やらしい先輩
神秘の例外となるには何らかの条件がある、と隊長は言った。
そして今隊長室にいる、俺、ユーカ、アンルカさん、ランジャック隊長の中で、俺だけが条件を満たして例外の存在となっている。
「たぶんリートさんだけ、話を聞く前にしたことがあります」
「俺、何かしたか?」
「朝起きてすぐ、リートさんは私の身体に触れました。その後、アンルカさんの身体にも触れています」
「リート……、お前はもう大人だから上司としては何も言わん。だが年長の男としてお前に言うことが――」
隊長、誤解です。断じて、俺はやらしい先輩ではない。もちろんやらしい気分になることもあるが仕事中は自重しているんだ。
アンルカさんが、ああそういえば、と口を開いた。
「確かにリートに触られたわ。指の動きがとっても優しかった……。身体に触れてから話を聞けば記憶を失くさない、ということかしら?」
優しくてやらしい先輩になってしまった。わざと誤解を招くような発言をしてますよね? 大体、俺に触れてきたのはユーカの方だしアンルカさんだって、まあ、それはいいか。
今朝、ユーカが俺の髪を整えた。髪が俺の身体の一部であるなら触れたのは間違いないし、肩にも触れたはずだ。
アンルカさんの背中についたほこりを叩いた。直接肌に触れたわけではないが、服の上から触れたのは確かだ。
ニラックさんにも背中を叩かれたから、仮に話を聞いていても現象は起きなかった可能性が高い。
隊長が頷き、口を開く。
「よし、三人とも。実験してみるぞ。もう一度ユーカが俺に話せ。俺がユーカのことを忘れたら、記憶の欠落は何度でも有効ということになる。その次にアンルカが俺に触れた後、噂話を話す。アンルカのことを忘れなければ仮説を実証できる」
「危険です隊長! 二度目も同じ現象が起きるとは限りません!」
「構わない。俺達騎士は王国の盾だ。他の人間を犠牲にするよりずっといい」
くそう、かっこいいな。四十路のくせに。
再びユーカが幽霊の噂を話し、隊長が復唱した後、俺が隊長に聞く。
「今の話は誰から聞きました?」
「……何も浮かんでこない。思い出そうとすると心にもやがかかるような感じだ。覚えていないが、俺の前に立っているユーカが話したのだろうと推測はできる」
つまり、記憶の欠落は何度でも有効ってことだ。他の記憶も欠落している可能性があるが、まだわからない。
次にアンルカさんが隊長の横に立ち、背を向けた。
「何故尻を向ける」
「背中です。リートと同じ条件にしないとダメでしょう?」
「すまん」
隊長がアンルカさんの背中に手を置き、再びアンルカさんが幽霊の話をする。さて、どうなるか。
「今の話を誰から聞いたか、覚えていますか?」
「ああ、はっきりと覚えている。アンルカから聞いた。話している姿も思い出せる」
話し手の身体に触れてから話を聞けば記憶の欠落は起きない。服の上からでも有効だ。この条件にどんな意味があるのかわからないが、仮に一時的であっても対処できるのは大きい。
「……リート、サーラが戻るまでユーカと共に調査資料を集めろ。手掛かりを手繰る方法がまるでわからん。闇雲に動いてもおそらく無駄だろう。これを持っていけ」
ランジャック隊長が机の引き出しから取り出したのは、金色のメダリオンだ。王城の書庫と地下倉庫の出入りを許された者だけが持つ許可証である。確か、貸与はできないはずだが。
「城には俺から話を通しておくから問題ない。過去の報告書を精査した後、王城へ向かえ」
「了解」
隊長室を出るとユーカが疲れた様子を見せ、ふう、と息をついた。
配属の翌日から立て続けに事件を解決した上、ここにきて初めて神秘を体験したから、そりゃ疲れも出るか。
「私、不安です……。まさか自分の身に神秘現象が起きていて、無意識に話したり記憶を失くしたり。しかも、そのことに全然気付かないなんて」
「俺も似たような経験があるから理解できる。記憶や精神に影響を及ぼす神秘はきついんだ」
記憶は人格の幹となる大事な情報だ。今の自分を形成している情報に一部分でも嘘や欠落があれば、他の情報が持つ信頼性も大きく揺らぐ。本当に自分が経験したことなのか、それともただの妄想なのか。それを判断する材料は少ない。
「寄る辺は自分の中にしかない。だが寄る辺の位置は他の人が知っている。結局は自分自身と、自分の信じる誰かをそのまま信じるしかないんだ。サーラ先輩の受け売りだけどな」
自分を形成しているものは、何も自分の中にだけあるわけじゃない。他人の中にある自分、自分に触れる他人、自分を取り巻く環境。自身の外側にあるものだって、自分というあやふやな存在を形作っている一部なのである。
「もし、私が間違っていたり大事なことを忘れたら、リートさんが正してくださいね」
「ああ、約束する。俺が間違っていたら顔をひっぱたいてもいいぞ」
「なんですかそれ、ふふっ」
慰めを口にしてから、そういえばユーカは訓練課程を終えた騎士で剣豪の孫だということを思い出した。本気で叩かれたら、俺の記憶は全て飛ぶのではなかろうか。




