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龍と人の末裔  作者: 東雲 紅葉


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第三章 雪解けの日々

 傷が癒えるには、時間がかかった。


 折られた指は添え木をして固定されていたが、動かせるようになるまでひと月以上必要だった。太腿の矢傷は化膿しかけたが、蒼馬が薬草を煎じて根気よく治療を続け、どうにか悪化は免れた。背中の鞭の傷痕はしばらく残りそうだったが、龍の血がそれを助けた。人であれば癒えるのにもっとかかったであろう傷が、日を追うごとに目に見えて塞がっていった。


 蒼馬は何も訊かなかった。


 白い髪のことも、紅い目のことも、傷の治りが異様に早いことも。黙って傷の手当てをし、食事をつくり、火の番をした。余計な言葉を発しない男だった。


 それが雪永には、ありがたかった。


 問われれば答えなければならない。答えれば、自分が何者であるかを明かさなければならない。そうすれば——また、あの恐怖を味わうことになる。


 だが、蒼馬は問わなかった。


 最初の数日は、悪夢に苛まれた。眠りに落ちるたびに、洞窟の暗闇が蘇る。鞭の音。自分の叫び声。焼けた鉄が近づいてくる気配。そのたびに雪永は悲鳴を上げて目を覚ました。


 蒼馬はそのたびに、何も言わずに水を差し出した。額に滲んだ汗を、清潔な布で拭いてくれた。「大丈夫だ」とも「もう安全だ」とも言わなかった。ただ、そこにいた。


 ある夜、特にひどい悪夢から目覚めたとき、雪永は自分が蒼馬の腕を掴んでいることに気づいた。爪が食い込むほど、強く。


「——ごめんなさい」


 雪永は慌てて手を離した。蒼馬の腕に、爪の跡が赤く残っていた。


「気にするな」


 蒼馬は何でもないことのように言った。そして——少しだけ迷うような間を置いてから、雪永の頭にそっと手を置いた。


 大きな手だった。温かかった。


 その手の温もりに——雪永は、知らず知らずのうちに肩から力を抜いていた。張り詰めていた全身の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。


 蒼馬の手はすぐに離れた。だが、その余韻は長く残った。


 それからは——不思議と、悪夢の頻度が減った。


 小屋は、もともと炭焼きのために建てられたもののようだった。谷川の近くにあり、杉林に囲まれた静かな場所だった。小さな流れが小屋のすぐ脇を通っており、水には困らなかった。蒼馬は山で獣を狩り、沢で魚を獲り、山菜を摘んで食事をつくった。質素ではあったが、飢えはなかった。


 蒼馬の料理は、美味いとは言えなかった。塩加減が一定しないし、焼き加減にも粗があった。だが、それでも——誰かがつくってくれた食事を口にすること自体が、雪永にとっては数十年ぶりのことだった。最後に他人の手料理を食べたのはいつだっただろう。母が——いや、父がつくった芋粥だったか。あれは、もうずいぶんと遠い昔のことだ。


 蒼馬がつくった味噌の匂いのする粥を一口すすったとき、雪永は不意に胸の奥が締め付けられるのを感じた。懐かしさとも、切なさともつかない、名のない感情だった。


 雪永は最初、寝たきりだった。蒼馬が傍に置いてくれた椀で水を飲み、蒼馬がつくった粥を啜り、そしてまた眠った。目が覚めるたびに、蒼馬がいた。刀の手入れをしているか、薪を割っているか、何かしら手を動かしている。その姿を見ると、不思議と安心した。


 ある日のことだ。雪永は高熱に浮かされていた。矢傷の化膿による熱だった。意識が朦朧とする中で、汗が全身を濡らしていた。


「……雪永。着替えさせるぞ」


 蒼馬の声が、遠くで聞こえた。


 雪永には返事をする力もなかった。蒼馬の手が、汗で濡れた寝間着を脱がせていく。冷たい空気が肌に触れたが、すぐに温かい湯で絞った布がそれを覆った。


 蒼馬は丁寧に、雪永の身体を拭いていった。首筋から腕、そして背中へ。その手つきは、まるで壊れものを扱うかのように慎重だった。


 ——温かい。


 熱のせいだけではなかった。蒼馬の手が触れるたびに、龍の血が静かに反応していた。求めているのだ——人の温もりを。弱った身体が、他者の体温を、生命力を、欲していた。


 雪永はうつらうつらとしながら、蒼馬の手のひらの感触を感じていた。大きな手だった。武骨で、硬い手のひら。だが、その手が布越しに伝える温もりは、これ以上なく優しかった。


