奇妙な会戦
「事件……ですか?」
「戦闘は一度も発生していないのに、犠牲者の数がかなり多いんだ」
アードロンが戦時録の棚から取り出した本は、戦争の客観的な事実記録ではなく、当時の伝令や仕官が残した文書などをまとめたものだ。
「ロンダーン帝国が南のシニエカ独立騎士領へ侵攻したのが始まりなんだが、戦の結末が奇妙でな。だいぶ前に学んだのだがよく覚えている」
ロンダーン軍の侵攻に対し、迅速に反応したシニエカ軍は、周辺住民の避難を開始すると同時に、国境沿いの山岳砦を中心に広大な陣を敷いた。地の利を活かし、山岳戦を得意とするシニエカ軍の精鋭達と、物量で押し潰そうとするロンダーン軍の睨み合いが続き、戦闘が発生しないまま膠着状態に陥る。だが、ロンダーン軍は物資を捨て置き、突如撤退を開始。続いてシニエカ軍が撤退を開始するも、ほぼ全軍が行方不明となる。後日行われた捜索にてシニエカ兵の遺体を多数発見。
「ここまでが公的な記録だ。そして、レスターナの間諜が残した文書がこれ」
侵攻開始から十日目の夜明け頃、ロンダーン軍陣地北側で混乱が発生。兵士が豹変し、周囲の者に対し無差別に攻撃している。攻撃を受け傷を負った者も同じく豹変す。言葉が通じず、その姿は悪魔憑きとよく似ている。同士討ちにより正午までに半数が死傷。その日の午後、混乱を沈静化させたロンダーン軍は撤退を決定。翌々日、帰還中のシニエカ軍内部で同様の混乱が発生。士官数名を残し全滅。
「学者による結論では“悪魔の仕業”ということになっている」
確かに悪魔の仕業としか言いようのない出来事だが、疑問が残る。
まず、調査隊では数々の神秘を経験してきたが、悪魔の実在は一度も確認されていない。仮に、本当に悪魔がいたとして、第三者による悪意が原因ならば同時に両軍を攻撃するはずだ。わざわざ時機をずらす意味が分からない。第一、目的がさっぱり分からない。死者を増やしたいなら両軍の戦闘中に攻撃するべきだ。
病気と考えてもやはり疑問が残る。
兵士なのだから傷は武器によってつけられたはず。兵士達は直に接触していない可能性が高い。次に、睨み合いが続いたのだから両軍は衝突していない。つまり両軍は接触自体が無かった。空気や水を介して感染するなら発生時機がずれるのはおかしいし、周辺の集落にも影響があるはずだ。糧食は両軍で違うはずだし、略奪で得た地元産の食べ物なら、影響がないのはなおさらおかしい。
どちらか一方の軍が毒を仕掛けたか? 同士討ちをする毒?
ないな。それはない。
だが、攻撃によって伝染する神秘を仕掛けた、と仮定すると合点がいく。おそらくシニエカ軍が戦況の打開に神秘を利用したのだ。被害者が短時間で倍増していくと考えると、ロンダーン軍陣地は恐ろしい事態に陥ったのだと想像できる。そしてシニエカ軍は帰還中、神秘の制御に失敗、自滅した。
しかし膠着状態で不利になるのは、敵国で大軍を維持するロンダーン軍の方だ。有利なシニエカ軍が神秘を利用してまで打開を狙うだろうか?
「陛下、どちらかの軍が終戦を急ぐ理由を何かご存知ではないですか?」
「戦の前、シニエカは最後通牒を送られると同時に、周辺各国からの塩の輸入を完全に止められている。何としてでも早く終わらせて他国と協議する必要があっただろうな」
「シニエカに塩坑は無いんですか?」
「ああ、塩が取れる場所はない。備蓄もほとんどないはずだ。山間の小国だから食料も輸入に頼っている。相当焦っただろう」
徐々に百二十年前に起きた戦争の全体像が掴めてきたが、この情報が今回の件に役立つだろうか。分かったのはサーラ先輩の言う「伝染型神秘が使われた形跡がある」ということだけだ。言われたせいで俺が変な思い込みをしている可能性もあるが。
「リートさん、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「シニエカ軍は全滅したのに、ロンダーン軍の半数はどうして無事だったんでしょう?」
「それは……混乱を沈静化させたから、だろう」
「どうやって?」
ロンダーン軍はどうやって沈静化させた? 倍々に増えていく被害者をどうやって押さえ込んだ? まさか被害者を皆殺しにしたのか?
それは無理だ。相手が素人ならともかく、本気で向かってくる兵士に対し、一つも傷を負わずに皆殺しなんてどんな達人でもありえない。野戦陣地だから隔離も不可能だ。
「“身体に触れる”のと同じように伝染から逃れる条件があったんだ。ロンダーンにあって、シニエカになかったもの。ロンダーンがやって、シニエカがやらなかったことがあった」
「ロンダーン軍は条件を発見したということですね」
「そう考えるのが妥当だな」
おそらく発見は偶然だった。対処法を知っていたとは思えないし、知っていたなら半数が死傷するまで放っておくのはおかしい。
そして特殊な条件ではない。陣地にあるものなんて装備に食料に水、あとは工作道具と楽器くらいだ。一度発見してしまえば沈静化は容易だったはず。
これ以上、得られる情報はなさそうだな。
新しい情報は得られなかったが、その代わり伝染型神秘の特徴が見えてきた。伝染を制御するのは不可能に近いが、条件を揃えることができれば沈静化は可能だということである。
「陛下、私達はこれで失礼します」
「ああ。俺にできることがあったら何でも言えよ」
陛下にできることが多すぎて逆に思いつきません。