第6話 緊急昇格
~前回までのあらすじ~
ドラフト9巡目で横浜海嶺マリナーズへ入団した相沢直人。
春季キャンプでは遊撃と二塁を中心に練習を重ね、初の対外試合では四球から盗塁を決めると、3打席目にはプロ入り後初安打となるタイムリー二塁打を放った。守備でも安定したプレーを見せ、野手として順調にアピールを続けている。
2月18日。
沖縄でのキャンプも後半に入り、日差しの強さにもすっかり慣れた頃だった。マリナーズの二軍は初の対外試合となった沖縄電力戦以降も試合を重ね、相手を変えながら実戦形式の調整を続けている。
相沢も遊撃と二塁を中心に出場を続けている。
11日の名古屋瑞光グリフィンズ戦では1安打を放ち、別の打席では内角球が身体に当たって出塁した。続く14日の千葉湾星ドルフィンズ戦は2打数無安打に終わったが、四球を1つ選び、安打が出ない試合でも出塁は途切れさせなかった。そして17日の西宮阪央ウルブズ戦では3打数2安打。直球を逆方向へ運んだ左前打を含め、この日初めて複数安打を記録した。
初戦の沖縄電力戦を含め、ここまで4試合で12打席。9打数4安打、2四球、1死球。三振はまだ一度もなかった。
沖縄電力戦で放った二塁打以外の3安打はいずれも単打で、本塁打はない。無安打に終わる試合もあったように、毎試合結果が出ているわけでもない。ただ、追い込まれてから際どい球をファウルにし、ボール球には手を出さない。安打が出ない日でも簡単に打席を終わらせず、出塁できる機会を探していた。
高校時代から続けてきた打撃は、プロの実戦に入っても大きく形を崩していなかった。
守備でも同じだった。
試合によって遊撃と二塁を任され、途中で守備位置を変えることもあったが、大きなミスは出ていない。二塁では併殺への入り方やベースカバーのタイミングが求められ、遊撃では深い位置からの送球や広い守備範囲が問われる。
求められる動きは違っても、相沢はどちらのポジションにも無理なく対応していた。正面の打球を確実に処理し、併殺では二塁ベースへ入り、遊撃では逆シングルからでも強い送球を見せる。守備位置が変わっても、プレーに迷いが出ることはなかった。
二軍守備走塁コーチの佐伯からの指摘も、キャンプ序盤より細かな部分に移っていた。実戦での動きを見ながら、守備位置や送球のタイミングを確認する程度で済んでいる。
走塁についても、沖縄電力戦で決めた盗塁だけではなく、打球判断や次の塁を狙う姿勢を含めてその後も変わっていない。
18日の練習を終え、宿舎へ戻ってからのことだった。
「お前、適応早いよな」
同室の内野手・宮原が、荷物をまとめながら隣のベッドから声をかけてきた。
相沢は宮原を見る。
「そうですか?」
「ああ。球はよく見えてるし、とにかく打席の内容がいい。特にストレートの対応がいい。全然差し込まれず、きれいに打ち返せてるよ。高校の頃よりだいぶ速いはずなんだけどな」
「ストレートは速水の球を打ち込んでましたからね。そこまで速く感じなかったです」
「速水って、あの怪物ルーキーか。そりゃ基準がおかしいわな」
宮原が呆れたように笑った。
「でも、そいつ今ちょっと二軍で苦戦してるらしいな」
「あの速水が、ですか?」
相沢の手が止まる。
「記事に出てたぞ。プロじゃ簡単にはいかないってことだろ」
「……そうですか」
高校時代のチームメイトであり、エースだった速水が打者に押される姿を見ることはほとんどなかった。二軍とはいえ、苦戦しているという話は相沢にも意外だった。
「お前なぁ、元チームメイトの状況くらい把握しとけよな」
「自分のことでいっぱいいっぱいだったので」
「意外とそういうところもあるんだな」
宮原は小さく笑い、再び荷物へ目を落とした。
相沢も荷物の整理に戻る。速水のことは気になったが、今すぐ自分にできることがあるわけでもない。
しばらくして、今度は相沢から口を開いた。
「宮原さんは順調ですか?」
「ぼちぼちだな。俺は打撃より守備の課題がいっぱい出されてるからな」
「まだ開幕まで時間ありますしね」
「そうだな。焦っても仕方ないな」
宮原はそう言うと、残っていた荷物をバッグへ詰め込んだ。
その様子を横目に、相沢も手元へ視線を戻した。
野手として実戦を重ねる一方で、投球練習も途切れてはいない。
キャンプに入ってからは野手のメニューを優先し、その日の練習内容や身体の状態を見ながらブルペンへ入っていた。毎日投げ込むようなことはせず、二軍投手コーチの片桐の管理のもとで球数を抑えながらサイドスローのフォームを固めている。
