天才再び
朝、寝台で身体を起こしてから、待機を命じられて詰所の椅子に座る今の今まで、コバイン殿下に書いていただいた数式らしきものとにらめっこをしている。
紙を引っくり返したり、裏返して透かしてみるが何も見えてこない。
知っている公式を当てはめたり数字を並べ替えたりしていると、俺の中で何かが焼き切れる音が聴こえた。
「もうダメだ。ユーカ、あとを頼む」
「リートさんが解けないのなら、きっと私も解けません」
「俺の苦手なものは三つある。セロリとでかい虫と数学だ」
昔のことだが、衛兵から騎士へ鞍替えする際に士官教練を受けたことがある。
騎士団には『予科』と呼ばれる従士や見習いが所属する組織があり、そこでは一般教練の他に士官教練も学べる。
予科での試験を終えて騎士昇格が決まった俺は、ついでに士官教練も受けたのだ。
だが、俺は士官への道を二日であきらめることになる。
高等数学にまったく歯が立たなかったのである。
何故だ。何故、指揮官に微分積分の知識が必要なのか。理由を述べよ。五点。
「これは……幾何の問題でしょうか?」
「そうか」
きか、ってなんだ。
あれか、液体が蒸発するやつか。
「あら、リート朝からバテてるの? 二日酔い?」
ちょうどいい時にちょうどいい人が来た。アンルカさんだ。
アンルカさんといえば数学、数学といえばアンルカさんである。むしろアンルカさんこそが数学そのものだといえる。
混乱しすぎて自分が何を言っているのか、もうわからない。
「アンルカさん、この数字と式なんだかわかりますか?」
「どれどれ、……これは二次曲線かな? 円錐曲線ね」
「円錐曲線って何ですか」
「無限に続く円錐面を頂点を通らない平面で――」
「それは魔精語ですか?」
「レスターナ語よ」
ああ、「奇跡を調べる」なんて言わなければよかった。
まさか音楽の調査が数学の謎に変化するなんて思ってもみなかった。
うなだれた俺の顔をユーカが覗き込む。
「本当に数学が苦手なのですか?」
「考えると頭が痛くなる」
「今までの事件でもそうでしたが、リートさんは論理的に答えを導き出せるのだからやればできそうに思います」
やればできる子といわれても、数理と論理は違う。似ているが違うのだ。
アンルカさんが呆れ顔で俺を見てくる。
「リートは感覚で本質を捉えるのが上手なのよ。だから賢く見えるだけ」
「くっ、反論できない」
俺の場合、作曲法が考え方の基礎となっている。
作曲は理論や知識を要求されるが、非常に感覚的な作業だ。まず音を具体化してから、筋道を通して組み立てる。
だから、そもそも抽象的な数学では論理の組み立てまでたどりつけない。
畑の面積や桶の水量を調べる、なんて形で具体化してくれれば、ちょっとは理解できるのに。
「それで、その円錐曲線は音楽に関係あるんですか?」
「さあ? 式も足りないし、私は音楽のことはさっぱりだから……。あっ」
「ん?」
「いるじゃない。この式を解けそうな天才が」
王都南西地区の端へやってきた。
昼下がりの木漏れ日を足元に落とす林道を進むと、丸太組みの大きな家が目の前に現れる。
快適で過ごしやすい天気だが俺の心は晴れない。
「なあユーカ、……本当に行くの?」
「ここまで来たのだから行きましょう。それに、リートさんはご自分で『調べる』とおっしゃいました。きっと解明できますよ」
「うん」
いかん、後輩に甘えてしまった。
苦手なものの連続で思った以上に打ちのめされている。
気を取り直して前向きに行こう。これはロカのための調査だ。依頼人の不安を晴らすことが俺の仕事なのだ。
よし。ノックノック。
「あー、ごめんください。騎士団から参りました」
突然、強い勢いで扉を開かれて後ずさってしまった。
汚れた藍色のエプロンが視界に入る。
「おや、ユーカさんとリトグラフさん、でしたっけ?」
「誰が石版だ」
「はっはっは。こりゃどうも」
そういって自分の腹を叩いたのは、天才科学者フレドーだ。かつて月を作って空の彼方へ打ち上げてしまった人物である。
天才なのは認めるが、あいかわらず小憎たらしい四角い顔しやがってこのジジイ。顔の面積調べてやろうか。
「どうぞあがってください」
「いや、ここで構わない」
「ああそう? 今日は……お茶も……あるよ……嘘だけど……」
死にそうな声でぼそぼそ喋るな。ちょっと笑ってしまったじゃないか。
仕方ない、腹を決めるか。
「わかったわかった。茶葉とカップを買ってきた。邪魔するぞ」
室内に入ると機械らしきものが所狭しと置いてある。
きれいに片付いているな。意外と几帳面な性格なのだろうか。
勝手に鍋で湯を沸かし、勝手に茶を淹れる。
「うわっ……これ便利、すごい使いやすい、何これ?」
「ティーカップです」
「ユーカ、無視していいぞ。フレドー、見てもらいたいものがあるんだ」
数字が書かれた紙と楽譜をフレドーへ手渡すと、食い入るように見ている。
本当にわかるのかね。
「なんだかわかるか?」
「これすごいよこれ、見てこれ、楽譜ですよ!」
「いや、知っている」
「ええええーーっ!?」
驚かれたこっちが「ええええーーっ!?」だよ。
「楽譜はひとまず置いといて、こっちの紙に書かれているのはね、円錐曲線の数式です」
「いや、知っている」
「ええええーーっ!?」
予想通り話が進まない。
まあいい、もう腹は決めた。今日は飽きるまで付き合ってやるぞ。
「でも、これでは式が足りません。運動方程式を使わないと」
「運動方程式?」
「ええ。これは楕円軌道を計算する式です。ああ、こちらの楽譜を数式に変換したんですね。ということは……」
フレドーは楽譜と紙の上で視線を往復させながら、さらさらと記号を書き加え始めた。
ユーカは身を乗り出し「ふむふむ」と言いながら紙を覗いているが、本当に理解できているのだろうか。俺はできない。
「で、何なんだ?」
「これは暗号化された日付と文字ですね。あ、日付って知ってる? 暦の上で何日かを表す数字で――」
「いや、知っている」
「ええええーーっ!?」




