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龍と人の末裔  作者: 東雲 紅葉


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第二章 刃の中の影

 目を覚ましたのは、何かが壊れる音を聞いたからだった。


 遠くで怒号が上がっている。金属がぶつかる甲高い音。そして——何かが轟く音。洞窟の壁が震えた。


 雪永は腫れ上がった目を薄く開けた。暗い部屋の中、松明が揺れている。その明滅する光の中に、入り口の戸板が破られるのが見えた。


 一瞬、龍狩衆の誰かが来たのかと思った。だが、入ってきたのは見知らぬ男だった。


 闇の中で、その男の顔は半分しか見えなかった。濃い眉に切れ長の目。頬に返り血がかかっている。着ているのは龍狩衆の衣装ではなく、旅装束だった。腰には一振りの刀。刃にはすでに血がついていた。


 男は雪永を見下ろし、一瞬だけ立ち止まった。


 その目が——雪永の白い髪と、紅い目を捕らえた。そして、暴行の痕跡を見た。血まみれの着物。折れ曲がった指。鞭で裂かれた背中。


 男の目に、何かが走った。思いがけないものを見た男の、複雑な表情だった。怒りではない。哀れみでもない。何かを決意するときの、静かな確信のようなものだった。


「……白い、髪」


 呟くような声だった。驚いているのか、確認しているのか、その声の響きからは読み取れなかった。


 雪永にはもう声を出す力もなかった。ただ、紅い瞳でその男を見上げた。恐怖はなかった。もう恐怖を感じるだけの気力が残っていなかっただけかもしれない。


 男が動いた。腰の小刀を抜き、雪永を縛っている縄を手早く切っていく。その手つきは慣れていた。


 縄が解かれた瞬間、雪永の身体は崩れ落ちた。支えを失った人形のように。


 男がそれを受け止めた。


「立てるか」


 雪永は首を横に振った。声は出なかった。


 男は一瞬逡巡したようだったが、すぐに雪永を背に負った。軽い、と男が呟いた。骨と皮ばかりだ——とは言わなかったが、その声には驚きがあった。


「外に出るが、しばらく揺れる。我慢しろ」


 男は洞窟の中を走り出した。雪永は男の背にしがみつくこともできず、ただ揺らされるままに目を閉じた。怒号と剣戟の音が近づき、また遠ざかる。男は戦いを避けながら、素早く洞窟を抜けた。


 外に出ると、夜明け前の冷たい空気が肌を刺し、雪永は思わず身をすくめた。男は振り返らず、山道を駆け下りていく。


 温かかった。ひとの温もりが、これほど温かいものだとは知らなかった。何十年も、誰の背にも負われたことはない。最後に誰かに触れてもらったのは、いつのことだったか。父が頭を撫でてくれたのが、最後だったかもしれない。


 男の背中は広く、大きかった。走るたびに、雪永の身体が揺れる。その揺れが——不思議と、子守唄のように感じられた。意識が漂っていく。男の背中の温もりだけが、この世界と自分を繋いでいた。


「おい、寄るな。まだ寄るな」


 男の声が「寄る」ではなく「眠る」の意味であることは、雪永にもわかった。意識を失えば、そのまま目覚めないかもしれない。雪永は歯を食いしばって、意識を繋ぎ留めた。


 男が流れる血を拭いながら、雪を雪永の傷口に当てた。鋭利な冷たさが、かえって意識を引き戻した。


 男は何度も立ち止まり、雪永の具合を確かめた。脈を取り、呼吸を確認し、自分の水筒から水を口に含ませた。


 なぜ、こんなに丁寧にしてくれるのか。雪永にはわからなかった。ただ、その手当てが丁寧であることだけが、かろうじて感じ取ることができた。


 雪を踏む音が、規則的に響いている。ザク、ザク、ザク。男の息遣いは荒かったが、足取りは安定していた。


 その音を聞きながら——雪永は、意識のふちで思った。


 龍狩衆ではない。それだけは、確かだ。


 だが——それ以上のことは、わからない。なぜ助けたのか。何者なのか。自分をどうするつもりなのか。わからないことだらけだった。だが、この背中だけは——不思議と、怖くなかった。


 男の着物越しに、心臓の鼓動が伝わってくる。力強く、規則正しい。まるで太鼓の音のようだった。あの洞窟の中で聞いた雨の音とは違う。生きている音だ。


 雪永は——生きている。この男に負われて、生きている。


 そのことが——不思議だった。


 しばらくして、雪永は再び意識を失った。



 次に目を覚ましたとき、暖かかった。それが最初に感じたことだった。


 身体の下には藁の敷物があり、上には何枚もの布がかけられていた。壁は粗末な板張りで、天井は低い。小さな小屋のようだった。囲炉裏には火が焚かれ、鍋からゆっくりと湯気が立ち上っている。