キャンプ序盤には腕の位置を意識しすぎることもあったが、投球を重ねるにつれて同じ位置から腕を振れる回数も増えてきた。
まだ実戦では一球も投げていない。
それでも、ブルペンでフォームを固めるだけだった調整は、少しずつ次の段階へ進もうとしていた。
* * *
2月22日。
長かった二軍の春季キャンプも、この日で終わりを迎える。
その日の午後、相沢が立っていたのはブルペンではなく、グラウンドのマウンドだった。
片桐がここまでの状態を見たうえで、次の段階として打者を立たせたシート打撃を組んだのだ。ホームベースの後ろでは二軍捕手の篠崎がミットを構え、片桐は少し離れた位置からマウンドを見ていた。
「普段通り投げればいい。打者を意識しすぎるな」
相沢はうなずき、マウンドから打席へ目を向けた。
最初に右打席へ入ったのは、内野手の藤堂だった。
相沢は篠崎の構えた外角へ直球を投げ込み、続けて内側を使った。藤堂のバットはわずかに差し込まれ、打球が一塁側へ切れていく。
返球を受けた相沢は篠崎のサインを確認して握りを変えた。低めへ曲がるスライダーに藤堂が手を出し、力のないゴロが二塁方向へ転がった。
片桐は何も言わず、その様子を見ていた。
藤堂との対戦を終えると、続いて内野手の中尾が左打席へ入った。
今度は直球を内外へ投げ分けながら、チェンジアップも混ぜていく。打者が入っても投球の間合いに大きな変化はなく、相沢は篠崎のミットを見ながら淡々と投げ込んでいた。
外角を狙った直球が一球だけ甘く入ると、中尾はそれを逃さず、鋭い打球を二遊間へ運んだ。
相沢は打球を見送ったあと、篠崎からの返球を受けた。安打性の当たりを許しても、表情や投球の間合いは変わらない。そのまま次の打者との対戦へ移っていく。
何人かを挟んだあと、外野手の永井が右打席へ入った。
この打席では、一塁に走者役も置かれている。
相沢はセットポジションに入ると、一度だけ一塁へ視線を送り、間を変えてからクイックモーションで投じた。外角への直球を永井がファウルにすると、次の球では篠崎のサインに頷いてスライダーを低めへ集める。
永井のバットが球の上を叩き、打球は一塁方向へのゴロとなった。
その後も打者を替えながら投球は続き、この日相沢が相手にしたのは全部で7人だった。
中尾には鋭い打球を運ばれ、他の打者にも何球か捉えられている。そうした打球があっても結果に引きずられる様子はなく、内角を狙った直球も篠崎の構えたところへ投げ込めていた。
セットポジションからのクイックモーションも大きく乱れず、走者を置いた場面でも普段の投球を続けられている。
「よし、相沢はここまでだ」
片桐の声を受けて相沢がマウンドを降りると、篠崎もマスクを外して立ち上がった。
「どうでした?」
相沢が尋ねると、篠崎はマウンドの方を見ながら答えた。
「ブルペンの時と同じように投げれていたよ。セットポジションでも問題なかった」
「そうですか。これなら実戦でもいけますかね?」
「短いイニングくらいなら問題ないんじゃないか?」
篠崎の言葉に、相沢は小さくうなずいた。
初めて打者を立たせた投球で、すべてを抑え込んだわけではない。それでも、打者を相手にしてもブルペンで続けてきた投球を大きく変えずに出すことができた。実戦に近い状況でどこまで投げられるのかを見るという意味では、次の段階へ進むための材料は十分に得られていた。
練習後、二軍首脳陣がミーティングルームに集まった。キャンプ最終日ということもあり、それぞれの担当から選手たちの成果や課題が報告されていく。
投手陣の話に移ると、片桐が相沢の投球について切り出した。
「今の相沢なら実戦で投げても問題ないと思います」
「もうその段階なんですか?」
二軍監督の水野の問いに、片桐は頷いた。
「打者を立たせても問題なく投げられます。制球も安定していました」
「それは俺も確認しましたけどね……」
水野はそう返すと、少し考えるように腕を組んだ。
「しかし、フォームを変えてまだひと月も経ってないはずですよ。一度まともに投げられたくらいで実戦は早すぎるのでは?」
片桐はすぐには答えなかった。
水野が何を気にしているのかは分かっている。遊撃と二塁を守りながら対外試合でも結果を残している相沢に、今の段階で投手としての負担まで加える必要があるのか。野手としての成長を評価している水野が慎重になるのも無理はなかった。
