第四章 揺れる心
四月に入り、山桜が咲いた。
谷の入り口に一本だけがある山桜が、ある朝、一斉に花を開いた。淡い桜色の花びらが、山の緑の中でひときわ明るかった。雪永はそれを見て、思わず足を止めた。
桜を見るのは、何年ぶりだろう。雪の深い山に隠れて暮らしていた頃は、桜の咲く頃にはもう谷の奥に引っ込んでいた。人の目を避けるために。桜の季節は、人が山に入る時期でもある。花見や山菜採りのために。
だが今は、立ち止まって見ることができる。蒼馬がいるからだ。
そのことに気づいて、雪永は小さく息を漏らした。蒼馬がいるから——自分は、桜を見ている。たったそれだけのことが、こんなにも——。
「どうした」
蒼馬が後ろから声をかけた。
「いや、何でもない。——桜が、綺麗だと思っただけだ」
蒼馬は桜を見上げた。その表情は、いつもの無表情からは少しだけ緩んでいた。
「ああ。——いい桜だ」
たったそれだけの会話だった。だが、その短い言葉の交換の中に、互いの距離がまた少し縮まったことを、雪永は感じ取っていた。
谷間の一本だけ、岩場の際に立つ古い桜で、誰に見られるでもなくひっそりと花を開いた。白い花弁が風に散り、谷川の水面を流れていく。それを見た雪永は、息を呑んだ。
「きれいだ」
呟きは独り言のつもりだったが、隣にいた蒼馬が聞いていた。
「ああ」
短い返事だった。だが、蒼馬もまた桜を見上げていた。風が吹くたびに花弁が舞い、ふたりの上に降りかかる。白い花弁が、雪永の白い髪に溶けるように紛れた。
蒼馬がそれを見て、わずかに目を細めた。何かを言いかけて、言わなかった。
だが——次の瞬間、蒼馬の手が伸びた。
雪永の髪に絡まった花弁を、指先でそっと払おうとしたのだ。大きな手が、白い髪に触れる。花弁を摘まみ上げ——そして、止まった。
指が、雪永の髪に触れたまま、動かなくなった。
雪永は息を止めた。蒼馬の指先が、耳のすぐ傍にある。その指の温かさが、肌を通じて伝わってくる。心臓が、急に速くなった。
蒼馬の目が——雪永の紅い瞳と、真正面から合った。
ほんの一瞬だった。だが、その一瞬の中に、何かが——言葉にならない何かが、ふたりの間を流れた。
蒼馬がはっとしたように手を引いた。花弁が、ひらりと落ちた。
「……すまない。花弁が」
「——ありがとう」
雪永の声が、自分でも驚くほど小さかった。顔が熱い。耳の先が、きっと赤くなっている。白い肌には隠しようがないのだ。
蒼馬は何も言わず、桜から視線を逸らした。だが——その耳の先もまた、わずかに赤いことに、雪永は気づいた。
風が吹き、また花弁が舞った。ふたりとも黙っていた。だが、その沈黙は——今までの沈黙とは、少しだけ違う色をしていた。
雪永の身体はほぼ回復していた。走ることもできるようになったし、力仕事も少しならこなせた。つまり、蒼馬がここに留まる理由は——もうなかった。
だが、蒼馬は去らなかった。
そしてどちらも、そのことについて口にしなかった。
暗黙のうちに、ふたりの暮らしは続いた。蒼馬が狩りと薪割りを担い、雪永が炊事と薬草の世話をする。それは、ある種の夫婦のような分業だった。だが、ふたりの間にそういった言葉が交わされたことはなかったし、寝所も別々のままだった。
変化は、少しずつ、だが確実に訪れていた。
雪永がそれに気づいたのは、ある朝のことだった。
蒼馬が沢で顔を洗っているのを、ふと窓から見た。着物の上を脱いで、上半身をさらしている。幾筋かの古い傷痕が背中に走っていた。斬られた傷ではない。鞭か——いや、あれは火傷の痕だろうか。蒼馬もまた、何かを背負っているのだと、雪永は思った。
だが、そのとき胸がざわめいたのは、傷痕への心配だけではなかった。
水を浴びる蒼馬の姿が——美しいと思ったのだ。
朝の光の中で、水滴が肌の上を滑り落ちていく。引き締まった身体に、節くれ立った手。それらを見つめている自分に気づいたとき、雪永は慌てて目を逸らした。
顔が、熱い。
何を考えているのだと、自分を叱った。こんなことを思ってはいけない。蒼馬は恩人だ。助けてもらった。世話になっている。それ以上の感情を抱いてはならない。
なぜなら——自分は人ではないのだから。
この想いを告げれば、蒼馬もまた自分を恐れるだろう。白い髪と紅い目の意味を知ったとき、この穏やかな日々は終わる。母と父のように、悲劇で終わる。
雪永は、自分の心に蓋をした。
だが、蓋をしたはずの心は、不意に蓋を押し上げてくることがあった。
蒼馬が山から戻ったとき、「おかえり」と言ってしまった自分。蒼馬が黙って頷き、「ただいま」と返した瞬間の、胸の奥の温かさ。
