第一話:大賢者、日本へ帰る
薄暗い地下室の中央に一人の男が立っていた。部屋には一つの家具も照明なく、あるのは石の床全面に描かれ、淡く発光している複雑精緻な幾何学模様と、四隅に置かれた一抱えほどある球体だけだ。
球体はそれぞれ、澄、紫、白、緑に淡く発光し、暗闇の中に男を照らし出している。
「よし、行けそうだ……」
なにかを確認するように呟いた男は、ついにたどり着いた苦難の道を回顧する。
彼の名は田中波留。2002年の暮れに埼玉で生を受けた。大きなケガや病気を患うこともなくスクスクと成長し、学業も良好な成績を収めて一流の私立大学に進学を果たした。
けれどもその直後、波留を悲劇が襲った。小腹が減って眠れず、まだ引っ越しの片付けも終わっていないアパートを出てコンビニへと向かっていた深夜の裏路地で、彼は不意に漆黒の闇へと落ちてしまったのである。
その衝撃で気絶してしまった波留は、気がつくと森の中に倒れていた。体のあちこちが痛い。彼はなにがなにやら理解が及ばないまま周囲を見渡した。
――ココどこ?
ヨロヨロと立ち上がった波留は、周囲を観察して困惑することになった。
――俺、路地を歩いてたよな?
周囲はどう見ても薄暗い森。見上げるほどの大木に覆い尽くされていて、人工物は一つとして見えない。
その地が日本ではなさそうだと理解したのは、なんとか森を抜けてしばらく歩いたあとだった。舗装されてないデコボコ道。たまにすれ違う剣で武装したどうみても時代錯誤な集団と馬車。
なんとか街までたどり着いた波留は、奇異の目で見られながらも状況把握に努めた。けれども聞こえてくる言葉が全く理解できない。困り果てた彼は、身なりの良さそうで気も良さそうな老人に身振り手振りで保護してくれと頼み込んだ。
後から思えば、かなりの幸運だったのだろう。波留が頼った人物は街の世話役的存在だった。老人が良心的な人物で地位もあったことが幸いし、この世界で身を立てることができたのだから。
その後波留は言葉を学び、魔法の存在に驚き、歓喜し、生活の不便さをものともせずに魔法を学んでいった。この地、異世界での最終的な目標は日本に帰還すること。そのためには魔法が必要だとすぐに理解できた。
波留は生活の基盤を整えるとともに情報を集め、魔法学に邁進し、実践し、未知の魔法を求めた。その甲斐もあって、もともとの優秀さもあったのだろうが、彼は10年が経ったころには賢者と呼ばれるようになり、帰還への道筋が見えてきたころには16年が経過していた。
その過程で波留は魔道具や魔法薬で革命的発展を異世界にもたらし、大賢者と呼ばれるまでになった。
それから4年の歳月をかけて必要なものを準備し、帰還のための魔法を構築し、波留は今ここに立っている。地下室の四隅で淡く光る球体は四大竜と呼ばれるこの世界最強のドラゴンたちの魔石である。一つで小さな国なら買えるほどの価値があるこの魔石を集める――ドラゴンを倒す――のに4年もかかってしまった。
その球体には膨大な魔力が秘められている。それが4つ。それだけの膨大な魔力が界を渡る帰還魔法には必要だった。死闘とも呼べる戦いを経て波留はこの魔石を手に入れた。それも全て日本に帰る、家族のもとに戻るという意思を貫き通した結果だ。異世界で得た絶大な地位も名声も帰還を妨げる障壁にはなり得なかった。
波留がこの異世界に迷い込んですでに20年。彼は今38歳だが、その見た目はどうみても25歳ほど。魔力に目覚め、保有魔力が一定値を超えると全盛期で老化が止まる。それがこの異世界の常識だ。そこまでに至る者は10万人に1人も居ないが、彼はその境地にたどり着き、軽々と超えていったのである。
それは副産物的効果だったが、波留が望むのは家族が健在なこと。両親はすでに70代になっているはずだ。大手電機メーカーでバリバリに働いていたエリート社員である父も母も、すでに引退しているはずであり、反動が来て老けすぎてはいないだろうか? 病気になって命を落としてはいないだろうか? そんな不安が彼を襲う。
――とにかく今は集中しなきゃ。
界渡りの転移魔法。それは通常の転移魔法とは異なり、次元が異なる別世界へと渡るために波留が構築した魔法である。彼は心を落ちつけ、魔法発動への最終手順へと進むことにした。
波留は手に持っていたスマホ――異世界に持ってこれた数少ない地球由来の物――を床にそっと置いた。床の幾何学模様は地球の位置情報特定のための補助的な魔法陣であり、スマホは別次元にある地球の座標を特定するための触媒である。スマホはすでに壊れているが、触媒として使うには充分だった。
「よし、やるか」
決心したように独り言ちた波留が、床に置いたスマホを通して魔法陣にトリガーとなる魔力を流す。すると床全面が輝きはじめた。輝きはどんどん増していき、彼の姿が見えなくなる。
その直後、波留はスマホが蒸発したのを確認すると同時に、日本の中心を強くイメージしながら万感の思いも込めて帰還魔法を発動したのである。
地下室の光が収まると、床の魔法陣も、四つの魔石も、スマホも、そして波留自身も消え去っていた。
「っ! 痛てて」
暗闇の中でなにかがドサリと落ちる音がした。音源はもちろん波留である。彼はひんやりと漂う冷気の中、暗視の能力を使って周囲を見渡す。
――ここは……洞窟の中? あれは氷柱?
波留の瞳には暗闇の中に垂れ下がる氷柱が幾つも映り込んでいる。鍾乳石は無いが、人が歩けるように金属製の階段がそこにはあった。
――とにかく外に出てみるか。
洞窟の底に敷かれた渡り廊下のような通路を歩き、階段を登り、波留は容易に外に出ることができた。そして彼は願って止まなかったものを目にする。それは階段を登り切った横にあった。
――日本語!
そこには「鳴沢氷穴」と書かれた看板があった。