「相沢は元々投手ですよ。一から仕上げようとしているわけではありません。そこまで長い調整はいらないと思います」
「それでも、もう少しチーム内で様子を見てからでも遅くないと思います」
水野の言葉に、片桐は一度間を置いた。
「野手としての相沢は順調そのものです。だからこそ、早いうちに投手としての可能性も見ておかないと、この話自体が流れてしまうと思ったんです」
水野は黙ったまま片桐の言葉を聞いている。
「もちろん、すぐに試合で投げさせるつもりはありません。教育リーグまでまだ時間があります。それまでに実戦形式で何度か投げさせて、問題がなければ短いイニングから試したいです」
「教育リーグですか……」
水野は少し考えてから、予定表へ目を落とした。
「そこまで見てからなら、俺も異論はありません。ただ、野手の練習に影響が出ない範囲でお願いします」
「もちろんです」
こうして、キャンプ終了後もブルペンや実戦形式の投球で状態を確認し、問題がなければ3月の教育リーグで実戦登板を試す方針が決まった。
相沢本人には翌日、その方針を伝える予定だった。
しかし翌日、事態は二軍首脳陣の想定とは異なる方向へ動き始める。
* * *
2月23日。
前日に二軍の春季キャンプが終了し、一軍もこの日でキャンプ最終日を迎えていた。
午前中、一軍と二軍の首脳陣がミーティングルームに集まり、キャンプ終了後の選手配置について確認を進めていた。
1か月近いキャンプを終えれば、全員が予定通りに仕上がっているわけではない。
投手陣にも肩や下半身の張りで別メニューとなっている選手がおり、今後の登板予定にはいくつか変更が必要になっていた。外国人選手も来日やチームへの合流時期にばらつきがあり、それぞれの調整段階に合わせて起用を考える必要がある。
そうした事情を一つずつ確認しながら、一軍と二軍の入れ替えについて話が進んでいく。
投手では、先発と救援の両方をこなす荒木健吾を二軍へ回すことが決まった。
荒木は故障したわけではない。今後の実戦に向けてまとまったイニングを投げさせ、状態を確認するための調整だった。
その一方で、一軍の内野陣には補充が必要になっていた。
前日の試合で二塁手の倉田亮介が走塁の際に左太もも裏を痛め、全体練習への復帰には2週間ほどかかる見込みとなった。
さらに、二塁と三塁を守る瀬戸亮平もコンディション不良のため、1週間ほど別メニューで調整することになっている。
どちらも開幕までの復帰が難しいほどの故障ではない。とはいえ、しばらく実戦で使えないことに変わりはなかった。
加えて、正遊撃手の久我慎吾はBWC日本代表に選出され、すでにチームを離れている。
三塁手の寺島拓真と、内野全般を守れるユーティリティの大場健吾は一軍に残っていた。それでも久我が不在の中、倉田と瀬戸まで実戦から外れるとなれば、内野手の人数には余裕がない。
一軍監督の高城が資料から顔を上げた。
「内野手を一人二軍から補充したい。よさそうな奴はいるか?」
二軍監督の水野も、手元の選手一覧へ視線を落とした。
「中尾とかどうですか?」
一軍守備走塁コーチの森下から真っ先に名前が挙がった。
候補に挙がった中尾悠生は、二塁と遊撃を守ることができ、前年も一軍で出場経験がある。急な補充であれば、まず名前が出る選手だった。
だが、水野の反応は芳しくなかった。
「今の中尾は推薦できません」
「そんなに悪いんですか?」
「キャンプに入ってからずっと仕上がりが遅れています。打撃も守備も内容が良くないですし、今の状態で一軍に上げる選手ではないと思います」
水野の言葉は厳しかった。
だが、25歳でプロ7年目。そろそろ一軍に定着するだけでなく、レギュラー争いへ食い込んでほしい立場でもある。それだけに、キャンプ終盤まで調整不足のままという現状を、水野も甘く見るつもりはなかった。
「上げられないほどではないんですよね?」
「もちろん、守らせることはできます。ただ、今ここで一軍に上げても、中尾にとってプラスになるとは思いません。もう少し二軍で状態を上げさせたいです」
高城は中尾の名前を見ながら、小さく頷いた。
「他に候補は?」
水野は少し考えてから、資料を一枚めくった。
「相沢を一度、上で見てもらうのはどうでしょう」
その名前が出た瞬間、片桐と一軍投手コーチの川村がほぼ同時に水野へ目を向けた。