 痛みはあった。全身の至るところが、鈍く痛んでいた。だが、傷には手当てがしてあった。布で丁寧に巻かれ、何かの薬が塗られているのが、匂いでわかった。


 男がいた。


 囲炉裏の向こう側に座り、刀の手入れをしていた。白い布で刃を拭き、油を塗っている。


 雪永が目を開けたことに気づいたのか、男はゆっくりと顔を上げた。


 明るい場所で見る男の顔は、端整だった。闇の中で見たときの険しさは薄れ、落ち着いた静かな印象を受けた。年は三十前後だろう。黒い髪を後ろで束ね、旅の汚れが染みついた着物を着ている。しかし、その姿勢には隙がなかった。座っていても、刀に手が届く位置を保ち、入り口を自然に視界に入れている。武芸の心得がある者の、染みついた習性だ。


「目が覚めたか」


 男の声は低く、穏やかだった。


「……ここは」


 雪永の声は掠れ切っていた。喉が干上がったように渇いていた。


「山を三つ越えた先の谷だ。追手は来ないだろう。少なくとも、しばらくは」


 男は鍋から椀に汁を注ぎ、雪永の傍に置いた。


「飲めるか」


 雪永は腕を動かそうとしたが、痛みで顔が歪んだ。指の何本かが、不自然な角度に曲がっている。折られたときの感触が蘇り、胃が裏返りそうになった。


 男は黙って雪永を支え起こし、椀を唇に当てた。温かい汁が喉を滑り落ちていく。山菜を煮出しただけの素朴な味だったが、それがこのうえなくありがたかった。


「……なぜ」


 一口飲んで、雪永は訊いた。


「なぜ、助けた」


 男は少し間を置いてから、答えた。


「通りかかっただけだ」


「通りかかった……?」


「越後から越中へ抜ける途中だった。夜中に灯りが見えた。龍狩衆がこんな山奥で松明を焚いているのが気になって、覗いた。——そうしたら、おまえがいた」


 男は視線を囲炉裏に落とした。


「見捨てて通り過ぎることも、できた」


 正直な言い方だった。綺麗事を並べない。それが、雪永にはかえって信じられる気がした。


「だが、まあ——捨て置けなかった。理由はない」


 理由はない。そう言い切る男の声に、嘘の響きはなかった。


「名はなんという」


 男が訊いた。


「……雪永」


「雪永。——俺は、蒼馬そうまだ」


「蒼馬」。それが男の名だった。


 雪永はその名を口の中で繰り返した。蒼馬。蒼い馬。不思議な名だ。馬のように強く、蒼のように深い。その名が、男には不思議と馴染んでいた。


 雪永が自分の名を告げたとき、蒼馬は少しだけ目を細めた。「雪永」と、ひとつひとつ確かめるように呼んだ。その声の響きが、雪永の胸に残った。自分の名を、誰かに呼ばれたのは、いつ以来のことだろう。


 父が小さな雪永を呼ぶとき、いつも「雪の字」と言った。「雪の字、おいで」と。母は心の中で、優しい音色で名を呼んだ。それ以来、誰にも名を呼ばれたことがない。数十年。その間、雪永の名は雪永自身のためだけにあった。


 蒼馬が呼んだ「雪永」という音が——不思議と、胸の奥に火を灯した。


「蒼馬……どの。あなたは——」


「ただの浪人だ」


 蒼馬は短く言った。


「仕える先を失くした。だから、旅をしている」


 それ以上は語らなかった。雪永も、それ以上は問わなかった。


 互いに多くを語らないまま、夜は更けていった。囲炉裏の火が静かに燃え、小屋の中をほのかに温めている。外では風が木々を揺らし、遠くでふくろうが鳴いた。


 雪永はふと、自分があのまま死なずに済んだことに安堵した。あの洞窟の中で、もう終わりだと思っていた。母の声を最後に聞いて、意識を手放して——。


 だが、ここにいる。


 生きている。


 温かい。


 目の奥が、じわりと熱くなった。涙ではない。涙はもう枯れたと思っていた。だが、温かさが——人のぬくもりが——凍りついていた何かを、じわりと溶かしていくのを感じた。


「……ありがとう」


 声に出したのは、ほとんど無意識だった。


 蒼馬は振り向かなかった。ただ黙って、火に枝をくべた。炎が一瞬大きく揺れ、蒼馬の横顔を照らした。


 その横顔に、雪永は言葉にならない何かを見た気がした。


 それが何であるのか、このときはまだわからなかった。

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