夕食の支度をしながら、蒼馬が後ろを通り過ぎるとき、肩が触れた。ほんの一瞬の接触。だが、触れた場所がいつまでも温かく、鼓動が速くなった。
夜、囲炉裏を挟んで向かい合って座っているとき、蒼馬が黙って火を見つめている横顔を、いつまでも見ていたいと思う自分。
それは恋だった。
雪永はこれまで恋をしたことがなかった。人の暮らしの中に入り込めたことがなかったのだから、当然だった。だからこそ、この感情が何であるかを理解するのに、時間がかかった。だが、理解してしまえば——もう、知らなかった頃には戻れなかった。
蒼馬のほうも——何かを感じているのだろうか。
雪永にはわからなかった。蒼馬は感情を表に出さない男だった。優しさを見せることはあっても、それが親切なのか、情なのか、それとも——。
あるいは、雪永の正体に気づいているのだろうか。
白い髪。紅い目。傷の治りの早さ。年を取らない身体。蒼馬ほどの男が、それに気づかないはずがない。だが、蒼馬は何も言わない。
それが優しさなのか、無関心なのか——あるいは、別の何かなのか。
五月に入った頃、ひとつの事件が起きた。
その日の朝は穏やかだった。谷川のほとりで山菜を摘んでいたとき、蒼馬が山に入ると言って出かけた。いつもと変わらない日だった。
だが、蒼馬が戻ってきたのは昼過ぎで——その姿を見たとき、雪永の心臓が止まりかけた。
蒼馬が山で猪に襲われたのだ。刀で仕留めたが、牙に左の脇腹をえぐられ、血を流しながら戻ってきた。小屋の前まで来て、刀を杖のようにして身体を支えていた。着物の左側が、赤黒く濡れている。
「大したことはない」
蒼馬はそう言ったが、傷口からは血がとめどなく流れていた。顔色は蒼白で、額に脂汗が浮いている。雪永は蒼馬の腕を掴み、小屋の中に引き入れた。着物を剥ぎ、傷を確認した。深い。猪の牙が肉を裂き、肋骨に沿って長い傷を刻んでいた。内臓には達していないようだが、放っておけば出血で動けなくなる。
「動かないで。縫う」
雪永の声は、自分でも驚くほど冷静だった。だが手は——手だけは、わずかに震えていた。
薬箱から針と糸を取り出した。火であぶって消毒し、素早く傷口を縫い合わせていく。蒼馬は歯を食いしばっていたが、声は上げなかった。ただ、雪永の白い髪が自分の胸元に垂れかかるのを、痛みに歪んだ目で見つめていた。
縫い終え、薬を塗り、布で巻く。雪永の手は震えていた。怪我の処置に慣れていないわけではない。何十年もひとりで山に暮らし、自分の傷も獣の傷も手当てしてきた。
震えていたのは——怖かったからだ。
蒼馬を失うのが、怖かった。
この人がいなくなったら——。
その想像が、胸を鉄の手で掴むような痛みをもたらした。
「雪永」
蒼馬の声に、雪永は我に返った。
「大丈夫だ。おまえの手当ては的確だ。死にはしない」
「……わかっている」
「泣いているのか」
「泣いていない」
雪永は顔を背けた。だが、頬を伝うものを拭うこともできなかった。両手が血に濡れていたからだ。
蒼馬が、血に濡れた手で、雪永の手に触れた。
温かかった。
血で汚れた、荒い手のひら。だが、その温かさが雪永の手の震えを止めた。
「すまない。心配をかけた」
蒼馬が低い声で言った。雪永は顔を上げた。蒼馬の目が、真っ直ぐに自分を見ていた。そこに——今まで見たことのない光があった。
雪永は何も言えなかった。ただ、蒼馬の手を、そっと握り返した。
その夜、雪永は蒼馬の傷口が開かないよう、傍に座って一夜を過ごした。蒼馬は浅い眠りの中で、時折うなされた。雪永はそのたびに額の汗を拭い、水を含ませた布で唇を湿らせた。
夜半過ぎ、蒼馬が不意に目を開けた。
「……雪永」
「ここにいる」
「ずっと——起きていたのか」
「眠れなかった。傷が気になって」
蒼馬は少し黙ってから、呟くように言った。
「おまえは——優しいな」
「優しくなどない。当然のことをしているだけ」
「当然、か」
蒼馬の声に、微かな苦さが混じった気がした。だが、それが何を意味するのか、雪永にはわからなかった。
翌朝から、蒼馬は少し変わった。
いや——変わったというほどの変化ではなかった。だが、雪永には感じ取れた。会話のときに目を合わせる時間が、ほんの少し短くなった。手が触れそうになると、不自然に距離を取る。笑みが——あの、口元だけの微かな笑みが——少なくなった。
蒼馬が何かを抱えていることは、前からわかっていた。浪人と名乗ったが、それだけではない何かがある。旅の途中だと言いながら、旅を急ぐ様子もない。龍狩衆の拠点に単身で乗り込む度胸と腕を持ちながら、その力で何かを成そうという野心もない。
そして今、あの微かな距離。
雪永は不安を感じた。だが、問い詰めることはしなかった。自分にも、語れぬことがあるのだから。