昨日決まったばかりの投手としての調整方針は、川村にもすでに共有されている。
水野は二人の視線に気づいていたが、表情は変えなかった。
「相沢だと?」
高城も思わず名前を聞き返した。
「はい。内野手の相沢直人です」
何人かのスタッフも資料へ目を落とした。
「高卒ルーキーだったよな? ドラ9の」
「何か問題ありますか?」
一軍側が確認したくなるのも無理はない。
中尾には一軍経験がある。それに対して相沢は、高校を卒業したばかりの新人だった。
高城はすぐには否定せず、水野へ続きを促した。
「とりあえず理由を聞かせてもらおうか」
「はい。確かに相沢は新人ですが、想定していたより走攻守すべてで対応できています。二軍レベルではもう十分戦力になっていますよ」
水野は相沢の欄を指した。
高城も資料へ目を落とした。
「活躍しているのはすでに聞いているが、まだ二軍でやるべきことはたくさんあるだろ」
「もちろん、いきなり一軍の戦力として計算してくださいという話ではありません」
水野はそこで一度言葉を切り、資料から倉田と瀬戸の怪我の状態と復帰時期を改めて確認した。
「今は久我も代表で抜けていますし、倉田と瀬戸が戻るまでの間だけでも内野手は必要ですよね? 二塁なら相沢も今の状態で十分守れますし、佐伯も守備面は高く評価しています。足もありますから、途中からでも使えますよ」
高城は口を挟まず、水野の説明を聞いていた。
「それに、短期間でも一軍の雰囲気を感じさせるだけで、相沢にとってはいい経験になります」
高城は少し考えたあと、他の二軍首脳陣へ目を向けた。
「小松と佐伯は異論はないか?」
「ありません。今の相沢が一軍の中に入った時にどれくらいやれるのか、こちらとしても把握しておきたいです」
二軍打撃コーチの小松が答えると、守備走塁コーチの佐伯も同意するように頷いた。
「そうか。そこまで言うなら、少し上げてみるか」
高城がそう結論を出したところで、片桐が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください」
水野が片桐へ目を向ける。隣にいた川村も、何を言いたいのか察したようだった。
「俺も投手の方は続けてほしいですね」
川村がそう付け加えると、片桐は小さく頷いてから続けた。
「相沢は昨日、教育リーグを目安に投手としても調整を進めることで話をまとめたばかりですよ」
片桐も、一軍昇格そのものを覆せるとは考えていなかった。
相沢はもともと野手として獲得された選手であり、高卒一年目のこの時期に一軍から声がかかる機会を、投手調整のためだけに断る理由はない。
ここで何も言わなければ、せっかく進み始めた投手としての調整がそのまま後回しになりかねない。
「その話は分かっています」
水野が答えた。
「ただ、今回は久我が代表で不在なうえに、倉田と瀬戸まで抜けています。それに、高卒一年目で一軍を経験できる機会をふいにする方が、相沢にとってはもったいないと思います」
「まあ、そうでしょうね」
片桐もすぐに否定はしなかった。
相沢が投手と野手のどちらにこだわるよりも、まず試合に出る機会を求めていることは片桐も知っている。今回の昇格を本人が嫌がるとは考えにくかった。
「……分かりました。一軍を優先しましょう」
片桐はそう言ってから、念を押すように続けた。
「ただし、二軍へ戻ったら投球練習再開させます。登板機会もすぐ作ってもらいますよ」
「まあ、それくらいはのみましょうか」
水野が苦笑しながら頷いた。
二人のやり取りを見届けた高城が、改めて話をまとめる。
「じゃあ相沢は明日から一軍に合流させよう。今日中に本人へ伝えて、準備させておいてくれ」
「分かりました」
こうして、相沢の一軍合流が決まった。
前日にまとまったばかりの投手としての調整方針は、これでいったん先送りになる。ただし、その計画がなくなったわけではない。二軍へ戻れば投球練習を再開し、登板する機会も作る。その条件まで含めて、今回は一軍昇格を優先することになった。
相沢にとっては、それより先に野手として与えられた機会だった。
ドラフト9巡目で入団し、二軍からプロ生活を始めた相沢は、キャンプを終えると同時に一軍から声を掛けられた。
二軍で残してきた結果が、早くも次の機会へつながった。
翌日。
相沢直人は、一軍へ合流する。
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