焦りと意地と皮算用
詰所の書棚に並べられた報告書を前に、俺はどうするべきか悩んでいた。
伝染する神秘に関する報告書は八年前の一つだけしかないと記憶している。それも大したことのない内容で、重要性の低い案件である。
報告書の精査を止めてまっすぐ王城へ向かおうか。ああ、でもランジャック隊長が城に連絡するまで時間をつぶさなくてはならないのか。
……ダメだな。ユーカに余裕を見せておきながら俺自身焦っている。まだまだ隊長のように格好を付けられないようだ。
「ユーカ、棚の右から三番目、上から二番目の束を頼む」
「はい」
サーラ先輩の書斎か、地下倉庫へ行けば情報を調べるのも容易いのだが、その前に逸る気持ちを落ち着かせよう。報告書の精査だって立派な仕事だ。
「これだな」
ある秋の夜。王都南西の街門そばに住むある母子は、夕飯の最後に干したイチジクを食べることにした。イチジクの中に一つだけ黄色くやたらと甘いものを見つけ二人で食べたのだが、その晩、子が見覚えのない老人の夢を見る。翌朝、そのことを母親に話すと、母親も同じ夢を見たのだという。その翌日には隣人が、さらにその翌日には南西地区の一角に住む住民全員が同じ夢を見た。
住民の一人は、夢で見た老人が何者か知っていた。老人はかつて王都でイチジクの栽培に失敗し、失意の中で亡くなった人物なのだという。
「夢の伝染……、不思議な話ですね」
「そうか? アトリの存在の方がよっぽど不思議だと思うが」
「それはそうですけど、でもこの報告書の謎は解決していないんですよね?」
「解決はしていない。調査継続の必要なしと倉庫番人が判断した、と書かれているな」
おそらく調査を継続しても何も分からなかっただろう。原因は母子が食べたというイチジクと予想できるがそれだけだ。現物がない以上、検証もできないし夢の解析もできない。
「この倉庫番人とはサーラさんの前任の方でしょうか」
「そうだ。エグバジルという王室付き占い師の爺さんで、引退して今は東の街壁沿いに住んでいたと思う」
「エグバジルさんにご相談をさせていただくことはできませんか?」
「できるだろうが、話を聞いても何も出てこないぞ」
「聞いてみないとわかりません」
うん、確かにそうだ。
なんだろう、俺自身どうも解決を急ぎすぎている気がする。ユーカの不安な姿を見て必要以上に焦っているのかもしれない。
大丈夫だ。まだ直接的な被害は一つもないし記憶の欠落は対処できる。これ以上事態が悪化するとは限らない。
……こうして焦っていると、調査隊の先輩達はいつもどっしりと構えて俺の話を聞いてくれたことを思い出す。それだけでずいぶんと不安が和らいだものだ。
そうか。俺はどっしりと構えていればいいのか。
「そうだな。王城へ向かう前にエグバジルさんを訪ねてみよう。調査の糸口が見つかればそれでいいし、見つからなくても助言くらいはもらえるだろう」
「……リートさん、急に雰囲気変わってません?」
「なにをいう。俺は頼れる先輩として日々、刻々と成長しているのだ」
「朝はあんなにだらしないのに」
「なっ、ユーカ! 俺をそんな風に思っていたのか!?」
「誰だってそう思います」
何故、俺は格好が付かないのか。これも調査の必要があると思うんだ。
アンルカさんにエグバジル宅へ向かうことを報告しユーカと二人で調査隊事務所を出たのだが、そこで辻馬車に乗るか否かで一悶着あり、結局徒歩で向かうこととなった。
ユーカは「こういう時こそ身体を動かすべきです」と言って聞かないのだが、こう暑いとやる気がなくなるのは自明の理、自然の摂理である。俺は自然に抗う術を持たない、ちっぽけな人間なのだ。
「もうすっかり夏だな」
「朝方の湿気が飛んで良かったですね」
「ああ。夏場は剣の柄を身体から離した方がいいぞ。服の上からでも火傷するからな」
以前、キアフット、ヘクスと「ふとももに短剣を巻けばカッコイイのではないか」と馬鹿な話で盛り上がり実際にふとももへ装備したところ、真夏の気温に長時間晒され熱くなった剣の鍔で火傷をしてしまった。
格好悪くてサーラ先輩へ理由を話せなかったために治療が遅れ、今でも俺とキアフットのふとももには火傷の跡が残っている。
男の意地とはなんともつまらないものである。
東区の大橋に着いた。
王都北を流れるカシリー川と南を流れるバナリー川を繋ぐ人工の幅広い川に架けられた石橋だ。この人工川のおかげで南北の自然川は常に一定の水位を保ち、王都を大水から守る役割を果たしている。
この川に架けられた橋を全て落とすと、西に連峰、他三方を川が囲む形になり、王都全体がそのまま要害と化す仕組みである。作られたのは古く、およそ六百年ほど前だという。
ユーカは橋の途中で立ち止まると、欄干から身を乗り出して橋の壁面を観察している。
「何か珍しいものでもあったか?」
「他の川では掘割の職人さんがいつもお掃除をしているのに、ここにはたくさん苔や雑草が生えています」
「うん、時期によって流れる方向が変わるから、ここは掃除をしない」
春には雪解け水が多いカシリーからバナリーへ、秋になると湧き水の多いバナリーからカシリーへ流れる。連峰に大雨が降れば、やはりその時も流れる方向が変化する。そのため土砂が積もりやすく、いくら掃除をしてもキリがないのだ。
「この川は四年に一度、水をせき止めて浚渫するんだ。王都の住人が全員集まって半日がかりで掃除をする。川が人で埋まる様は壮観だぞ」
「全員って、国王陛下もですか?」
「もちろん。病人と怪我人以外は全員だ。掃除が終わったらそのまま祭りをやるんだ。……そういえば今年は浚渫の年だな」
川を渡ると、東区独特の木を削る匂いと溶鉱炉の匂いが混ざって鼻をくすぐった。
王都の東区には細い運河が張り巡らされており、川の上流から運ばれてきた材木や鉱石を加工する職人が多く住む工房街となっている。
東区で加工された商品はさらにバナリー川下流へ流され、南東のファガナン市にある倉庫まで運ばれた後、そこから大陸各地へと陸路で運搬されるのだ。広く緩やかな流れの川で大量の商品を運べるのだから旅客運送もできそうなものだが、人間を運ぶ船は一つもない。
騎士団を引退したら俺がやろうかな。運河の使用権を買うだけで財が尽きそうだが。
「ここからファガナンまでの旅客船をやったら儲かると思わないか」
「帰りの船を上流へ運ぶだけで赤字になりますよ」
「あっ、そうか。そうだった」
職人組合の運搬船は移動時の税が免除されているのだった。
ってことは、旅客船の営業をするならまず陛下に陳情して……はダメだな。税の免除か軽減をしてもらうのだから話を議会に通す必要がある。まず地区の役員になって……もダメだ。公務員は役員になれない。
俺が国政へ関わるには、騎士団内で出世して近衛隊の副隊長以上になり、騎士団の推薦を受けて議員になる道がある。そこからさらに法案を作らなくてはならないのか。
無理だ。俺にはとてもできない。
「俺にはとてもできない」
「いきなりなんですか」
「俺に議員は無理だ」
「だから何なんですか、もう」