「……そう、ま」


 かすれた声で名を呼ぶと、蒼馬の手が一瞬止まった。


「じっとしていろ」


 蒼馬の声は低く、少しだけ掠れていた。


 着替えが終わる頃には、雪永はぐったりと力を失っていた。だが、蒼馬の手が最後に額に触れたとき——その掌の温もりが、熱に浮かされた身体の奥まで、じんわりと染み渡った。


 少しずつ身体が動くようになると、雪永は起き上がれるようになった。囲炉裏の傍に座り、蒼馬が料理するのを見ていた。


 蒼馬の動作は無駄がなかった。刃物の扱いは甘かったが、獣の毛皮を剥ぎ、肉を切り分ける手つきは手慣れていた。火の扱いも巧みだった。薪をくべるタイミング、火加減の調整。野山での暮らしに慣れた人間のそれだった。


 だが、それと同時に——蒼馬の手には、刀豆たこがあった。指の関節が太く、掌には古い傷の跡がある。刀を握り続けてできた手だ。薬草を摘む手ではない。人を斬る手だ。


 それを知っていても——その手が差し出す椀の汁は、温かかった。


 雪永が初めて小屋の外に出た日のことだ。蒼馬に肩を支えられ、入り口から一歩踏み出すと、山の空気が肺を満たした。雪解けの水の匂いがした。木々の芽吹きの緑が、目に染みた。


 雪永は、ふと涙ぐんだ。


 自分でもなぜだかわからなかった。だが、山の光と風と水の音が、全身に涁み渡ってくるような感覚があった。生きていると、思った。あの洞窟の暗闇の中で、もう終わりにしてもいいと思った。だが、今、光の中に立っている。


 蒼馬が雪永の涙に気づいたが、何も言わなかった。ただ、支えている手の力を、少しだけ強めた。


 その日から、雪永は毎日少しずつ外を歩くようになった。最初は小屋の周りだけ。やがて谷川まで。そして、山の小道まで。蒼馬はいつも、少し離れた場所で見守っていた。近すぎず、遠すぎず。雪永が助けを求めればすぐに手が届くが、ひとりの時間も尊重する距離。


 それが蒼馬の、不器用な優しさだった。


「手伝いたい」


 十日ほど経ったある日、雪永はそう言った。


 蒼馬は振り返った。


「まだ早い」


「せめて薬草を——薬草の扱いなら、慣れている」


 蒼馬はしばらく雪永を見つめ、やがて小さく頷いた。


 雪永は添え木のついた手で、ぎこちなく薬草を選り分け始めた。蒼馬が山で摘んできたものの中には、雪永がよく知る草もあれば、見慣れぬものもあった。


「これは——よもぎだな。傷口の消毒に使える。こちらは……甘草かんぞうか。煎じて飲めば咳に効く。これは——これは毒だ。触らないほうがいい」


 雪永が次々と説明すると、蒼馬は意外そうな顔をした。


「詳しいな」


「長いこと……ひとりで山に暮らしていたから」


 その言葉に、蒼馬は何も訊き返さなかった。ただ「そうか」と短く言っただけだった。


 雪永の指の添え木が外れたのは、二十日が過ぎた頃だった。まだ完全ではなかったが、軽いものなら持てるようになった。雪永は蒼馬の代わりに薬草を刻み、傷薬をつくった。炊事も少しずつ手伝うようになった。


 ふたりの暮らしは、不思議なほど静かに調和していった。


 蒼馬は朝早く起きて水を汲み、薪を割った。雪永は囲炉裏で火を起こし、朝餉あさげの支度をした。食後、蒼馬は山に入り、雪永は薬草の手入れや繕い物をした。蒼馬が戻ると、夕餉ゆうげを共にし、夜は囲炉裏を挟んで静かに過ごした。


 言葉は多くなかった。だが、沈黙は重くなかった。ふたりとも、黙っていることに慣れていた。山の暮らしに不要な言葉はなく、必要なことだけを、必要なときに言えばよかった。


 三月やよいに入り、雪解けが進んだ。谷川の水かさが増し、ごうごうと音を立てて流れるようになった。山道から雪が消え、地面に緑の芽が顔を出し始めた。


 ある日の夕暮れ、蒼馬が一羽のきじを持って帰ってきた。


「今夜は、少しましなものが食える」


 そう言った蒼馬の顔に、初めて笑みらしきものが浮かんだのを、雪永は見た。


 雪永がきじの羽をむしり、蒼馬が串を打った。囲炉裏であぶると、小屋の中に香ばしい匂いが満ちた。二人とも無言で食べたが、それは今まで食べたどんなご馳走よりもうまかった。


