義母が亡くなった時のこと
十年ほど前に義母が亡くなった時は本当に突然で。
夕方に家の中でいきなり倒れて、義父が救急車を呼んで病院病院に着いたら緊急手術。
でもその手術中に息を引き取りました。
家人と私と三女、家人の妹と夫と姪が病院に着いたのは手術中でした。長女と次女は関西と東海にいて間に合いませんでした。
元々心臓に持病があったし、動脈瘤や血栓も見つかっていましたから。覚悟はしてましたけれど。
あまり急なことだったので。皆が脱力してしまいました。暫し呆然と立ち尽くしたままでした。
看護師の方が優しく声を掛けてくださらなかったらずっとそのままだったかもしれないと思うほどに。
やがて霊安室に横たわった義母を前にして、葬儀社に連絡しようと家人が携帯を開いた時。
私の携帯に着信がありました。
友人、というより沖縄のことや民謡のことを教えてくれる大事な知り合いである沖縄出身者のAさんからの電話でした。
一体どうしたのだろう?
と思いながら外に出て(霊安室は病院の裏口近くにあったので)電話に出ました。
「はい。熊猫です。」
「熊猫。あのね。違ったら失礼を許して頂戴ね。あなたの身近で年配の女性が亡くなってない?」
「え?はい。実は先ほど家人の母が…」
「やっぱり。ついさっきね、東から白い大きな鳥が飛んで来て我が家の屋根に停まったのよ。」
「はい?もうとっくに暗いですよ?(夜の九時過ぎ)」
「バカねぇ。目には見えない鳥よ。その鳥がね。
『後のことは任せたから。そしてあまり気に病まないようにと伝えて頂戴。』って言って西へ飛んで行っちゃったのよ(確かに義母の亡くなった病院は彼女の家から見て東にありました)。
年配の女性の声だったけど、私には聞き覚えが無くて。
それでふと思い浮かんだのがあなたの顔だったから、あなたの親族じゃないかと思って電話したのよ。
それじゃ、確かに伝えたからね。」
電話が切れたら、私に家人が近づいて来て。
「誰からだった?」
と訊いてきたからAさんの話を伝えました。
そうしたら。家人がいきなり涙を零して泣き出したのでびっくりしました。
家人は義母が亡くなってから
今日様子を見に行っていたら、とか
先週行った時に病院へ連れて行っていたら、とか
ずっと自分を責めていたのだそうです。
そして、
『あまり気に病まないように』
そう言われて初めて母を亡くした悲しみが込み上げて来たのだ、と。
ああこれは確かに母から自分に宛てた言葉なのだと実感したと言ってました。
泣き止んだ家人は気持ちの整理が済んだという顔になって通夜と葬儀の手配を始めました。
全てが片付いた後、家人が
「あの時Aさんからの伝言が無かったら俺何にも出来なかったかもしれない。
でも虫の知らせって普通俺んとこか熊猫のとこに来るんじゃないのか?
なんでAさんとこに母さんは行ったんだ?」
と不思議がっていました。
だから後日、お稽古を再開した私がAさんに尋ねました。家人がこう言ってましたよ、と。
Aさんは当時私が通っていたお稽古場だった沖縄料理店の常連さんの一人でした。
お稽古が終わってお店が開くと私たちは夕食を食べながら反省会?飲み会?をするので常連であるAさんたち沖縄出身者と知り合いになれたのです。
Aさんは「何言ってんの?」という表情で
「あんたたち夫婦に霊感が少しでもあったらそうしていたでしょうよ。無いから私のとこに来たのよ。
熊猫。特にあんたは霊感は無いクセに憑かれやすいからあんたのとこには行けないのよ。成仏出来なくなるから。」
「なんですかそれ?私って悪霊ホイホイ?」
「そんな便利な物があってたまるもんですか(ええ?便利なの?)。一応あんたを守ってるものってそこそこ強いのよ。元気な時のあんたに弱い霊が近づくと消されちゃうかも、ってことよ。全く。」
義母の葬儀を終えて体調を崩した義父は入院して数ヶ月後に義母の後を追いました。
誰もいなくなった家人の実家の後始末はそれなりに大変で。義母のもう一つの伝言
「あとのことは任せた」
はほぼ丸投げだったのだと気がついたと言います。しなければならないからしましたけれど。
私が別の教室に移った後もAさんとは電話で話したりたまに会ったりしていたのですが、何年か前にAさんはご夫婦でニュージーランドに移住しました。遠い。
今でもたまにメールのやり取りはしています。
私からは「☆って沖縄語、なんて意味ですか?」とか。
Aさんからは「▽*のお芝居のDVD、今度沖縄に行ったら探してくれる?お金払うから。」
とかって。
あの時以外にオカルトめいた話はしてません。
Aさんはきっと私向きの話ではないことを判っているのだと思います。
年が明けるともうすぐ義母の命日が来ます。
それで思い出したことです。