が覗いていた。
「はあ……もう、やだ……」
涙をこぼす彼女はふと、さっきまでは無かった地面に映る影に気がついた。
背後から差す青い光に、後ろを振り返ると──そこには、見たこともないバーのような洒落た店が建っていた。
青い蛍光灯に照らされた看板の文字を、目で追う。
「オー……シャン?」
ギイッ──店の入り口が開き、藍と紫を落とし込んだような綺麗な瞳の男性が顔を出す。
ぼけっと看板を見上げる彼女に、彼は声をかける。
「大丈夫?どうしたの?」
「あ、いや……ゴホッ、ゴホッ。何でもないんです、すみません」
膝を抱える彼女を見た彼は、事態を察した。
「大変、綺麗な膝が!それに、風邪?咳も酷いじゃないか」
「いえ、本当……お気になさらず」
涙の跡を手で覆い隠しながら、急いで立ち上がった彼女に、ドアを開いた男は手招きをする。
「いいから、こっちにおいで。君、運がいいよ。うちはね、泣く子も黙る、万薬の宝庫だから」
おいで、おいでと誘う男の神秘的な瞳に惹かれるように──彼女は『薬屋Ocean』へと足を踏み入れた。
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ここから、彼女たちの物語が始まります。
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