 食後、蒼馬が茶を淹れた。山の湧水を沸かしただけのものだったが、温かかった。


「蒼馬殿」


「殿はいらん。蒼馬でいい」


「……蒼馬。ひとつだけ、訊いてもいいか」


「何だ」


「なぜまだ、いる」


 蒼馬は湯呑みを唇から離した。


「越中へ行くのではなかったのか。旅の途中だと言っていた」


「ああ、まあ——」


 蒼馬は少し考えるように間を置いて、それから言った。


「おまえがまだ山を歩けないのに、置いていくわけにもいかないだろう」


「もう歩ける」


「本当か」


「少しなら」


「少し、では駄目だ。龍狩衆は容易に諦めん。追手が来たとき、走れないのでは話にならん」


 雪永は俯いた。それは正しかった。蒼馬はたまたま助けてくれただけだ。いつまでも甘えるわけにはいかない。だが——。


「もう少し——もう少しだけ、ここにいてもらえないか」


 その言葉が、どれほど自分にとって重いものだったか、雪永自身驚いていた。誰かにそばにいてくれと頼むこと。それは、雪永がずっと自分に禁じてきたことだった。


 蒼馬は長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「急ぐ旅でもない」


 それだけだった。だが、雪永にはそれで十分だった。


 季節は春へと移り変わっていった。


 蒼馬が山の中でふきのとうを見つけてきた日、雪永は久しぶりに笑った。自分でも驚くほど自然に、笑みがこぼれた。苦いふきのとうを味噌であえて出すと、蒼馬がわずかに顔をしかめ、だが黙って箸を動かし続けたのが、おかしかったのだ。


「苦手なの? ふきのとう」


「苦手ではない」


「顔に出ている」


「出ていない」


 雪永はまた笑った。蒼馬も——笑いはしなかったが、口元がわずかに緩んだ。


 谷に、うぐいすが鳴き始めた。朝早く、まだ薄暗い中で、どこかの枝からぎこちない声が聞こえてくる。春の初めはまだ調子が整わず、「ホーホケキョ」と鳴こうとして途中で声が裏返る。それを聞いて、雪永は思わず吹き出した。


「下手なうぐいすだ」


「練習中なんだ。そのうち上手くなる」


 蒼馬がそう言ったとき、雪永はふと気づいた。蒼馬の声が、最初に会ったときより柔らかくなっている。あの洞窟で初めて見た時の、剣のような鋭さが——少し、丸くなっていた。


 ある晩のこと。


 風の強い夜で、小屋の壁が軋んだ。雪永は眠れず、囲炉裏の傍で膝を抱えていた。蒼馬はすでに眠っているはずだったが、雪永がふと視線を向けると、闇の中で蒼馬の目が開いていた。


「眠れないのか」


「……少し」


「傷が痛むか」


「いいえ。ただ——風の音が」


 雪永は言いかけて、口を閉じた。風の音が、あの日の嵐を思い出させるのだ。母が最後の力で嵐を呼んだ、あの日の。


 蒼馬は何も言わなかった。だが、起き上がって、囲炉裏に薪をくべた。炎が大きくなり、小屋の中が明るくなった。蒼馬は雪永から少し離れた場所に座り、刀を膝に置いた。


 守っている——。


 雪永にはそう感じられた。言葉では言わないが、この男は、自分を守ろうとしている。その事実が、凍りついた心の奥に、小さな温もりを灯した。


「蒼馬」


「何だ」


「……なんでもない」


 雪永は膝に顔をうずめた。涙が出そうだった。泣きたくはなかった。泣けば、せきが切れる。切れてしまったら、もう止められないような気がした。


 だが——涙は、一筋だけ頬を伝った。


 蒼馬はそれに気づいていただろう。だが何も言わなかった。ただ、黙って火の番をしていた。


 それだけで——雪永は、少しだけ救われた。


 翌朝、目を覚ますと、蒼馬はいつもの場所にいた。囲炉裏の前で、静かに粥をかき回している。


「おはよう」


 雪永がそう言ったとき——自分の声が、昨夜よりも明るいことに気づいた。


 蒼馬が振り向いた。


「おう。——よく眠れたか」


「……少しだけ」


「そうか」


 蒼馬は椀に粥をよそい、雪永の前に置いた。湯気が立ち上り、味噌の香りがした。雪永はそれを受け取り、一口すすった。


 温かい。


 この温かさが——囲炉裏の火ではなく、蒼馬から来ていることを、雪永はうっすらと感じ始めていた。だが、その気づきはまだ言葉にならず、胸の奥で小さな種のように眠っていた。


 やがて、芽を出す日が来る。


 それを——このときの雪永は、まだ知らなかった。

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